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キオクノート #17  5年で辞める気だったのに姉妹店「土佐堀オリーブ」を開店した話

燃え尽き症候群っていうのでしょうか、融資のお金を返済してしまってからは料理に対しても経営にしても何か身が入らず、ランチをやめたりやったり、休日を増やしたり減らしたり、お客様からしたら混乱しかない営業をしてしまうこともありました。

スタッフも一周して円満に卒業していき、また新しく仲間が増えていて、この頃にそろそろ実家の畑に手をつけたいなと漠然と思い始めていて、そちらへの興味も沸いてきていました。

「5年でやめて農業をやろうかな。」

その5年目、今まで周年イベントなど一回もしたことがなかった店ですが、5周年のパーティを開催することになりました。今までお世話になった方々、同業の仲間たちみんなに案内を送って、立食パーティで食べ放題、ワインも仲良しのワイン屋さんに協力してもらってたっぷり用意しました。その日は開店以来最高の売り上げと客入りを記録します。

でもそれよりも、自分とこの店がこんなにもいろんな人に愛されていたんだと感激してしまったのが一番心に残り、「ダメだまだ終われない、できることは、まだあるんじゃないか?」と考えが一変したのです。

まずワイン。この頃ワインに詳しい友人やスタッフが増えたこともあり、ぼく自身のワインに対する接し方が変わり、たくさんの種類と知識とアルコールを吸収することになります。

もうひとつは野菜。開業からずっと実家の祖母の作った野菜を扱ってきていたのですが、その可能性にも注目したいと思うように。それが農業をしたいという動機に繋がっていたんですが、それをまだお店として落とし込むことが出来るんじゃないかと思い始めます。畑があって安心できる生産者がいるなんて料理人としてこんな恵まれたこともないのでは、と。

そんな構想をそこから2年。

仲間集めと場所探しがスタート。

仲間の一人はある時、お茶してたら突然お手製の自分のやりたいことが描かれたスケッチブックを差し出してきた。その中身はとても色彩豊かに細かくまさにぼくが考えていた新店の構想そのものが描かれていてびっくり。その場で仲間に誘ったことは忘れられません。もう一人はぼくの元で腕を上げてきていた料理人。賄いが美味しくてその中でも和食が得意だと思ってました。料理はセンスによるところが大いにあると思っているのでセンスありに認定。メインの柱が決まったのであとは募集をかけて採用することにしました。

場所は羽山料理店の近くで自転車に乗ってうろうろうろうろ。最初に見たいまいちだと思っていた物件を羽山料理店も設計してくれたデザイナーさんと再訪すると、図面を引いてくれ、それを見て即決。そこに描かれた店先の木が店名の由来に。

仲間と場所に恵まれて2011年2月22日。姉妹店「土佐堀オリーブ」を開店するに至ります。コンセプトはワインと野菜おばんざい。フレンチビストロの料理ばかりでなく、白和えやだし巻きなどの和惣菜、15〜20アイテムのグラスワイン、深夜まで営業し、ちょっと一杯と一品、そんな自分でも行きたい店。

ただこの開店、肝心の開店資金を国から融資してもらうことが出来なかったこともキオクとして書いておかなければなりません。

完璧な事業計画書を仕上げて、いざ融資の面接に向かったのですが、担当官はサッと見て難しい顔に、前回融資を早期返済した胸も伝えたのですが、完済から5年以上経過していた場合実績としては残らないと。そしてこの担当、面接後実際物件を見に行ったらしく「あの場所では営業は難しいでしょう」と。

実はたいそうな志を前述しましたが、当時売り上げも横ばいからダウン気味で経営状況としても見栄えが良いものではなく、一件だけの小さな店では限界があることも実感していたからこその2軒目開店、が本当の開店理由ということもできます。

成績が悪いんですから信用も低いわけで、結局融資はおりません。開店を諦める選択肢はなくて、これが事業を続ける必須プロジェクトという位置づけなので、別の保証会社、家族、なけなしの自己資金を放出してなんとか全額揃えました。

その経営実態はというと、土佐堀オリーブは立地としては羽山料理店の近所で、行き来も簡単でぼくが顔を出すのも容易でしたが、ぼくなりの経営方針は信じて任せ切ると決めていたのであまり口出しはせず。。。といきたかったんですけど、やっぱり言っちゃいますよね。でも自分では周りからほったらかしと揶揄されるくらい、そこまで干渉しなかったはずです。結果スタッフたちは自分で考え、季節の野菜の素晴らしい扱い、お客さんを交えたイベント、ワインのキャンペーンで優秀店に選ばれるなどの素敵な成績を残してくれ、結果として売り上げもついてきてグループとしてのステップアップも出来ました。

そしてこの頃ワインにハマり切っていたぼくは日本にも素晴らしいワインが生まれていることを知り、ここ大阪にもワイナリーがあることを知りました。そして友人ワイン屋さんがぶどう畑を借りて栽培しているのを手伝わせてもらうことに。これまた同じ志の有志もいたりですっかり日本のワインに魅せられました。結果、姉妹店でも日本ワインの比率が海外ワインに比べて増えていき、最終的には日本ワインのみに。こんな無理難題にも土佐堀オリーブは答えてくれて、今度はそれに合わせて、日本の地方ごとの郷土料理と土地のワインなどのメニュー開発も毎月全員で取り組んでくれました。ただの思い出話になってきましたが、こういう取り組みがお店の発展のレベルアップ、そして成績アップに繋がるんだと自分で忘れていた感覚を思い出させてくれたのです。お店は趣味ではありませんから、事業を展開してる以上、利益を出し続けなければ継続することは出来ません。その当たり前で大前提を再認識してぼくは次のステップへの決断をします。

まず、店の地元大阪で畑、料理、ワイン、と仕事をしているともっと身近にそのそれぞれが寄り添うことが出来るんじゃないかという考えの元、その敷居を一気に下げる新しい店を作ることが出来ないかということ。

そして、土佐堀オリーブがオープンして2週間足らず、あの忘れられない天災が起きました。それもあってか、ぼく自身何か世の中のためになることもできないかと考え始めたのです。

この文章を書いている今、ぼくはもうお店は経営していないけれど、世間は新型ウイルスが猛威をふるい、飲食店が今世の中に出来ることが問われている気がします。友人知人の店主たちからも苦しい本音が聞こえてきます。

飲食店が人の役に立つこと、世の中のために出来ること、あってもなくても良いものなのか。

今回ぐらいからは思い入れがあり過ぎて加筆する可能性も含みつつ、次のノートにつづく、です。



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