読書メモ 「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」 ーその4

「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」
 林 達夫
 平凡社 1971年

30年程前に、思い切り背伸びをして買った本を、いま再び開いている。若かった私には案の定、林達夫の博覧強記、そしてエスプリについていける筈もなく…。こうして読んでいても未だ歯が立たないのが悲しいが、下座に控え、いや、それも烏滸がましいので立見で、観客の一員に紛れ込んでみようと思う。
最終編『精神史』にやっと辿り着いた。
林達夫の著作は一つ一つは短いものが多いが、多くの文献がその中に織り込まれている。そんな訳で、以前読んだものをもう一度読み返したり、新たに読んだり調べたりしていたら、そしてこんな小文を書くだけでも、想像以上に時間がかかってしまった。林達夫著作集は他に第二巻と第六巻を持っているが、私には、当分それらを開く勇気がない。

精神史 — 一つの方法序説 —

林達夫の「精神史」—— それは決して他人の書いた他人の思想の集積についての省察ではない。本当の歴史家とは「時代・時間を逆行したり、横すべりしたりして時にはちょっと時計の針を止めたりして、自在にとび廻っている人間」のことだという。歴史のプロセスと自身に内在する思考のプロセスがリンクしたときに生まれてくるダイナミックな何か、その発生のプロセスそのものを、林達夫は「精神史」として記述しようとする。


それはフランスの美術史家アンドレ・シャステルの論文の中に、レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナ母子像』についての些細な、しかし衝撃的なインフォメーションを見つけたことに始まる。シャステルによれば、聖アンナの足許の岩場をよく見ると、赤褐色の小石に混じり奇妙な「切れっぱしとももつともつかぬもの」が散見され、それは正しく「血管がすいてみえる胎盤の切れっぱし」と「切断された小さな胎児」なのだという(「切れっぱし」の第一発見者は「フロイトの『レオナルド』の一批判」を書いたR.S.Stittesという人物だそうだ)。
寝耳に水のインフォメーションを得て『聖アンナ』のイメージは瓦解する。そしてここから林達夫の「精神史」は発動する。
ちなみに私は昔これを読んだ時、まさかと思い画集をひっくり返してみたが「切れっぱし」は確認できず、フロイト的解釈の一種かと気にしていなかったのだが…。今になって画像検索すると、確かに小石ではない「何か」があるようだ。この作品は現在修復され、色調がかなり明るく変化している(この修復に関しては賛否両論あるようだ)が「切れっぱし」は、その後どうなったのだろう。


『聖アンナ母子像』—— 私はこの絵の背景に描かれた山々が非常に好きなのだが、林達夫はヨーゼフ・ガントナーを引き合いに出し『聖アンナ』における「空間の意味における現実性の程度の差異」(画面奥にいくに従い、表現が彼岸的になっている —— つまりアンナはマリアより影像的であり、遠景の山々はさらに透明で夢幻的になっている)に言及している。たしかにアンナには、何かヴェールのようなものをかけられ、直接手で触れることのできない近寄り難さを感じるし、背景に拡がる山々からは、さらに現実感が消失しているように見える。
そして例のアンナの足許の「切れっぱし」である。林達夫はアンナ〜マリア〜キリスト〜胎児の「四代」と言っている(それらを包み込む山々を見渡せば、一体ここは何処なのかという気もしてくる)。シャステルによれば、レオナルドはこの時期「卵や受胎」の問題に取り組んでおり、生涯で30体ほどの死体解剖をしたとも言われている(その『手稿』は知の一大ラビリントなわけだが、林達夫はこれについて余計な編纂は無用であり、ファクシミリ版での刊行が望ましいとしている)。


『レダ』—— 私はこの絵のことをよく知らない。レオナルドの手によるものは現存せず、弟子とされる人物による模写がいくつか残っているようだ。「レダ」とはゼウスが白鳥に変身し、スパルタ王テュンダレオースの妻レダを誘惑したというギリシャ神話のエピソードがもとになった、しばしばエロティックな表現で知られるテーマだが、模写を見る限り、レオナルドのそれにはエロティックな雰囲気は感じられず、むしろ生命力に溢れた明るさがある(レオナルド自身による『躓くレダの習作』『レダの頭部の習作』を見ると、その感は強まる)。
林達夫が着目するのは、レダの足許にある「卵」だ。孵ったばかりの二つの卵から姿をあらわす二組の双生児 —— ひと組はカストルとポリュデウケス(和合と友愛)もうひと組はヘレナとクリュテムネストラ(不和と争闘)と捉えるのが通説だそうたが、レオナルドの意図はそのような物語やアレゴリーだけを表現することではなかった。林達夫はケネス・クラークを引き合いに出し、レダのための最初のスケッチが解剖学的研究と同一紙に描かれたことをアラートする。
林達夫は学生時代から「卵」に並々ならぬ興味を持ち調べていたようだ。オルフェウス教やディオニュソス宗教におけるarche geneseos(創造の始源)としての卵 —— それは人類の生成〜滅亡の祖型的イメージと重なってくる。


ミケランジェロの『レダ』—— この絵も現存しているのは、弟子やルーベンスによる模写のみである(レダの絵は当時の道徳的見地から破棄されたものが多いらしい)。面白いのは『レダ』があの『ジュリアーノ・メディチ墓廟』における人物彫刻『夜』に転用されていることだ(というよりもローマ時代の石棺浮彫に見られる『レダと白鳥』がそもそもの粉本で、これをもとに『夜』は制作されたようだ)。「レダと墓」—— この二つの関係性は何か。
林達夫は「不死の神々と死すべき人間との和合」というプラトン的エロスを解読コードにして(この辺り、林達夫の歴史家としての直観が作用しているか)エドガー・ウィントらによる情報ソースを紹介する。それは、レダ〜レト(光明の神々の母たる夜)というプルタルコスによる(?)語源的関連付けにより説明された知識が、師匠筋などによりミケランジェロに伝わったのではというウィントによる推測と、ピコ・デラ・ミランドラによる「神による接吻としての死」というルネサンス期に流行したという死の思想だ。ミケランジェロが『レダ』を『夜』に転用したわけが見えてきた。
但し『レダ』からメタモルフォーゼした『夜』には「神々との和合」というポジティブなイメージはなく、メランコリックな空気が満ちている。ヴァザーリの『列伝』を読むと、ミケランジェロの人生は、法王からの無理の多い依頼と、同業者からの妬みに悩まされた苦難に満ちたものだったことがわかる。ミケランジェロには詩才もあり、憂いに満ちた非常に美しいソネット(本稿でも紹介されている)が知られているが、林達夫もこう言っている。

レオナルドのレダの外交的な、生に明るく息づいた牧歌調と、このミケランジェロのレダ=『夜』の内向的な、厭世的なくらい悲歌調。前者の知性人的肌合をかくせぬ、独特の「自然学」(?)的発想と、後者の冥想家を秘めた、これも独特の「詩的神学」的発想。レダ神話をめぐるこの二人の天才芸術家の取扱い方だけをとって見ても、そこには際限のない精神的地平がひらけてくるような思いがする。


それにしても、私は『レダ』というレオナルドやミケランジェロにとって、言ってしまえば「傍流」ともとれる「文学的」作品にスポットを当てたところが、何となく林達夫らしいような気がする。そして実は「文学的」に見えたそれらの作品のテーマの裏には意外な事実が隠されており、林達夫はそれらをハンティングしてきて、眼前に拡げて見せてくれるのだ。
そして林達夫の「精神史」という「てんやわんやの操作」は、それらハンティングしてきた獲物という厖大な知識を装備した上での「直観」をもとに作動しているように思う(これは巻末解説の加藤周一の受け売りだが)。


『メディチ家墓廟』—— フィレンツェのメディチ家礼拝堂にある『ジュリアーノ・デ・メディチ霊廟』と『ロレンツォ・デ・メディチ霊廟』は、それぞれの大公の下に『夜』『昼』(ジュリアーノ側)『黄昏』『暁』(ロレンツォ側)という人物彫刻を配している。
林達夫はミケランジェロを芸術史上最大の「墓廟の芸術家」と呼ぶ。たしかに「超大喧嘩友達」だったユリウス2世の墓廟にしろ、このメディチ家の墓廟にしろ、途中他の依頼をねじ込まれ(ユリウス2世は自身の墓廟制作を命じたその後、さらにシスティーナ礼拝堂天井画制作を命じている。これはミケランジェロの才能に嫉妬したブラマンテがミケランジェロを陥れるためラファエロと結託し、生前に墓廟を作るのは縁起が悪いとユリウスに焚きつけ、フレスコ画の知識に乏しいミケランジェロに敢えて天井画の制作をさせるように仕組んだ策略だったそうだ。結果、ミケランジェロはとんでもない傑作を生み出すのだが)結局完成することはなかったが、ミケランジェロ自身は墓廟制作に情熱を持ち続けていたことがヴァザーリの『列伝』にも描かれている。
『夜』『昼』『黄昏』『暁』の下には実現を見なかったが、ハーデース(冥界)の四つの河、Cocytus(水ー粘液質ー冬ー夜)Phlegethon(火ー胆汁質ー夏ー昼)Styx(地ー黒胆汁質ー秋ー黄昏)Acheron(空気ー多血質ー春ー暁)が並ぶはずだった。ルネサンスの知識人には常識だったこの組み合わせだが、ミケランジェロは四つの時を単に四つの気質に擬人化するのではなく、そこに彼自身の独創をはたらかせたことで、作品は図式化を免れ、我々の感情に強く訴えかけてくるものとなっている。ミケランジェロはネオ・プラトン主義の影響を受け、四つの時間に「時の破壊力」を見ていたという。
そして『夜』『昼』の上に君臨するジュリアーノは「行動の人」として『黄昏』『暁』の上に君臨するロレンツォは「沈思の人」として表現されている。話は再び『レダ』に戻るようだ。

「夜」は「昼」とともに、「活動型」のジュリアーノの足許にいるのだ。そうなると、これはどうしても男盛りの男性的と女盛りの多産的としての「昼」と「夜」との切っても切れぬコンビと見なさないわけにいかなくなる。〜中略〜 mater nox(母=夜)という奴だ。してみると、これはやはりレダであり、そしてそれは遠い太古のその祖型、Tellus Mater(「地母」神)に血をひくひとつの転身のすがたなのではあるまいか。


『岩窟の聖母』—— ミケランジェロが「墓廟の芸術家」ならば、レオナルドは「洞窟の芸術家」だという。その『手記』において、レオナルドは洞窟に対する恐怖と欲望を吐露しており、非常に興味深い(本稿に引用がある)。
そして林達夫は言う。

洞窟についての、いわば野生的思考 —— わたくしは必ずしもレヴィ=ストロースの定義通りにこの言葉を使っているわけではないが —— ないしはそのサーヴァイヴァルとのつながりにおいて、「洞窟の思想」を捕捉し、その大いなる遠近法のなかへレオナルドを配置して眺めてみたいのである。ミケランジェロの場合と違って、作品の細かい分析などは一切放擲し、こういう荒っぽい太古ながらの風景の中へただ黙って彼を邪慳にほうり出しておくのが、この場合、彼に対するいちばんふさわしいやり方のように思われるからである。

そう言った後、洞窟とは「母胎」であり「住居」であり「墓」であり「宇宙」であると言う。
レオナルドの真意は何処にあるのか。あの「何かひどく胡散くさくて、われわれに警戒心を起こさせる」(林達夫の言葉に私は膝を打った。レオナルドを表すのにこれ程ぴったりな言い方があるだろうか)笑顔で煙に巻かれてしまうのだろうか。


歴史がその一部門としてのアルケオロジー(考古学)を必要とするように「精神のアルケオロジー」を強烈に必要としているという、飢渇感のようなものに突き動かされ、林達夫は自身の思想を積み重ねてきた。その「精神のアルケオロジー」の原型は、林達夫という人間性の内部に深く根を下ろしたものであるが故に、時代を超越し必然性をもって我々のこころに響いてくるのではないだろうか。それは加藤周一の解説にいみじくも言い表されているので、拝借して結びとしようと思う。

…しかし精神の原型は、—— 一文化に固有の原型が、歴史的な文化の差を超えて普遍的であるかないかは、別の問題としても、—— ただ知的分析の対象としては捕捉されない。相手の精神の理解は、つまりところ、ただその精神を自己のものとするときにのみ、可能になるだろう。ここでは、対象の理解と自己の理解とが、相接する。知識人と知識、思想家と思想の関係は、そのとき密接な切り離し難いものとなる。そうなってはじめて、何のために学問をするか、という問いも、もはや問いであることをやめるのである。学問、つまるところ世界を理解しようとする知的活動は、その人の生活、その人の人格の中心的な部分そのものになるからである。人と学問、人と思想とのそういう関係は、両大戦間の東京という知的密室のなかでは、容易に成立し難かった。林達夫の意味は、そういう稀なる関係が成立し得るということを、証明した点にある。

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