じつは私、同じ会社に3年勤めたことがありません。
じつは私、同じ会社に3年勤めたことがありません。
社会人歴はいま7年目。(まじか)
え……まじか。もう7年も経つのかぁ……。
以前こんな記事を寄稿させていただいたことがありました。
■好きなことを仕事にすると人生は楽しくなる|伊佐知美|みんなの転職
「好きなことを仕事にすると、人生は楽しくなる」。うーん、真理であって、真理ではない。
今まで所属してきたすべての会社が好きでした。きれいごとかもしれないけれど、どの会社も好きだった。
でも、好きと、ずっとそこにいることは、違う。
恋と同じなのかもしれない。「好きだけど、あなたじゃないの。」
私は横浜市立大学を卒業したあと、三井住友VISAカードという会社に新卒で入社して、個人営業部、法人ソリューション営業部と異動して、結婚して中途半端に退職した。
そのとき私は25歳。辞めたくて、辞められなくて、辞めるのがすごく怖くて、でも苗字を変えるというとき「辞めよう」と素直に思えて、もしかしたらあれは私のひとつの「逃げ」だったのかもしれません。
ずっとずっと、書くことを仕事にしたかった。雑誌が好きで、本が好きで、図書館に住んでみたいと幼い時から思うほど。
学校で新聞を書いた。作文が入賞した。大人になるにつれて、会報誌を作った、リトルプレスを作ったといっても、それらはすべて虚無だった。
私にとって、書くことで生きていくとは、出版社に勤めることだった。そこに行けば何かがあると、盲目的に信じてた。頭がね、とても硬かったんだと思う。
だから、就職活動をしていた時に、軒並み希望の出版社に落ちた時は、「あぁそっか」って納得した。入り口がないなら仕方がない。いつかまた、入り口のひかりを見つけた時に、チャレンジしよう。
書くことを仕事にしたいと思っていたはずなのに、なぜかあっさり、諦めた。
就職活動のときの話は、私が海外に行きたいと思っていた話と少し通じるところがあるからまたいつか書きたいと思うのだけれど、でもとにかく私はブレブレだった。そしてそれを、イケナイとも思っていなかった。気がする。
VISAのゴールド会員向けの冊子でも作れたら、とどこかで思っていたところもあった。
でも、半年間の主婦を経て、「やっぱり私は働きたい」と思った。
「自分の手で動かせる世界がほしい」。
子どもがいなかったこともあって、私は強く外の世界を求めた。
大黒摩季は昔、「こんなに自由なのに、飛ばないなんてかなしいじゃない」と歌っていた。(ふ、古い、古すぎる)
「これだけ自由な時間があるのに」
なんで私は仕事もないのに、家にいるのかと苦しくなった。
最初に旅立ったのは、沖縄だった。行きのチケットだけとって、宿泊する場所も決めず、なにも決めず、飛行機に乗る。着いた先で台風に気がついたけど、どうしても離島に行きたくて、その頃はたしか飛ぶ鳥落とす勢いだったスカイマークに乗っかって、一路宮古島を目指した。
日程もなく、誰と約束するでもなく、青い空の下、ひとりでレンタカーを借りて走る日々。そんなに長い時間じゃなかったけど、私はとても、楽しんでいた。
そのあと私は、1人でいくつかの国を旅することになる。アメリカ、ベトナム、タイ、カンボジア、etc。数年後、29歳のときに1人で新婚旅行先のハワイを訪れることになるのだけれど、それはまた別の話。
沖縄から帰ってきた私は、26歳になろうとしていた。
行く前にじつは、再就職先を決めていた。
講談社という名前の、私が新卒で落ちた出版社(たしか就活のときも受けていたはず)。
求人を見つけたときも興奮したし、面接も、採用も、初日の出勤も、これでもかというくらい緊張した。
ただし、最初の3ヶ月は派遣社員だった。給料はたしか、時給で1700円とか、そんな感じだったと思う。「VISAカードで働いていたなら」と、新人研修の手厚かった企業名を持つ私は、なにやら一般常識と事務スキルがあると思われ、たぶん採用されたんだと思う。
VISAカードで働いたことに、心底感謝した。派遣でもなんでも、入り口がほしかった。過去に諦めた仕事につながる、一筋のひかり。
その頃ウェブの世界はすでに盛り上がりを見せていたけれど、あんまり視界になかったんじゃないかと思う。紙、紙。紙の出版社。雑誌が作られている。本が生まれている。漫画をつくるひとがいる。
会話が、ひとが、そこにある本が。派遣だろうとなんだろうと、問題なかった。むしろ、激務と呼ばれる部類に入る以前の仕事を思えば、気持ちも仕事も格段に楽で、しかもパートナーがいる状態の私としては、「パラダイスか」とひとり突っ込み、毎朝紙の香りを楽しんでいた。
でも気がついた。
「ここは広告の部署である」
基本的に私は頭がおかしいんだと思う。
「ライターになりたいなぁ」
そう思ったから、でも社内転職は難しいことを悟っていたから、ウェブの世界に入り口を求めた。そうやって、1本500円で原稿を書くことをはじめていった。仕事と平行しながら。
その頃私は27歳。派遣社員から契約社員、臨時雇用社員と、身分も少し、変わっていった。
けれど私は、その講談社も2年7ヶ月で辞めることになる。28歳だった。
正確に言うと、そのあと間髪入れずにVOCE編集部に籍を移し、現在所属しているWaseiの仕事と平行して、外部のライターとして業務委託で記事制作を請け負うことになるので、その意味では講談社には2年と7ヶ月以上、属していることにはなるのだけれど。
***
今、Waseiという会社に勤めはじめて丸1年が経とうとしています。
同時に、「3年目の壁が来る」。
会社ではなく、ライターとしての3年の壁。
ちょうど、2年前の1月、2月頃から、ライターになるための行動を開始していた。2014年2月にいまの会社のひとに出会って、2015年1月に灯台もと暮らしを始めて、それを追うように講談社を辞め、そして2015年2月にWaseiの社員になった。
3年という数字は、世間一般によく言われるモノなのだと思う。高校に行って、センター試験を受けて、大学に行って、就活をして、就職をして、結婚して。私はごくごく平凡に、そうやって進んできた。
でもだからこそ、何の取り柄もない人間だからこそ、「石の上にも三年」という言葉が、意識のどこかにずっしりとある。頭ではそこに意味があるのか真偽のほどは……と思っていても、「そこに達したい」プライドもある。(いや、プライドとかVISAの時点で砕けてんだけど)
転勤族の父の都合で、小さな頃から引っ越し、転校が多かった。小学校は4つだった。中学、高校も3年、かろうじて大学だけ、4年間同じ組織に属したと言えるだろう。
3年。
私にとっては、長い年月な気もする。でも、なにかを遂げるには、短すぎる年月。
3年目がやってくる。なのに私は、また新しいことを始めることにした。
海外。
■世界一周バージン喪失の第一歩|伊佐知美|note(ノート)
取材先に行って、いくつ?と年を聞かれて、「29です〜」と言ったときに「おぅ、わりと年いってんね」と言われるよりも、
「もともと金融で、いまライターで」と言ったときに、冗談で「なんだ、いっこの仕事続かねぇタイプか姉ちゃん!笑」と言われる方が、ずっとぐっと、ぐさっときた。
そう、ひとつのことが、続かない。飽きてしまう。違うものが見えてしまう。いいな、それ。もっと見せて。知りたい、行きたい、感じてみたい。
いま持っているものをたしかめもせずに、次から次へと。
今度はそれを、絶対にいい方向にしてみせたいと、思っている。
今までも別にこれを、後ろ向きに捉えてきたわけじゃない。むしろすべてがつながって、本当につながって、ひとつ何かが欠けていたら、私は未だここにさえ立てていなかったんじゃないかと思っている。よかったと、思っている。
でも、来月で3年目がくる。すこし、「あぁ」と思う。
くるのか。きてしまうのか。3年目。
同じ会社に、3年勤めたことがありません。もとい、同じ分野に、3年身を浸すという行為に、人生が慣れていません。
積み重ねたい。なにかを、積み重ねたい。
がんばろう。3年目だから、今年は去年よりももう少し、がんばりたい。根を張った分だけ、いつか咲けると、まだ信じていたいから。
いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。