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サウンド・オブ・サイレンス(無音の音)

最近古道具屋さんで、アナログの目覚まし時計を買いました。
(タイトルの写真がそれ)
日本のRythm製のもので、50年以上前のものだと古道具屋のおっちゃんが言ってました。
ちなみに裏も可愛いです↓

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ネジを巻けば、チクタクチクタク...という時計の音が。時計の音ってこんなに大きかったんだと驚くほど、隣の部屋にいても聞こえるくらいの大きな音です。

懐かしいなぁ、こういう音。

時計の音の聞き間違い

一つ面白いことに気づきました。

それは、チクタクの音が、何か別の音に聴こえること。
まぁ、単純に聞き間違えるのですが、それがその時々で、全く違うものに聴こえる。

例えば、今朝は、リクガメが草を喰む音だったし、この前はリスが木を伝う音に聴こえました。

ある時は蜂の羽音、ある時は誰かが枯葉を踏みしめる音。

よく考えると、全てアナログな音です。もしかすると、デジタル音からはこんな誤差(聞き間違い)は生まれないのかもしれません。(まだ確認できていないので、要調査ですが)

聞き間違いはクリエイティブ

知り合いの文学者がおっしゃっていたことを思い出しました。

『聞き間違い』は、人間の活動の中で、最もクリエイティブな活動の一つ。「こう聞こえるけど、こういうことかな?あぁかな?」と、はっきりしないことに対してあれこれ巡らせる。そこに文学があるんです。

そう考えると、チクタク音の聞き間違いにも、耳の錯覚以上のものがあるのかもしません。

どう聞こえるかによって、その人の人格や人生、モノの見方が現れる

サウンド・オブ・サイレンス

サイモン&ガーファンクルの名曲、サウンド・オブ・サイレンス。

この「無音の音」というタイトル、よく考えれば不思議ですね。

長年知ってたのに、あまり気にしていなかったのですが、歌詞も哲学的な深いものがあります。

和訳しているページがたくさんあったので、参考まで掲載します。

作詞したポール・サイモンは、この曲を「コミュニケーション不能」についての歌だと言ってるそうです。

人はいくら会話をしても、お互いに本当に理解し合うことは、計り知れないほど難しいということを表しているのでしょう。

そういう理解なら、「卒業」という映画の最後に流れる、あのシーンがより深まります。

無音の音が鳴り響いている

もう少し勝手な深読みをすると、「サウンド・オブ・サイレンス」には、さきほどの「聞き間違い」と共通項があるように感じました。

この曲は、発せられている音に焦点を当てているのではなく、その奥にある沈黙、静謐に向かっています。

そして、その音なき音は、誰にも理解され得ないし、邪魔されることもない。おそらくその人が生まれてこの方ずっと、身体の奥底に通奏低音のように(無音で)鳴り響いているし、これからも続くだろう。

人にはそれぞれそういった無音の音があって、それは、ある意味では誰にも理解され得ない。もしかしたら、一生気付くことなく、亡くなっていく人もあるかもしれない。

そういう意味では、人はまさに「コミュニケーション不能」だし、底知れない孤独を抱えて生きていることになります。

「聞き間違い」と「無音の音」

一方で、聞き間違うとは、その人の生きてきた人生、モノの見方によって、同じ音でもその都度違う受け取り方をされること。

それゆえに即興的で、同じ音は一度もないし、決して一般化できない。同じ音でも、隣の人と全く同じに聴こえているということは絶対ありえない

こうして、聞き間違いは、私たちの中の無音の音と同じく、正確には誰ともコミュニケーション不能であるという事実に行き当たります。

井戸の底に無音の音を拾いに行く

そう考えると、人間とは何と孤独な生き物なのでしょう。

でも、だからこそ、わかり合おうと努力する。「こう聞こえるけど、こういうことかな?あぁかな?」と巡らせていく。

ある意味、それこそがコミュニケーションと言えると思います。

ポール・サイモンはどう考えていたのか分かりませんが、「不能で不毛なコミュニケーションだけど、どうにか少しでも分かり合えないか」と逡巡しながらも前に進んでいったことが、文学の歴史なのかもしれないと感じています。

井戸の底にある、無音の音。

時計のチクタクを聴きながら、「どうやってそれを拾いに行こうかな、どうしたら少しでも誰かと共有できるかな」と、そんなことを考えている日曜の午後でした。





























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