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私たちはいつも何かを「待っている」「探している」。

目的地が持てるから、都会を歩くのはやっぱり好きだな、と東京の街を見て思う。

新潟を歩いていても、私は目的地が見つけられない。

きれいな夕陽、美味しいお水、昔から知っている友だち。

「あまりにも元気すぎる投稿だから」と、「笑っているから」と。
「大丈夫?」「君はそんなに強くない、だってあの時泣いてた」と。

大切なものはここにあるけど、きっとずっとはここに居られない。分かっているから、愛しい。


この数ヶ月、いやもしかしたらもっとずっと前から、私は雑踏の中でも、静けさの中でも、何かを「待っていた」。「探していた」。

知らない国、知っている街、何度も繰り返し歩いた道。

いつも何かを探していた。無意識に、意識的に、目が何かを追う。

鳴らないかなぁ、呼ばれないかなぁと思いながら見るスマホ。

光ったり、光らなかったり。誰かなと思って見るその先に、私は誰を探していたんだろう。


その時々で違ったはずだけれど、この間「みんな、自分を助けてくれるものを探している」と聞いて、「あぁ」と思った。

そうか、私はわたしを助けてくれるひとを、ものを、場所を、タイミングを

きっとずっと、探している。待っている。


けれど一方で知っている。

待っていても何もこないと。誰かに笑いかけてほしければ、自分から笑わねばならないと、私は知ってる、みんなも知ってる。

そのほうが、早いから。何も与えられない自分が、無条件で「与えてもらえる」のは家族だけだ。

それが手の中にあるだけでも、私は幸せで


誰かを探して待っているよりも、笑いかけてほしいなと思う「誰か」に自分から近づいていったほうが人生は楽しいし

「ここかもしれない」と思って進むほうが私はすきだ。

だって、その先で思ってもいなかったことに出会うことが多かったから。

想像できることは実現できるかもしれないけれど、想像もできないことは、実現できない。

何の話だったかしら。私は今も、結局誰かのことを待っている、という話で。


いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。