「教誨師」

これは興味深い本だった。日々、死が身近にある人々、つまりは死刑囚の心のケアを行う教誨師のレポート。

フツー、俺らにとって死は遠い話で重大な病気にでもならない限り、死を意識することはあまりないだろう。この日常が永遠に続くように思う。

しかし、死刑囚は、今は生きてるが、明日は死んでるかもしれないのだ。凶悪犯罪を犯した結果だとはいえ。

日常の思考の大半が「死」で占められている死刑囚の、とりあえず進む方向は大きく2つあるという。

一つは、思考を止めて、全ての苦悩を忘れ、諦めて、目の前で起こることのみを見つめて淡々と過ごすこと。もう一つは、残された時間を生きる意味をなんとか見出そうともがくことだ。常に、絶望、恐怖、虚無感に苛まれているのはいうまでもない。

そこで、両者に、自分が犯した罪に向き合うことと、残された時間で、生きることの意味を考えさせるのが教誨師の仕事である。平穏に死に向き合うために、仏教やキリスト教の教えを使って共感させるのだ。

本に出てくる教誨師は、50年間に渡って死刑囚と対話を重ね、時に死刑執行にも立ち会う中で、死刑囚に教え諭すというよりも、ただ会話の糸口を見つけて話を聞くことに徹し、その流れで仏の教えを伝える。

死刑囚には気の小さい者が多く、彼らは殺すためよりも“逃げる”ために殺人を犯す。

死刑囚となって初めて命の尊さを悟って、菩薩のようになって吊るされていく者も少なくない。他人の命を消す大罪を犯したからこそわかる生きることの意味や尊さ…なんとも虚しいものだね。

人間の世界で唯一絶対のものは、ただ「死」である。そんな中で、世界が不条理に満ちているのは当たり前。しかし、悲しみや苦しみも、一生の流れの中で止まることはない。それを仏教では「無常」というが、幸せが永遠に続くことがないように、悲しみや苦しみも永遠に続くことはない。だからこそ人間は生きていける。必ずやって来る悲しみや苦しみからの解放はただ死しかない。人間は死に向かって生きているのではない。迷いながらも最後の瞬間まで命を全うするために生きているのだ。だから、どんなに苦悩がやって来ようとも生きるべきで、またそれを寛容する社会が必要だと思うのだ。

俺は、今の不備だらけ(だと思う)の死刑制度には反対だ。国家が秘密裏に抹殺し、被害者のことを蔑ろにしてると思うからだ。

死刑存続の意味を問うと、ほとんどの人が「殺された者の気持ちを考えるとやむを得ない」と定番のように答える。しかし、本当に貴方が被害者のことをわかっているのか?被害者の命のことを少しでも想像したことがあるのか?実際に執行を行う係官が心を病む問題を知っているのか?

イヤでもとことん生かして反省させて、作業で得た収入を被害者側に送る方が、まだ社会のためには良いと思うが。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。