食事と情事と催眠と…


「食事と情事の後には睡眠が来る」その共通性はどこにあるのか?数学者ルネ・トムによる著書「構造安定性と形態形成」によると、愛することと食べることは共に自己を喪失し他者を消化する自他融合の行為だから。厳密にいえば、生殖と捕食が生み出す主客の区別の喪失というカタストロフ(状態変化)にエネルギーが消費され催眠が引き起こされるのである。他者(牛、豚、愛する人…)を自分のものとするとき、自分が自分でなくなりそのカタストロフに眠くなる。鷹が小鳥を追う。小鳥は逃げる。小鳥はもう逃げきれないと分かると自ら鷹の口にまっすぐ飛び込む。みなさんがご存知の赤ずきんの物語では赤ずきんはオオカミのお腹から助け出され喜んでいた。しかし実際、赤ずきんにとっては助け出されずに「オオカミの着ぐるみ」を着て「オオカミの眼鏡」でものを見る「オオカミ」になり、赤ずきん「性」を「催眠」させたほうが捕食された事実を忘れてしまえて楽なのだ。(エランベルジェ)「進撃の巨人」でも巨人に呑み込まれた友達を、「鬼滅の刃」でも鬼に食べられた元人間を催眠から助け出すのは至難の業だった。小鳥が鷹に、鷹が小鳥へと二者が一つになるとき「睡眠に相当する」状態が生まれ、元の人格(?)は催眠=解離状態に入るからだ。(フェレンツィ参照)

 この主客未分化の催眠状態とは自らの指を母の乳として「おしゃぶり」=捕食しながら眠りに落ちる乳幼児の「催眠」に同じである。夜中に何度も大声で泣き叫ぶ乳児。おっぱいを含ませると、うとうと眠りながら乳を吸う。頬をとんとんとつついてやると又、吸い始める。どれだけ泣いてもお母さんが来てくれない時は「指」を「乳」とするしかない。ノーベル文学賞を受賞した川端康成の「片腕」における自他の「腕」交換なんかで驚いていてはいけない。生まれて間もない赤ちゃんが「指」を「乳」と交換する創造力をもっているのだ。捕食による「催眠」とは一種の「錯乱」=カタストロフ。「遊び」でもあり「芸術」。(ルネ・トム)自分の指=母の乳 非同一性を同一性として捕食し「異」を「同」とするレヴィナスの分析する「暴力」であり「狂気」、「母親から力をもらおうとするように」「母性的な人物から栄養を吸収し」「自分が持つことのできない」その者の幸せや活力を「自分のもの」として奪い、取り込む「投影同一視」という行為も「捕食」と言える。そして猫がネズミに、ネズミが猫になるように「自身のなかの悪いものはことごとく外に排除」し、「耐えられないものをすべて引き受けてくれる入れ物」としての母性的人物に「自身の性質の反映」させるトカゲの尻尾切りのような解離による「求愛」行為はおしゃぶりに同じ錯乱=催眠的意義を持つ。それはモラルハラスメントとも言われる。(イルゴリエンヌ)

 しかしながら、自他の錯乱は人間だけの専売特許ではない。動物も捕食前、被食者が捕食者に見えるそうなのだ。トムによると、猫には目の前のネズミが一瞬、自分つまり猫に見える錯乱が起きるという。そしてネズミは猫に呑み込まれてネズミ=猫、捕食者=被食者としてひとつになるため、実在した攻撃も攻撃者の存在も「外的現実としては消えて」しまう。双方にとって「何も起こらなかった」(フェレンツィ)二者はカタストロフを通して一つに融合し同じ世界をまどろみに共有することとなる。したがって密室における信じがたい虐待=捕食を子どもが解離してしまうのも親を愛しすぎているからとも言える。フロイトやジャネら患者を助けようとした精神科医たちは職を失い(ジャネ)学会から追放されたりしたため(フロイト)フロイトは虐待親による「誘惑理論」を反転し、嘘を吐いてでも自分を傷つけた加害者を妄信する子どもの異性親への偏愛をオィディプス・コンプレックスとしてまとめている。この逸話は「催眠」=「解離」=「愛」がどれほど力強く根深いものかを物語っており、フロイトの娘アンナ・フロイトと弟子フェレンツィが理論を「虐待者と被害者の同一化」としてまとめ現在まで継承されている。

 とどのつまり、恋=愛とは盲目、一種の「催眠」状態=「解離」、つまり自己を失い、夢見る状態と言える。フロイトによると恋愛とは「憧れること」であり「自己を失うこと」。恋すると自分に自信をなくしたりするのはこのためである。人を愛するということは「自己のナルシシズムの一部を失う」ことなので、自尊心が低下するのである。しかし、その自己の喪失は愛されることで復活する「相思相愛の仲になるか、愛する対象を所有すること」「愛されることでそれを補うことができ」「自尊心は再び高められる」(フロイト ナルシシズム入門)愛とはつまり「所有」し「占拠」されること。英語表現ではPosessionとなるが、ドストエフスキーの「悪霊(Posession)」のように憑依、悪霊に取り憑かれるとの訳もある。言い換えると愛とは「投影同一視」=「取り憑かれ」「同一化」すること。誰かを愛しすぎると自分が失われ誰かになる。だから幼年期の激しい恋慕「初恋は決して忘れられない」とフロイトは言う。幼年期に母親に対する激しい愛による固着を経験した少年は男性(父親)を嫌悪し、自身を女性(母親)と同一視するようになる。愛する人の思いが自身の願いになってくるからだ。母(女)を愛しすぎると少年は女になる。そして、かつて母親が自分を愛してくれた様に自分が女となりかつての自分に似た若い男性を愛し融合しようとするのである。(フロイト 性理論三篇)

 ここまで極端な例は出さなくても、夫婦だって似て来るではないか。愛する人の希望は叶えてやりたいと互いに思い続けた結果、似て来るのである。そしてひとが恋に落ちた時だってすぐに分かる。犬嫌いの人が犬モチーフを身に着ける。犬好きの相手に気に入って欲しい。愛とは他者になることだからである。夏目漱石が愛を「月が綺麗ですね」と訳した様に好きな人とは同じ世界を共有しうっとりとしてしまうものだ。食べること、愛すること、生殖することは捕食=同一化するというカタストロフ=ひとつの大きな力による状態変化=自己が融解し新たな形態「人格」へと変化する「催眠」=解離状態と言える。(アブラハム&トローク、フェアベーン、フェレンツィ等参照)平野啓一郎はこの形態変化を「分人」という概念で説明している。愛溢れるAさんを愛していたK君が傲慢なBさんを愛するようになった。K君は愛に於てメタモルフォーゼを経験し異なる「分人」となっている。こんな時、心に浮かぶのが「行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」鴨長明「方丈記」と変わらない自分が情けないところではある。

 さいごにもう一度繰り返そう。猫がネズミを求めすぎるとネズミが猫に見え、母を愛しすぎると母親=女になる。劉慈欣の「三体」世界において女性の気持ちを理解し過ぎて母性性を身に着けた男性が女性に化していく世界が描かれていた。これからもポリティカルコレクトネスを完遂しようと皆が努力すればするほど、皆が自己を喪失し、他者を理解する他者だらけの愛溢れる社会が生成されるだろう。





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