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いったい何を祝うのか?_「卒業式」にみる日中のギャップに愕然とした話。

娘が、小学校を卒業した。6年間、あっという間。早かったなあとは思うけれど、これって悲しいことではないよね。卒業式に泣きたくなるのは、何故なんだろう。

うちは6年間、別居という形で子育てしてきたので、夫婦共同作業感も少ないし、実家の両親と同居なので、まあ、気楽だったなあというか。娘は、私が世話する以前に、勝手に大きくなっていったと思う。

さて、その卒業式で、思わぬ日中間のギャップを感じることとなったので、今後のために記しておく。これは本当にびっくりな発見だった。

卒業式には、数日前から緊張していた。一人で参加しなくてはならないプレッシャーもあるし、泣いてしまうかもしれない不安もある。こういうとき、夫婦そろっている状態を作っていない自分を省みる。

式が始まる15ふん前くらいに着席。「さくら独唱」のピアノ音楽が流れる体育館の様子はピリッとしていて、携帯で写真をとり、夫との命綱であるWechatに送る。夫からの反応なし。

式が始まった。あっという間に終わった。

懐かしい演出もあったし、我が子の名前が呼ばれ、証書を受け取るときには携帯を握る手が若干震えた。在校生(代表)と卒業生が歌を送りあう。子どもたちの澄んだ歌声は、くたびれた体育館にいっそう響いて、胸打つ。ものでも、だからといって泣けなかった。

娘が小学生であった時は、戻ってこないけれど、いやいや、これからではないか。ここから始まる、何かを想像すると、ワクワクするではないか。娘が小学生であったことで、私が得たものの方が大きい。かけがえのない時間なら、これからまた作っていくことができるのだから。私も幸い、まだそれを見守れる場所にいる。何が悲しかったんだっけ?

要所要所で卒業証書を受け取った瞬間や、歌っている様子を、写真に収め、wechatで送る。夫からの反応なし。

色が終わると、友だちと写真を撮りまくったり、先生と話したり、ワイワイと過ごした。子どもたちの笑顔は、もうきらっきらに弾けていて、あの子やあの先生と写真撮ったりしてはしゃぐひととき。まるで子どもが異常に多い公園にいるみたい。

もう行くことがなくなった学校の門を出るとき、「バイバイ」と言ってお別れしたあとは、イオン行ったり、夜には焼肉食べに行ったり。家族や祖父母がそれなりにお祝いしてくれ、制服の手配や自転車など、中古品も含めて準備していることを話す。一日が満腹だった。今日は本当に。笑顔と未来への希望、子どもたちの笑い声、私や家族の節目を祝えて。

一つ階段を登ったことで、見えなくなった風景と、見えるようになった風景と。その間に挟まれて子どもにしたらぎこちなさもあるのだろうけれど、一段上からみる景色は、これまでとは全然違う。

学校があってよかった。卒業式ができてよかった。参加して楽しかった!

という高揚した気持ちのまま、日記を閉じ、布団に入ろうとして、ハッとした。

あれ?

なんか、忘れている?

まさか、と思ってWechatを確認する。

中国にいる娘の父親から、まさかの無反応。


その瞬間、私の中の何かがボーボーに着火した。

先日、友だちと酔っぱらった時には連絡してきたくせに、娘の卒業式に、反応できない理由が何かあるのか? なぜ、娘の卒業式に、反応しないのだ?あれ、私たち、離婚してたんですっけ?

ということで、その後の修羅場については想像にお任せするとして、気づいたのが午後23時、娘はすでにすやすやモードで、連絡手段はwechatのみ。

事故にあったわけでも、病気になったわけでもなく、単に返信を忘れていたという先方から、平謝りの連絡が来たのが、午前0時半であった。

***


「何故、父親が娘の卒業式に無反応なのか?」

この問いは、私を激しく怒らせました。けれど、2020年の私なら、烈火の如くキレまくり、離婚届に署名+押印したものを写メしていたと思いますが、2021年春の私はちょっと違いました。

卒業式に反応しないって、明らかに私とは思考回路が違う。
これってもしかして、日中の文化的差異なのか?

と、少し落ち着いて考えることができた自分を褒めたいです。

思い当たる節はありました。現地で暮らしていたとき、娘の幼稚園の退園手続きが「3秒」で終わったからです。「日本に帰ります」「わかりました」以上、だったのですね。

幼稚園には三年ほど通いましたが、確かに園の行事というものもほとんどないし、先生と直接話したのは賄賂(資生堂の化粧品)を渡したときくらい。

それで、お世話になっていた中国語の先生に、尋ねてみたんですね。

かくかくしかじかで、卒入学式に対する、中国の考え方ってどうなっているんでしょうか?と。中国人の夫に、このような問いを投げかけたところで「違う」「そう」しか返ってこない、本当に微妙な夫婦関係を続けていますので(そろそろしんどい)。

その回答が、もう本当に目からウロコを優に超える、発見に満ちたものでした。

お一人目の回答はこうです。


「卒業式を大切な節目だと思ってくれるのはありがたいのですが、逆にどう応えるか、何をどうすればいいかわからないのでややストレスを感じてしまう。卒業式は私にとっては、お世話になった人に会いに行って、これからも繋がりを保てるよう挨拶する機会だと捉えています」


もうお一方の回答はこう。


「卒入学そのものは、誰にでもできる。でも、受験に合格は誰でもできるわけじゃない。だから、中国では升学宴(高校、大学入学前のお祝い)を主にやっている」

そして、

「卒業式などを、家族の思い出を作る、節目を大切に過ごすことを大切にしたいと考える家族もある。捉え方にも個人差がある」

との補足をしてくださった。


ななななんと・・・・。驚いて外れたあごがまだ、十分にくっつかない。

ものすごく派手に言い換えたら、ですよ。中国の人たちは、日本のように卒入学で立派な式典をすることになんの意味があるんだろう?って感じているかもしれないってことですよね。

逆に日本人からすると、卒業などの節目に新しい環境へいく人たちを見送るのって、大切な欠かせない行事だと思っていますよね。これがあるから、次に行ける、ないと失礼、くらいに。

でも、中国の人は、そうじゃない。

「何を祝うのか」、その中身を大切にしているんだ・・・


と気づいたとき、日中のギャップの派手さに、6年ぶりに驚愕しました。


改めて考えてみると、「卒業を祝う」ってどういうことだろう? 
何を私たちは祝っているんだろう??

今のところ、私なりの解釈では、日本は「見えないもの」に対する祝福。中国は「見えるもの」に対する祝福。そして、それが重なることもあれば、重ならないこともある。

どちらがいいとか悪いとかではなくて、どちらもその土地の文化や風土の中で、最適な形で定着したものなんだな・・・そういえば、自分の結婚式も、同じようなものだったじゃん・・・(クラクラ)

というのを今さらながら思い出し、日本の生活が長くなった自分と、中国にいる夫との乖離が激しくなったことも、強く感じたのでした。


***


さて、当の夫にはもちろん悪気などなく、このような考え方があった上で「レスをするのを忘れた」ということのようで、伏して謝ってきたものの(wechatのテキスト上で)、私には私の、当然譲れない日本人としての価値観があります。

卒業式に反応しないなんて、ありえないボケ!カス!と、一方的に押し付けてミサイルを打ち込んでしまったことは反省し、謝りましたが、かといって、夫がどんなに中国的な考え方で卒業式を捉えていたとしても、娘の成長を見守る親として「忘れていた」はナイだろ。

形式から自由になる、とか私もよくいったもんだと思うけれど、自分もどっぷり形式側の人間だったことを認めよう。卒業式をスルーするなんて、ありえない。

夫は夫で「そんなことしてどんな意味があるの? ご飯食べに行こう」な感じでしょう。なんでそこまで怒るのだ?と、日本海の向こうの大陸で、きっとブツクサ言っていることでしょう。

中身がないのは、どっちだ?!

瀋陽で暮らしていた時にも毎日のように突きつけられたこの問いが、どすんと現れてまるで壁みたいになってます。どうしよう。


そんなような実体験をベースに、日中に横たわる認識できてなかったギャップについて個人情報結構丸出しで書いたこの本は、中国のこと嫌いな皆さんにぜひ、読んでもらいたいです。なぜなら、私も今は、夫という名の中国が嫌いだからです。さくっと読めて、すっきりするかもしれません。



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