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YS3.9 背中は押してもらおう

さて、ヨーガ・スートラを有名たらしめる八支則の説明を経て、最後の3つのステップであるサンヤマについての説明が続きます。前回は、そのステップは段階的になされるべきであるということ。さて、今回は。
だいぶ久しぶりの更新になりましたが、引き続きどうぞごひいきに。

※前回は、こちらの「YS3.7-8 さらにもっとその内側へ」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第3章9節

व्युत्थाननिरोधसंस्कारयोरभिभवप्रादुर्भावौ निरोधक्षणचित्तान्वयो निरोधपरिणामः॥९॥
vyutthāna-nirodha-saṁskārayoḥ abhibhava-prādurbhāvau nirodhakṣaṇa cittānvayo nirodha-pariṇāmaḥ ॥9॥

生起してくる印象〔サンスカーラ、雑念〕は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、ニローダ・パリナーマ〔止滅転変〕である。(2)


日本語の解説書インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参考2。以下、インテグラル・ヨーガ)を参照させてもらった、上記の今回のスートラ。日本語で書かれているのにとても分かりづらい。つくづくそういう領域がトピックなっているんだなあと思うところです。

まずは一番始めの、「生起してくる印象〔サンスカーラ、雑念〕」というところについて。印象、またはサンスカーラを覚えているでしょうか。

( ↑サンスカーラ初出の回)

サンスカーラは、馬車が作る車輪の跡である轍[わだち]のように、過去の経験によって潜在的に刻み込まれた跡のこと。地面に残された轍をつい馬車がなぞってしまうように、意識下に残された印象をなぞって同じような行動や思考のパターンを繰り返してしまう、その原因と考えられています。

五感で何かをとらえたり、行動を起こすと、それらに紐づいたサンスカーラが生まれてきてします。でもそれではヨガの目的である心の作用を死滅することの邪魔にあるので、静かにしたい。そもそも、いまこのスートラでは、サマーディに片脚踏み込んでいる状態。そこでも生まれてくるサンスカーラ。でもそれに代わる心の動きで、それ以上の発生を抑止していく。


その心の動きによって分類される状態は、3つの段階を経ると書いているのは、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)です。サマーディ・パリナーマ(samadhi parinama)、エーカーグラタ・パリナーマ(ekagrata parinama)、そして最後にこのニローダ・パリナーマ。

たとえばオームというマントラを集中の対象に据えたとき、他に意識がもっていかれることがなくなり、そのマントラに意識がぎゅっと押さえつけられている。その状態が、サマーディ・パリナーマ(samadhi parinama)と呼ばれる、平静で安定した状態。

そこから、集中の対象に決めたマントラすらをも消えていく段階に入るが、心の中には一定のながれが引き続き存在する。それはそのマントラが、消えて、現れ、消えて、現れを繰り返すというながれ。なんじゃそりゃと思った方、わたしもそう思うので、もうちょっと一緒にがんばろう。

これもインドの哲学の話でちょこちょこ出てくる、オイルランプで例えられることの多いこの状態。オイルランプとは油を燃料にした照明なわけですが、光が一定に供給される。光は一定に供給されるけど、その源にあるオイルは刻一刻と変わるわけです。1mlのオイルが灯りのために消費され、さらに次の1mlのオイルが次のコンマ何秒かの灯りのために消費される。同じものとを見ているようだけれど、その源が変わるのであれば、その灯りは実は違うものである、ということ。

だから、集中の対象に置いたマントラはその先で消える、けれどまた本当は同じものではないけれど同じ"かたち"で戻って来る。それはたぶん、五感のその先でしか感じられない断続的な繰り返し。これが、エーカーグラタ・パリナーマ。

それを続けていくと、前の意識に戻ることもあるけれど、そのマントラが消えた一定の全くの空白の時間がある。それがニローダ・パリナーマ。


どこまで詳細に見にいくか

分からん、と思うし、簡単に分かるとおもうのは違うだろうなとも思うところです。第3章はなみじゃない。ヨガインストラクター養成講座でもいかない領域だとおもってますが、あってますかね。

瞑想を継続して練習していると、瞬間的な空白を経験することがあるけれど、それはニローダではなくラーヤ(laya)だよといいます。その違いは、前者は意識的に段階を踏みながら起きることだけれど、後者は無意識的に起きると、フォーチャプターズは注意喚起を。

そしてハリーシャ(参考3)は、わたしたちの背中を教えてくれるポイントをそこに置きます。

ただ繰り返し練習することによって、自分の本当の質を認識することができるし、その瞬間つまりニローダ・パリナーマが少しずつ長くなり、そこに納まることが少しずつできないことではなくなっていく。きっとそれは、雨粒が葉っぱから葉っぱに落ちていくようなんだろうなと想像します。それは「いいもの」だとおもう。だから、では練習してみよう、そしてそれが本当にそうか確かめに行ってみよう。

だから改めて、ハリーシャはサンスカーラは悪いことばかりではないと言うのもちゃんと思い出しておきたい。サンスカーラそのものではなく、それが思考や行動にどう結び付くかが問題なので、悪いことばかり引き起こすというわけではないです。そのうえで、そういうのを焦らずにゆっくり過程を踏んでいくんだよというわけです。そして、その先を望むなら真摯に練習しようぜというわけです。


でもやりませんか

出落ちみたいな話ですが、それに尽きるかなあと。望めば叶うみたいなことの裏に求められるのは、望み続ける持久力と、それ本当に望んでますかという(あんまり楽しくない)内省だとおもっています。

望んでいることの下に隠れている渇望。それを知って、ああだからかとすっきりしないでもないけど、結局のところ本当に取り組むべきラスボスみたいなのに合う羽目になるので、あんまり楽しくないよなあと思います。勇気がいる。でも、それをなんとかしないと、結局また同じところに戻ってくる。そして幸いなことに、人生はとても長い。


もう一度書きますが、このヨーガ・スートラは、分かっている人には第1章2節で用が無くなる仕様なわけです。でも、もっと説明が必要な人のために、113節かけて(計算間違ってたら教えてください…)みて、またスタート地点に戻ってくる。

最初に読み始めた自分と、いまの自分の違いを探しに行く時間を、是非ここでつくりましょう。ディアーナとダラーナの話を覚えている方は特に、今回のスートラのそんなに細かく自分を内省しに行くんですかというのはびっくりすることじゃないかなあとおもう。でも、準備ができてるから、ここでパタンジャリはここまで詳細を説明しに来たんじゃなないかなと思うのです。

だから、もうちょっと練習を続けてみよう。それがよりどころかなあと思います。

次のスートラからは、マインドセットではなく実用的な話になるというので、それに期待しつつ。まだまだいこう。こころにある、ヨガに臨むものがヨーガ・スートラと全くの一致でなかったとしても。


たぶん更新は不定期になるかなと思いますが、少なくても2週間に1回は!と思っています。まずは自分のために続けるし、同じところにいる人の小さなでも確かな役に立てるといいなと思います。

いろいろさてきおき、またここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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