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キオクノート#2 ぼくと父

恥を承知で若かりし頃のキオクを辿っていきますが、調理師専門学校に進学したはしたけど、ぼくはまったく良い生徒にはなれなかったんです。

19歳で都会に出てきた田舎者は完全にお上りさんで、あこがれの一人暮らしまで手に入れてしまったので、何かのタガが外れてしまったんですね。

夏休みには中型二輪免許を取得し、YAMAHAのSR400を大阪での足とし、アルバイトと夜更かしに明け暮れ、それ以来実習の日以外ほとんど学校に行かない日々を送っていました。

進学先のフランス校に進むためには夏休み前に試験があって、内容はフランス語のレシピ解読、オマール海老のアメリケーヌソースが問題だったと記憶してますが、それにすぐ受かってしまい、一旦の目標を失ってしまった形で貴重であるはずの時間を無駄に過ごしていました。

その調理師専門学校は成績が親元に届くシステムになっていたので、もちろんこっぴどく母にしかられました、それでも帰省中は覚えたてのシュークリームを実家のオーブンで作ったり、畑でとれたぼくのために育ててくれた西洋野菜でラタトゥイユをふるまったりして、ちゃんと勉強して技術は身につけたアピールは家族に、もちろん喜んでくれました。

振り返って後付かもしれないけど、実は不登校になったのはもうひとつ理由があって、この出来事は今のぼくの行動全てに影響しているのでキオクの記録として書かないわけにはいかない。

その秋に父が亡くなりました。

膵臓ガン。

父はよくぼくら子どもたちをかわいがってくれました、厳しかったがちょっとアニキみたいなかんじで、「今日は学校休め、釣り行こ、釣り。お母さんには内緒やで。」と楽しい課外授業もたくさんで、楽しい思い出は書いてもきりがないので止めておくけど、晩年はそんな面影は微塵もなくなり、帰省していたときにはもう家で療養中で、入退院を繰り返し、体重は減り、言葉もろくに発せなくなってしまっていた。

年の近い弟とぼくだけは病名を知らされていたが、当時まだ小学生の妹は何も知らず、葬儀のときには母と一緒に一番泣きじゃくっていた光景は父の話をするときには必ず思い浮かぶシーン、葬儀では町の人が殆ど来たんじゃないかというぐらいの慰問者でぼくの知らなかった父の人望を知り、親戚にも助けられながら、喪主だったぼくは涙をながす暇もなく式をとりおこないました。

火葬場でぼくの役目、点火スイッチを押すときにみんなの顔をながめるとさすがに一気に崩れてしまいそうになったけど、結局ぼくは父親の最後には泣かなかった、いや泣けなかった。

その我慢が心のなかでふくらんで、働き盛りの父がいないのにフランスなんて行けるかと悩み、何にも親孝行できず、ろくに料理も作ってあげられず、もう一緒にお酒も飲めず、釣りもいけない、なんか全部が中途半端で無駄に思えて、まさにつきなみだがぼくは「心に穴が空いてしまった」のです。

弱かったぼくはそれを周りへの反抗で埋めようとした結果が不登校、そして前述の生活のはじまりで、そこからは卒業するまで這い上がれなかった、かろうじて卒業させてもらえただけマシ。

ただ、決心はついた。

ぼくは絶対料理人に、フランス料理の料理人になると。

卒業直前のころ、病床の父にずっと寄り添っていた母に聞きました。

父がフランス行きは全面的に応援していて自分がどうなってもぼくには行かせてやってくれと話していたことを。

父がいなくなったことで、より一層父へのあこがれや感謝が芽生えて、それに応えたくなりました。

かくして、ぼくはフランスへ飛びます。

その決心と父が最後にクチにしたぼくの料理である覚えたてのラタトウイユのレシピと、不登校なのに欠かさず出席した調理実習の感覚と、薄っぺらい料理概論と、アルファベットも読めないフランス語の知識、そんな今思えば無謀で危うい準備だけを持って初めてにしてあこがれの海外へ。

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