スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け直後

(『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』公開直後にFacebookのNoteに記した文章の転載)

「あの映画シリーズ」が終わる。もうそれだけでどういうテンションで迎えたら良いのか分からないという映画だ。とりあえず、悔いのないように迎えたい。ということで、今回も可能な限り早く観られる上映回に、仲間と出かけた。
 そうやって臨んだ『スカイウォーカーの夜明け』、第一印象は、実にモヤっとしたものだった。現場にいたファン仲間には、面白かったとはいったものの… いや、確かに面白い部分はあったが、何か物足りなさというか、裏切られた感覚が残った。1回目鑑賞の帰路、何がまずいのかという問いが、ずっと脳裏に浮かんでは消えた。まずは夜明け前の予想で書いた、やって欲しくない方向の予想が、全て当たってしまったのだ。
夜明け前
 最もやって欲しくないプロットを、冒頭から次々とぶち込まれた。つまり、ダーズ・シディアス(パルパティーン)の復活と、レイの出自。デス・スターが複数登場するという予想は、これも半ば的中だったが(デス・スター並みのパワーを持つスター・デストロイヤーの登場)、これはとくにイヤというわけではない。
 パルパティーンに限らず、死んだキャラの復活は、絶対にやって欲しくなかった。アレだけ予告で露出したから、単純な復活とかだったら製作者バカやろ?と思ってた。ジャンプ漫画でもあるまいし。パルパティーンが復活すると見せかけ、その影や声を巧みに使う新たなダークサイドの集団や、ダース・プレイガスの登場、くらいのことは期待していた(これもこれでジャンプ漫画的かもしれないが、敵ボスの単純な復活よりマシ)。そこで新勢力とかが上手くデザインされていれば、新シリーズもどうぞ作って下さいという気持ちだった。しかし、あんなヒネリの無いことをやるとは…
 自分の中の評価の基準としては、パルパティーンの単純な復活は「下」。パルパティーンの「影」をうまく利用しつつ暗躍する新しい敵が登場するようなお話が描ければ「中」。2番目のような予想と見せかけて、更に想像できないとこまで持っていけば「上の上」と考えていた。さて振り返ると、オリジナル3部作は、とくに予想を覆すような挑戦で幕を閉じた。修行したルークが、EP6『ジェダイの帰還』で父を倒し、皇帝をも倒して大団円と思いきや、皇帝の間に行くと、急に「皇帝を攻撃したら負け」ルールが発動。こんな作品かつてなかった。こんな条件下、どうすればええんや!?と思ってたら、とりあえずルークがベイダー卿を打倒。その後、丸腰と思われた皇帝が、突如手からカミナリを!これも今まで誰もが想像し得ないパターンだった(今は誰もがパルパティーンにはフォース・ライトニングという技があるという事は知っているが、初出のこの時は全く意表を突かれた)。そして、絶体絶命と思われたルークを助けたのが父であるベイダー卿だった。もう、驚きの連続である。もうEP6には、あらゆる予測が無意味と打ちのめされ、そして感動した。それくらいのことをやってのけたラストだったから、オリジナル3部作は伝説になったのだと思っているくらいだ。しかしEP9『スカイウォーカーの夜明け』は、何も良い意味で裏切ってくれなかった。誰もが予測可能な範囲で、後ろ向きにまとまった作品になってしまった。
 シリーズ中、最も好きなのがEP6だ。もちろんパルパティーンの悪魔的演技が最大限披露されているからだ。そしてEP1~6は全て、パルパティーンの狡知と遠大な計画に対峙するライトサイドの戦いという形で成り立っている。パルパティーンの魅力無しに、スター・ウォーズシリーズの面白さは無い。このパルパティーンの魅力的なところはどこか。自分の能力で出来る範囲を熟知しているところだ。自分の能力で動かせない物事は、上手く人を利用し、組織を利用し、それでもダメなら数十年にわたって準備をして雌伏の時を費やす。念動力も予知能力もセイバー戦の能力も、どれもそれなりに高いが一人で全てのジェダイを抹殺できるような力はない。おそらくEP1以前の時代からオーダー66の準備を始め、分離主義者を育て、ダース・モールを育て、デュークーをそそのかし、アナキンを味方に引き入れる。恐ろしく迂遠な作戦を、数十年かけて準備し皇帝の座を獲得した。個人の能力の限界を知っているからこその遠大な計画だ。こういうところにパルパティーンの魅力はあった。ところがである。EP9のパルパティーンの力は、もう最初から超常世界の大魔道師で、なんでも出来てしまいそうな勢い。要するに、最後のボスとして無理矢理復活して引っ張り出され、短時間で見せ場を作るために、桁違いのパワーを付与された感じだ。こんなに強いのなら、最初からオーダー66やらクローン戦争なんていらなかったじゃん、という勢い。ここにパルパティーンの扱いの雑さを感じ、大変ガッカリしたのである。
 さて、EP7『フォースの覚醒』とEP8『最後のジェダイ』は、ディズニーになったからダメになったとかいうが人いる。ボクはそういう事は全く感じていなかった。どちらも、ディズニーファンタジー的な要素を極力排除する配慮がされていると感じた。EP7は、できるだけEP4的なノリをかぶせ、新シリーズのキャラと、旧シリーズのキャラを合流させていく。あまり冒険的試みはないが、無難な離陸を遂げた作品と感じていた。EP8は、あらゆる予想が無意味であるという冒険的試みの連続。思えば、JJ監督が保守的で、ライアン監督がラディカルだったわけで、適材適所の起用といえる。そして、人をあっと驚かせる作品として幕を閉じるなら、EP9はライアン・ジョンソンか、同等にラディカルな作品を作れる実力のある監督を起用しなければならないところだった。そこに、無難にまとめることを期待されたJJを再登板させた結果、今度のような事になってしまったのだとすれば、失敗は監督の起用の段階で決定していたのかもしれない。ライアン降板からJJの再登板は、どうしても避けるべきシナリオだった。それはともかく両者とも、ディズニー色が出ないような配慮はしていたと思う。ところが今回、ラストバトルの後のあのシーン… これが一番やって欲しくなかったディズニーファンタジーよ、と思った。ああ、これ、白雪姫か何かですかって。正直、あのあたりは、何の映画を観ているのか分からない状態だった。
 問題のシーンで登場したフォース・ヒーリング。本作では何度か登場する。いくつか新技が登場しても良いとは思う。EP8のルークの遠隔ビジョンとか。ただ、作品全編を通じて、一応やめておいた方が良いというものもある。それがフォース・ヒーリングだったと思う。そんな技があるなら、クワイ=ガン死なずにすんだのに、と思ったファンは多いだろう。
 とにかくこんな事を考えながら、最初の鑑賞後は、気分が悪くて寝付けないぐらいだった。
 ただ1回目の鑑賞翌日に、すぐに2度目を観ることになっていた。この時には、まずいプロットに対して脳内補完が働き始めており、そこそこ楽しめる部分もあった。そこで、改めて時間をかけて脳内補完を行い、3度目を鑑賞することにしたのである。(つづく)

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