クリストファー・ノーランの「バットマン」

 アカデミー賞を総なめにしたクリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」。彼の作品に流れる通奏低音を「ダークナイト」トリロジー、「メメント」「インソンニア」「インターステラー」、そして渡辺謙が出演した「インセプション」等々から整理して列挙して行こうかと思う。今回は「ダークナイト」トリロジー。

 目の前で強盗に両親を殺され、やりようのない怒りを「笑顔」という「仮面」で隠し成長したバットマン=ブルース・ウェインを子どものころから育てた父代わりでもある執事は彼がマスクを脱ぎ、どこかのカフェで美しい女性と可愛い子供にかこまれ家族で団らんしている姿をずっと夢見ている。

アルフレッド(執事)
「バットマンに戻りたがっているのが怖いのです。」
「ケープとマスクを脱いだのに人生を見つけていない。」
「あなたは待ってる。町が再び荒れることを。」

 平和な時代にヒーローはもはや必要ない。怒りや暴力、バットスーツに取りつかれ、怒りを原動力として生きて来たブルースはバットマンになることで怒りを昇華(消化)し戦う相手がいてこその自分だったのだ。

「相対性の強制は、それに準拠してコードへの差異的登録が無限に続くという限りで決定的…つまり、限度がないという性格を解明できる。」(ジャン ボードリヤール「消費社会の神話と構造」)

「バットマン」にとって怒りを昇華(消化)するチャンネルとしてのマスクはもはや執着=アディクション(依存)。マスクなしでは自分の怒りを消化しきれず、敵対項の存在しない平和な時代には彼は消化不良…そして「街から犯罪が消えた今、目的を失ってしまった」(デイビッド・ゴイヤー 共同脚本 inダークナイトライジング インタビュー)

しかし、それはジョーカーとて同じ気持ちなのである。

”What would I do without you?”          
 お前がいなければ、
“ Going back to rippng off Mob dealers? “           俺はけちな泥棒に逆戻り。
“No,No. You complete me”  
嫌だ。嫌だ。お前がいないと生きていけない

 悪の権化であるジョーカーは正義と悪は表裏一体、互いの鏡像であり、蹴り飛ばす相手がいてこそ解体された自己が再構築できるという鏡に潜む罠を理解している。だが、怒りに固執するあまり自己喪失したブルースは敵と対峙することでしか自分を量れない自分が見えていない。したがって、執事であるアルフレッドはブルースがマスクを脱ぐ日を夢見るしかないのだ。

「脱構築には、もうこれで十分という安心と休息の訪れるときは約束されていないのであり、それには終わりがないのだ」(ファーン Fearn,N Zeno and the Tortoiose 中山元訳「考える道具」)

警部補  ”What about escalation?” 
      激化しないか?
バットマン “Escalation?”    
      激化って?
警部補 
「警察が半自動小銃を買えば、
 犯罪者も全自動を買う。
 防弾チョッキを着れば
 貫通する弾で対抗。
 君がマスクを着けて空をとべば、
 こんな奴が出てくる。
 武装強盗、殺人の全科二犯、
 君のように演出を好む。」

 クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズに於いてはバットマンに「マスクを取れ」「顔を見せろ」という要求を突きつけるジョーカーこそが「倫理的な核」となっている。「倫理的立場について最も雄弁な説明をおこなうのは、バットマンでなく、ジョーカーのほうである」(マガウアン・ドッド 「クリストファー・ノーランの嘘」)

「隠すべきものが何もない」=「アイデンティティの不在」の軟派なジョーカーは頬まで裂けた口の傷跡を隠すためにいちようメーキャップをしているだけなのに対し、硬派のバットマンは偽「善」性の象徴たるマスクとバットスーツで自らを覆い隠している。(クリストファー・ノーランの嘘)

 酒乱の父親が母親を殺害し、「そのしかめつらは何だ?」と口を笑っているように頬まで切り裂いたという物語、ギャンブル狂で借金がかさみ顔に大きな傷を負い日々泣き暮らす女。「顔に傷があっても構わない」彼女の笑顔が見たいと自らの口を頬まで切り裂き笑っているかのように見せたものの、妻はジョーカーの醜い顔を見て出て行ってしまったという物語。どっちが事実なのか。おそらくどちらもでたらめだ。傷の起源についての真実など必要ない。ジョーカーは傷をさらして生きているのだ。

バットマンのガールフレンド、レイチェルはバットマンの生身の頬に触れ、哀しそうにブルースにこう言う。

「これがあなたのマスクよ。あなたの本当の顔は犯罪者たちに恐れられているほう(バットマンマスク)だわ。」

つまり、

ブルース   本当の顔
バットマン  マスク

ではなく、

ブルース   マスク
バットマン  本当の顔

だとレイチェルは指摘している。ブルースは虚偽=バットマンというマスクを通して怒りをぶちまけ、真実をさらけ出したのだ。

 デリダ サール論争という有名な哲学者2者の有名な論争がある。サールはマスク(記号)は反復されるごとにその意味を強化し、デリダは逆にマスク(反復)は性質を風化、変質、空虚化させるという。両者ともに正しいのだ。

 バットマンマスクは反復され使用される度にそのマスク(虚偽)性は消えていき、マスクは真実となるのだ。犯罪者たちに恐れられているバットマンマスクがブルースの本当の顔(怒り)となり、紳士的な社長たるブルース(本当の顔)が見せかけであることが露わとなる。

ハイデガーは「真実について」でこう言っている。
「存在者(ブルース)を開示することは、同時に、そして本質的に存在者(ブルース)の全体を隠蔽することである。この(ブルースの)開示と隠蔽の同時性において、過誤が支配する。過誤と隠蔽されるものの隠蔽が根源的な真理の本質に付随している」(ハイデガーinクリストファー・ノーランの嘘)

 つまり、ブルースは自らを隠すことで自らを露呈した。隠蔽(マスク)の隠蔽より生じる過誤、過剰において主体性があり、真実は嘘の中からしか現れ出ない。そんな虚偽の構造的性質をクリストファー・ノーラン監督は、「ダークナイト」シリーズのみならず彼の多くの作品を通じて描いている。真実をデストラクト(destruct 解体)し、ディコンストラクト(deconstruct 脱構築)=再構築して現れたブルースにおける差延にブルースがあると言っているのだ。レイチェルの触れたブルースの頬と、偽のマスクの間。本物のブルースを露わにしたマスクと、未だ自己を獲得できず、ブルースになっていないブルースの頬の間にこそブルースは生きているのだ。

虚偽=バットマン(マスク)=ブルース=真実

真実=ブルース≠ブルース=偽=未知のブルース

これがクリストファー・ノーラン監督の「バットマン」だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?