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“マルジナリア”は“門前”では止まれぬ


これまでいろいろな人たちが、蔵書の余白に書き込みをしたマルジナリアが残っている。そこにはそれぞれの人がどのように本を使ったのかという息づかい、本との接触の痕跡が残っている。それを眺め味わってみることで、ひょっとしたらそれまで必ずしも見えていなかった、その人のある面が見えてくるかもしれない。
         ー山本貴光 『マルジナリアでつかまえて』


マルジナリアに“門前”はあるのか?

 吉岡浩満氏の『哲学の門前』(紀伊國屋書店)が世間を賑わしている中、僕はまだ“マルジナリア”にこだわっている。


『マルジナリアでつかまえて』の著者 山本貴光しも『エピグラフ』に既に行ってしまった…まるでカフカの『道理の前で』の門番のように………


「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」

                     -フランツ・カフカ『道理の前で』より


マルジナリアに躊躇しているあなたへ

 そう、カフカの「道理の前」の門番が言うように「入っていい」とか「入るべからず」の問題では無いのである。「貴方の為の門」なのだ、何を躊躇する事があろうか…

私も古書店に生まれ“古書御法度”のトラウマを跳ね除けこの“門”をくぐった。躊躇するのは知らぬ間に植え付けられたマルジナリアに対しての”穢れ“とも言えるような意識だ。それさえ拭い去れば“門”をくぐった事になる。

ヤマザキマリ氏はNHKの番組の中で、幼少期からお気に入りの昆虫図鑑の一番お気に入りの蝶に印を付け、オマケにリボンまで描いていた。
これが普通に幼少期の絵本、図鑑への向き合い方だとおもう。

人のマルジナリアの始まりは、子供の頃にお気に入りの絵本や図鑑に落書きをした記憶は誰にでもあるはず、その落書きを後に後悔したり、大人に叱られたりしながら、気がつけば、マルジナリアから遠ざかってしまう。「お気に入りに書き込む」これが、すでにマルジナリアでは?と考えると「マルジナリアに門前はない」

さあ、進もう!
いざ行こう!
ギャアティ ギャアティ ハラソウギャアテイ ボージソワカ
マルジナリア〜

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