読書メモ 「エラスムス=トマス・モア往復書簡」

「エラスムス=トマス・モア往復書簡
(電子書籍版)
 沓掛良彦/高田康成 訳
 岩波文庫 2021年



『痴愚神礼讃』(中公文庫)を読んで以来、すっかりエラスムスの、そして訳者である沓掛良彦氏のファンになってしまった。


古典学者である沓掛氏は言う ——「人文主義の王者」エラスムスが、今日「知られざる人物」となってしまったのは、彼がラテン語作家であったからだ。当時の知識人の共通言語であるラテン語での著述活動は、彼を汎ヨーロッパ的な存在に成らしめ、16世紀が「エラスムスの世紀」と言われるまでに彼の名声を高めたわけだが、ラテン語教育が衰退する近代に入り、エラスムスの名は等閑視されるようになった。皮肉にもそのラテン語が足枷となったわけだ。一地方語に過ぎなかった英語で書かれたシェイクスピア、母語であるフランス語で書かれたラブレーの著作が豊富に訳され、研究が進んでいるの対照的である —— と。


この知的巨人が、世界史の教科書の片隅に小さく収まっているのを見るのは悲しい。
しかし「小作品」とされる『礼賛』を読むだけでも、エラスムスの凄まじさは実感できる。ギリシャ・ローマ古典の章句の引用やパロディに満ちたこの作品が、ほぼ参考文献もなしに、超人的記憶力によって一週間ほどで書き上げられたということに驚く。諧謔と皮肉と諷刺という魅惑的なオブラートに包まれた毒 —— 教会や世俗権力に対する痛烈な批判 —— はエラスムス自身も予測しなかった猛毒と化し、ルターに『九五箇条の提題』をウィッテンベルクの城門に掲げさせることになるわけだが、それにしても『礼賛』の文学的輝きには圧倒される。
エラスムスは中庸の精神を地で行く人物であり、筋金入りの平和主義者であったため、教会の分裂を望んでいなかった。しかし、結果的にはカトリック陣営、プロテスタント陣営双方からの十字砲火を浴びることになる。


前置きが長くなってしまったが、本書はそんなエラスムスの栄光と挫折が垣間みえる貴重な資料であり、ヘンリー8世の下で大法官にまで登り詰めながら、純正カトリック教徒としてヘンリーの離婚に異を唱え、刑死を遂げたトマス・モアの一本気な魂に触れることのできる往復書簡全50通である。


といっても、エラスムスの経済的困窮を見かねたモアが金の算段をする様子、ライバルに対する恨みつらみなど、プライベートな内容(書簡とはそもそもプライベートなものであるから当然だが)が多い。しかし、これこそが書簡文学の醍醐味であろう。それぞれの書簡には訳者による丁寧な解題がつけられ、背景にある状況がわかりやすくなっている。
『書簡三十五』はモアのライバルに対する長大な「恨み節」なのだが、あくまでウィットを忘れないモアの気の効いた一節を引用してみよう。

ド・ブリーの皮肉というのはおよそお粗末そのもので、嫌みのつもりで褒め言葉を述べても、大方の人々には率直な心底からの褒め言葉としか思えず、小生が読みましても何かばつが悪い気持ちにさせられてしまいます。というわけで皮肉を皮肉として分かってもらおうと考えたのでしょう、わざわざ欄外の余白に「皮肉」と注記するに如くはないと判断したのでした。どうやら慎重この上ない性格の彼は、とくに小生を本心から褒めたなどという証拠を摑まれては沽券に係わると、慎重には慎重を期して腐心したようなのですが、惜しむらくは一か所だけ、欄外の注記で「皮肉」と注記するのを怠ったのでした。

信じられないような話だが、モアは自らの最期、断頭台に首を横たえた際にも「ちょっとまってくれ、髭をのけるから。この髭だけは大逆罪を犯していないからね」と首斬り人に言ったという。


お互いを「エラスムス大兄」「モア君」と呼び合う二人の間には、8才という年齢差がある。しかし『痴愚神礼讃』と『ユートピア』は、二人の友情なくして生まれ得なかった作品であり、それぞれの作品の書名にお互いが関係している(このあたりの経緯が興味深い)という点に、友情の固さが見てとれるだろう。
ちなみにこの「友情」というのは、どうやらルネサンスを読み解くキーワードのようだ。古代ローマの文人キケロの『友情について』に刺激され、ルネサンスの知識人の間では、友と二人で絵画に納まるという、ちょっとしたブームが起きたそうだ(エラスムス自身は反キケロ主義?だったそうだが)。画家マサイスが描いたエラスムスとピーテル・ヒレス(エラスムスとモア共通の友人であり『ユートピア』第一部で主人公にヒスロデイを紹介する人物として登場)の肖像画の到着を、モアが心待ちにしている様子が書簡にも出てくる。
エラスムスは知られざる大書簡文学者であり、知識人同士のネットワークを拡げるべく方々に書簡を書きまくり、実に3000通を越えるラテン語往復書簡を残しているという。


『痴愚神礼讃』や『ユートピア』執筆当時の書簡には、ルネサンス特有の闊達な空気が流れていた。しかし、宗教改革の進行により微妙な立場に置かれた二人の書簡には、次第に暗い翳がさすようになる。
エラスムスはオランダ人だが(ある司祭の私生児として生まれ十代で両親を亡くしたとされており、裕福な法律家の家に生まれたモアとは異なる出自であるようだ)書簡後半において反対勢力を避け、その居がルーヴァン、バーゼル、フライブルク…と定まらない人生であることがわかる。
そしてモアによる最終書簡の抑えた文面を読むと、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。この書簡を受け取ったエラスムスの心境を推し量ることはできない。しかし、やはりこれは「辞世の言葉」なのだろう。モアの死の翌年に、エラスムスも後を追うようにこの世を去っている。

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