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お葬式と、少子高齢化社会。「ゆりかごから墓場まで」が「子宮から墓場まで」と聞いた。


これは、もしかして、聞き間違い?と思ったが、古い開高健の辞書のようなノンフィクション集の「路上にて」の「死の儀式の裏側」にも、スウェーデンの福祉は、「子宮から墓場まで」と記載されている。

あらら・・。幼いから、先生の言葉のあやかと思ったが、昔から、少子高齢化が懸念されていたようだ。

それが、今現実的になり、「子宮から墓場まで」というのでしょうか?


わたしのお葬式の記憶では、曾祖父さんの時は、幼すぎて、記憶がありません。

次に、母方のおじいさんのお葬式は、私が25歳ぐらいの時だったかなあ。本当にあの爺さんは、とてもいい人で、インパールに近いような戦地で、バナナを盗んだり、病気にかかったりしても、見事帰還された人だった。マラリアだったかなあ。それで、全部髪が抜け落ちてしまい、本当にツルツルの頭をして見えた。
いつも、ニコニコして、いい爺さんだった。

地域のレントゲン検診を受けていたが、冬に風邪を拗らせたのか、体調が思わしくなく、町の小さな病院に入院。母、つきそう。1〜2週間ぐらいで、状態が悪化して、そのまま逝ってしまわれた。肺癌だという。

その時は、土葬でしたね。村外れの、山上にお墓があり、それを親族で、かついで登って、墓を掘るお手伝いの村人たち。うすらうすら、そんな記憶と、母の憔悴仕切った様子は忘れません。

途中まで、私の出身地の中学生の同窓で、同窓会なるものを。親がなくなれば、すぐ連絡が来て、「いついつ、御葬儀・・」で、連絡を受けるたびに、香典を包んで持っていく。その子の家の外で、みんなが集まり、お見送り。または、お寺さんの外で。そして、折り弁が配られたりした。

同窓会では、あり得ませんでしたが、母の話を聞くと、折り弁狙いの村の衆がいて、余った折り弁を大量に持ち帰ると言うあさましいものもいたと言う。

結婚後は、面倒になり、同窓会も退会しました。やってられませんでした。出ていくばかりで、回収なんてできませんし。来てももらいたくなかったです。


2番目は、これは、私が、結婚してからで、父方の母つまり、祖母の老衰でしょうね。この時は、くっきり。

病院から、葬儀業者が、ご遺体を運んでくださり、死装束の衣装まで。それを、孫たちが、草鞋を履かせたり、頭に被せたり。また、葬儀屋さんが棺桶を持って現れ、棺桶にご遺体を。この時は、平屋建ての御座敷造りでしたので、亡き夫も手伝い、車に運び入れる。行き先は、火葬場に併設された、遺体安置場。

その時は、手を合わせて、「お疲れ様でした・・」

火葬でした。この時は、市の指定の火葬場、遺体安置場、祭事場が設けられて、一晩、息子たちが、酒を飲み明かして、番をしていたようです。祖母の直々の妹も、途中現れ、一緒に合流していたようです。

祖母の訃報を聞いて、すぐ、裏方を手伝うようにと。親族が集まるから、大鍋に赤出汁の味噌汁を作らせた記憶です。ご飯は、叔母たちが炊いてくれていたようです。


早朝から、父親から怒鳴られながら、手筈を聞いて、ビニール袋に番号を書けと言われて、マジックで書いていました。私は、裏方専門として、家の留守番で、道案内とか、弔問客にお茶だし。朝は、朝食の用意、来る人来る人に、ご飯と味噌汁を振る舞い、特別な産後まもない、いとこには、「おにぎりを握れ、握れ!!」と、けしかける、叔父。(そんなのコンビニで、買ってくるだろう・・)


ずっと、家で留守番。田舎だから、葬儀には、カゴ盛りと言って、紅茶とか、缶詰、見切りの果物を持った白黒の盛りがいくつも立てられて、村人は、葬儀が終わると、その籠盛り運んでくるので、車庫にブルーシートを引いて、待機。


で、もうおわりかなあという時に、番号を書いた袋に均等に分ける作業をした。

それが終わったら、手伝ってくれた村人の慰労を兼ねて、座敷を広々と開けはなし、オードブルの注文、お酒の注文、ビールなど、紙コップなどなど。そして、手伝ってくれた村人(組の衆)にビニール袋のものを均等に渡す。


その頃には、顔が真っ青になってしまって、叔父に駅まで送ってもらい、帰った。


最近は、火葬場で、安置場、祭事場が同じ場所らしいので、ずいぶんそれでも楽になったようだ。

昨年亡くなった叔父が、仏式が、こんなに金がかかるんなら、「俺は、神道にする!!」と、言い切った。
その後の、面倒な法要は、よく知らないが、まともにやったら、破産する。


ペットの場合。

まだ、祖母が存命中の頃、愛犬「チョコ」が病死。血を吐いて、亡くなる。
この時は、珍しく、火葬場に持って行き、焼いてもらった。環境基準も難しくなってきたようだ。お墓には、首輪だけを埋めたような。それ以前は、庭先を掘って、埋めていたような。


これは、コロナ以前の話。

コロナか中は、知らない。呼ばれもせず、事後報告をうけるのみ。夫の事故死から、そうしている。縁を切る時には、切らないと、香典で破産します。


まとめ

少子高齢化が進み、土葬にするにしても、棺桶を担ぐ元気なものがいない。みんな、年寄り。
特に、男兄弟がいない家族は・・。

そして、結婚をしない若者。ひ孫がなかなかできない。または、私のような、子なし寡婦が一番面倒な人種に値する。

土地の、汚染の問題。墓地近辺が、昔と変わり果て、宅地化。墓地区画も、昔のいい加減さがなく、区画整理。貧乏百姓ながらも何代も続いた家なので、墓石は、大小あれど、もうご遺体を埋める場所がない。

本家ということもあり、弟息子のために、墓地を分け与えた。分家に。

昨年の叔父は、奥様もだけど、火葬はしたものの、納骨堂に入れるとかで、ご自宅預かりのままと言う。真相は知らない。


戸籍関連を調べていて、今の戸籍があるのは、江戸幕府のおかげ。村には、お寺を作り、檀家になることが義務付けられて、過去帳の管理など、お寺さんがしっかりやっていた。

明治政府になって、廃仏毀釈が行われて、今の、戸籍を辿っても、明治以前のものは、わかりません。登記に関連して、原戸籍その附票を取り寄せて、見比べらべ学びました。

親族とのつながりが希薄になりつつあるし、代変わりで、昔の人は、「こうするのが、最もだ!!」と言ったとしても、今の若いものには、若いものの考え方もある。合同納骨堂?出し入れが簡単であるから、墓石に惑わされない。

お寺を開かれた場所に。ただし、昔からの伝統を守るお寺には、秘宝があり、コロナか、みんなが集う場所にしたいと言う考え方も、今のご時世、監視カメラは取り付けられているものの、火災、盗難、スマホの普及など、締める時には締めるようである。

以前は、仏教関係の、大人の寺子屋、写経、座禅会、心経を読む会、解読する会、など開かれておりましたが・・。

話をしてくれる、その道に励んだ和尚さんも、年齢的なものか、見えなくなってしまい、魅力を感じなくなりました。

車社会で、例を挙げるなら、街の特に高級マンションの横付けの駐車場は、立体化され、車が段重ねされている。まあ、お墓も、出し入れ簡単な、納骨堂ビルディングとなっているようだ。そうなることは、もう予想されていた。だけど、田舎の古い風習を守る世代と、今時の若者世帯の考え方にギャップが生じ、年配者はぶつぶつと小言をいう。


いつも、思うのは、自分の庭は、「赤のゼラニウム」の鉢だけでいい。管理し切れないなら、市民に開放し、公共のために使ってもらえばいい。が、日本では、利権が加わり、なかなか通用しないのである。




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