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通天閣まで駆け抜けろ!

日本橋はニッポンバシ


 知らん間にと言うか、気がついたらと言えばいいのか…
個人的には気がついていない事にしておきたいが、既に元号が令和五年と世間は言っている。
 僕が生まれたのは“昭和”で平成、令和と続いた、僕の両親も昭和生まれで、祖父母は明治だ。“明治生まれ”と聞くと、ある種の”威厳“や”品格“を感じるが“昭和”と聞いて世間様はその響きに何を感じるだろう?個人的には“カオス”の様なものを感じとっている様に思う。
 生まれ育ちが大阪の日本橋五丁目読みはニッポンバシゴチョウメです、まあ日本橋と書けばニホンバシと「お江戸♪ニホンバシ〜♪」の感じで読んでしまうと、予想して
「大阪はニッポンバシやで〜」とアピールしてみた。

 日本橋は南北に通る日本橋筋があるコレも、大阪の人から「堺筋やろ!」と度々突っ込まれるが恵美須町から日本橋四丁目あたり(高島屋別館)までが日本橋筋商店街なので、これもあえて、日本橋筋と書いたが今は住人でも無いのでどうでも良いと言えばどうでもいい。

新世界のビリヤード屋


 生まれ育ちの日本橋五丁目は、ほぼ“恵美須町”で家を出て30秒で恵美須町の交差点、3分で通天閣だ、昔はこんな話しをすると必ず『じゃりんこチエ』の世界ですね?と80%の確率で合いの手を、入れられたもんだが…今はまず無い。

 『じゃりんこチエ』ですよね!と言われても、トークが広がらんし「そーですね〜」ぐらいいの返事が精一杯でその後、案の定「………」となるか「チェちゃんみたいに下駄履いてる子いてました?」と強引に「じゃりんこチエトーク」をどうしても続けたい輩もいた様な気がする。
「そら、さすがにおらんで〜 ハ、ハハハ」と乾いた笑で誤魔化すしか無い。

 そんな「じゃりんこチェちゃん」的なエピソードを期待する輩に話しするエピソードも少なからずある。(あるんやったら、乾いた笑いで誤魔化さずに最初から話しをしろと思うであろうが、それは虫の居所次第なのだ、現代的に言い替えると「気分次第」だ。)
 中学生時代のとある休日に古本屋の店番を手伝っていたら、二人の見たことのある後輩が店に駆け込んできて

後輩「た、大変で〜大変で〜」
ワシ「どうした?」
後輩「今、

新世界本通りのビリヤード屋でヤクザにからまれて二人捕まってんねん…助けたって‼︎」
ワシ「ガッテンだ〜」とは言わない。「えっ、え〜」と言いながら新世界へ向かう

「新世界本通りのビリヤード屋とうちの店との間には“浪速警察”があるんやけどな〜」
「通天閣の下にも交番あったよね〜」と思いながらビリヤード店に走った話しをしたりする。
 「で、どうなった!」

 ビリヤード屋に着いたら、ヤクザも後輩の仲間たちも既にいない。
ビリヤード屋のオヤジに尋ねると「どっか行ったわ〜」と適当な返事。
通天閣へ向かう途中で“後輩の仲間たち”を見つけ
「ヤクザはどうした?」と聞いたら「別の先輩が助けてくれてん!」「ヤクザはボコボコにされて通天閣の交番に放り込まれてた」と聞いて胸を撫で下ろす。

 このエピソードで一番気になったのは顔を見たことがある程度の“後輩とその仲間たち”が何で僕に助けを求めてきたか?
 学校で有名な武闘派ではない、素行もこの地域では品行方正と声高らかに宣言しても問題ない程度の素行(あくまでも、この地域限定)

 身に覚えが有るのは…

小学生の時は…浪速警察少年柔道部に所属していた…弱い、弱すぎる…

昔難波にあった大阪球場の空手教室に通っていた…これだ…

その頃「あいつ空手やってるってよ」は凄い勢いで噂になった…
マンガの「空手バカ一代」がブームで

極真空手に入門=強いと思ってっもらえる時代だったんだよな〜

日本橋の古本屋


 空手の話しはとりあえずほったらかしにして。
日本橋(ひつこくニッポンバシと注釈の様なモノを入れておく)と言う街は何かと「集まりやすい場所」だったらしい。
 うちの店は(うちの店と言っても今はもう無い)戦前に祖父が新世界の夜店から始めて戦前に日本橋筋に店を構え、焼け野原になった後にも日本橋に店を再建しした、戦後直ぐには日本橋に写真の専門学校ができちょっとした学生街のになると古本屋が何店舗もできたそうだが、その店はもう全部無くなってしまった。

 やはり大阪の古本屋を少しばかり俺は詳しいぞ!と言う人は「ちょっと待った〜!」「島之内、黒門市場の近くにあるやないか〜」と言いたくなるだろうが…
「宮本書店さん頑張ってはるけど、僕が言う日本橋の古本屋街のずーっと後にできたお店なんですわ〜」と言っておく。

 日本橋(ニッポンバシ)は戦後、家具屋さん、電気屋さんが集まる通りに変わり電気屋さんだらけの通りに変貌する、これは「私の記憶が正しければ」“五階百貨店”の影響が大きいと聞いた気がする。
戦前はまさしく「5階建の百貨店」で戦後その跡地に“ジャンク屋”と呼ばれる米軍払下げの部品屋が立ち並び、“部品屋”と無線屋が電気屋に変化していったと記憶する、その後パソコン関係のちオタク街となった。
 そんな日本橋(ニッポンバシ)の島之内辺りに第一期「大阪府古書籍商業協同組合」ができてその後、アメリカ村に移転した、今の古書組合は言わば三代目古書組合は天三に移転したらしい。

古書組合がアメリカ村にあった頃は僕もよく出入りしていて、梅田のかっぱ横丁の古書街の店主や難波大阪球場古書街の店主にかわいがって頂いた(かって相撲部屋が行なっていた“かわいがり”ではない)、中でも日本一で店をしていた(現在は西区九条の本店のみ営業)昭和書籍さんには足を向けて眠れない。

 僕の父より年上の先達たちがこのぺいぺい野郎に対して、丁寧に挨拶して頂き面喰らう事も度々あった「お爺さんには世話になった」と口を揃えて言ってくれて、祖父の偉大さを実感したりするもんだし「俺って凄いやろ!」と自画自賛する事は野暮ったいと学んだりする。
 また逆に「父の寂しさ」も感じ取ってしまうぺいぺい野郎(注:paypayではない)なのである。
 そんな古い風習がまだ残る古書業界では“あまやかし”は禁物と理不尽な風当たりを感じる場合もある、顔お見る度に「ちゃらちゃら音楽なんかやってた奴に勤まる訳がない」と罵られ(この予言は後に現実となった) 著者や書籍名を間違うと馬鹿にされ(そらそ〜やろ)ながらも「これも勉強」と思い過ごすのは当たり前の時代だったであろう。

古本屋もそれぞれ

「古本屋」と言う言葉はさまざまな面影を纏っている。
本が好きな人 本を売る人 本を買う人 新刊しか買わない人 
古本しか買わない人等

 古本屋だからと言っても「本好き」とは限らない、二代目、三代目は親から引継ぐのは「本」としてではなく「商品」としての目線の様な気がするただ、親が教えようとすることを子が真っ直ぐに受け止めるわけがない。

 僕の両親が熱心に本を読んでいた記憶は無い、父は「歴史読本」が好きだった記憶がある。
 母の関しては“家庭の医学”が大好きで“民間療法”の特集記事が大好物と言う、普通のオバハンだ。
そのくせお客さんとの会話で「山村美紗の何が、どうたらこうたら…」西村京太郎が…ハーレクインロマンスが…」としっかり接客するテクニックは習得していた。
続く………


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