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一年でいちばん悲しい日と「サクリファイス」との結びつき。

〚諸注意〛
このブログは壷井濯監督作品の映画「サクリファイス」から感じ取った
その当時のこと、取り巻く世界の変貌、
そして自身の過去のエピソードを綴るものです。
いわば「心の整理と記憶の整理」を主にした内容ですので

「レビュー」ではなく「エッセイ」です。

なにとぞご了承ねがいます...。
そして長いです。どうか( 読むことに ) ご無理なさらず。

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《 公開頃から変わり始めた世界 》

「サクリファイス」は公開初日から満席が続き、カードを持たないので
ネット予約のできないわたしは、観れるかどうかも不安になりました。
※このときに篠崎誠監督が、チケットの取れそうな時期をツイッターの
リプライで、丁寧にアドバイスしてくださいました。
その節は、ありがとうございました!

その後、3月8日...日曜日。

この日のわたしは早稲田で、昼からの音楽イベントに参加していました。
トイレットペーパーとティッシュがどこにも売られてないという...
危機的状況において、早稲田駅近くのダイソーで、ようやく見つけて
買って、リュックに「水で流せるティッシュ」と、ポケットティッシュを
詰め込んで、夕方にそのまま吉祥寺へと向かいました。
せっかく外に出たし、近いし、早めにチケットを買っておいて、
どっかで時間を潰すかな...とにかく行ってみようと思い立ったのでした。

そしたら...
「シティーハンター」のフランス版の上映に間に合い、しかも
「サクリファイス」と時間が、かぶってない!これはいけるっ!
イベントのあとに2本立てとか体力は大丈夫かっ!?と...心配しつつ
無事に観ることができました。

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なんだか壮絶に毛色の違うものを観た気がしたのですが
観終わった後で、不思議な類似性に気づきました。

「シティハンター」は、主人公の冴羽獠が、親友の槇村秀幸を
殺害されてから物語が大きく展開し、むしろそこからが本編です。
槇村の大切な妹の香と出会い、噛み合わないままバディを組んで
世直し的に悪をこらしめていくことになります。
『同じ心の痛みを共有する者同士が強く正しく生きようとする」
そんな深い絆が、やがて確かな愛へと恋へと変わっていくのです。

そして「サクリファイス」は...
『心の痛みを共有できない者たち』が、弱くも間違えながらも
ときに悪いことをしてでも、生き延びようとする物語です。
あちこち別の方角へと向かってて、同じところにいても違うものが
見えていて、でも共通するのは『破滅していく世界への予感』で...
そんな中での絶対的な愛と絆が....主人公の少女を走らせるのです。

なんと対照的で愛しいものを観れたのだろうと、感動した日でした。


その翌日...

引っ越しの下見で業者さんが来て、段ボールをくださいました。
ボロくも住みやすいアパートに住んでいたのですが、突如として
昨年の秋からトラブルが起きてしまい、毎日が憂鬱になって...
限界がきて引っ越しを決意して、その準備に追われていました。
天災と同じく...日常の土台を壊される不運は、いつでも突然です。

それから数日後...
プロバイダの解約手続きをしたら、ちょっとした手違いが発覚して...
某・携帯ショップで半泣きになってたら、職員さんがペッボトルの
お茶をくださいました。
それから「いまどこにも売られてないでしょ?せめてものサービスです」
と、不織布マスクを1枚だけいただけました。
※なんだか闇取引きみたいでした(笑)  それはいまも大事に取ってあります。
ありがたくも、疲れきって店舗を出たら...月が、とても大きかったです。

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「サクリファイス」は順調に公開されて上映期間が延びていました。
篠崎誠監督の関連作品には、月を見ることが多いなぁ...と、実感します。

作中で撮影を担当した柗下仁美さん、そして出演されている矢﨑初音さん
このお二人がメインである「共想」という映画を観に行ったイベントの
帰りも...お月さまが綺麗でした。

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このときに柗下仁美さんに、上映後にご挨拶して           「サクリファイスも観たいです」と、お伝えしたので
ちゃんと観れて、約束が果たせたような気持ちでした。

ですが...

とりまく状況は徐々に悪化していきました。

映画、舞台、ライヴ...わたしが愛するエンターテイメントが
どんどん遠ざかっていき、危機的状況に陥っていきました。

わたしの引っ越しは正にギリギリで、緊急事態宣言が出る数日前の
3月23日に新居に住めたのです。
ボロくて広い部屋から、狭くて質の良い部屋になりました。
引きこもるには最適の部屋に移れたのは、不幸中の幸いでした。

とはいえ、メンタルはどんどんやられていきました。

元から神経質で気弱なせいもあり、人との接触が恐くなってしまい...
大丈夫とわかっていても、映画を観に行くことができなくなりました。

そこで決めたのが
『買ってなかったパンフレットを、せめて買っておこう』だったのです。


そして4月1日...水曜日。
中野に用事があって出向き、そこから電車で吉祥寺に行きました。
パルコにトトロがいました(笑)

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どうにかアップリンク吉祥寺のある地下まで降りて
「サクリファイス」のパンフレットを買いました。
ほんとに、吉祥寺はそれだけの用事を済ませて帰りました。
物が売れないのか...「いまから30分、5百円セールでーす!」と
アクセサリー店の店員さんが、ずっと叫んでいました。
新居に必要な物があるかも?と、入ってみたのですが、特に欲しい
物もなく、店を出ました。 歩く人は少なく、どこも大変そうでした...。

引っ越してから、ネットをつなげるのに時間がかかってしまって
PCがずっと使えなくて、携帯からツイッターへと
「パンフだけ買いに行ってきました」と、書き込みながら...
なんだか涙がボロボロこぼれてきて...泣きながら打ち込んでました。
きっと自分の弱さが悔しかったのと、パンフを買いに行けただけでも
頑張れたことと...その気持ちが同時だったのだとおもいます。

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《 残酷性・命への感情の麻痺・心の在り処 》

「サクリファイス」の作中で「ノルウェーでのテロ事件」について
学生がディスカッションで話し合うシーンがあります。

ウトヤ島だ...!と、わたしにはすぐわかりました。

ちょうど1年前に、その映画を観に行っていたからです。

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1年前の3月...
わたしは精神的ストレスで身体がボロボロになって
食べ物の味がわからなくなっていたほどでした。
音楽を聴いても心に響かなくなり、映画を観ても感動しなくなりました。

どんどんすさんでいって...食べないせいでふらついて、階段を踏み外して
転倒するほど深刻になって、入院することになりました。

そのとき、入院する前にどうしても観ておきたかったのが
「ウトヤ島、7月22日」だったのです。

もう肉体も心も、生きてるようで死んでいる...自分がそんな風になっていて
未来のなにを信じたらいいのか?わからない状態において...

身勝手な思想によって起こした単独テロで、77人の命が奪われた実話...
犠牲者の多くは、国の未来に自分の将来に...夢を持つ若者たちでした。
それを72分間ノーカットで、無名の役者で撮った衝撃作品を観ることで

自分の「生と死」を、確かめようとしたのかもしれません。

その後、1ヶ月、外からいったん離れることで心の空気の入れ替えが
できたらしく、無事に回復して退院できました。
入院の後半は食事がおいしかったし、同室の人と楽しく会話してました。

1年前は入院しててバタバタ
1年後は引っ越しでバタバタ

なんにせよ、予測もつかない人生だと...しみじみおもいました。

写真は、入院中に窓際のベッドからみた朝の空です。        
ツイッターのアイコンにしています。↓

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《 大切な存在を失ってからの自分・別れの予兆 》

壷井濯監督の、あるときのブログで...
柗下仁美さんが身内を早くに亡くされていることを知り、
衝撃を受けました。
あの真夏に輝くヒマワリのような、まぶしいほど笑顔の美しい方が...
その笑顔の裏にそんな悲しみを背負っていらしたなんて...
むしろ、だからこその笑顔の強さなのかもしれない...とも感じられました。

このエピソードを知ったとき、衝動的にパンフレットを買いに行ったのは
もしかしたら、わたしは「呼ばれたのかな?」という気もしました。


わたしも身内を早くに亡くしています。
ツイッターに詳細を書き込んだあとで、あまりにも自分語り過ぎて
失礼かと思い返し、すぐ消したのですが...柗下さんが消す前に読んで
くださっていて、わざわざリプライをいただきました。
ありがとうございました...!

ブログなら自分語りも有りかと...いま再び、しかも長々と書きます。


わたしは四国の愛媛県の、海辺の小さな村で生まれ育ちました。
4つ年上の兄との2人兄妹でしたが、わたしが中三の14歳の夏に
18歳で急死しました。

両親にとっては自慢の息子である、成績優秀タイプでした。
家計の苦しい家だったので、兄は有名大学に進学して出世することが
夢だったようで、愛媛の高校から大阪の同志社大学を受験したのですが
落ちてしまい、それでも一浪すると決意して大阪へ移り住みました。
新聞配達をしながら、そこの寮に住まわせてもらい予備校に通うという
過酷な挑戦を始めたのです。

ですが、その年の夏に、新聞配達に行った先で転落死しました。

『虫の報せ』というものは、確かにあるのかもしれません。
霊感なんて無く、不思議な体験も怪異も無縁なわたしが、一度だけ
それを経験しています。

兄が大阪に発つ日、わたしは母と一緒に駅まで見送りに行きました。
特急の時間まで間があったので、近くの書店に入ったら、兄がわたしに
人気漫画のコミックスの一巻を買ってくれました。
兄がモノを買ってくれたのは、それが最初で最後です。
そのコミックスは、上京したいまも手元にあります。

漫画を買ってもらったのが嬉しくて、わたしは、はしゃいでいました。
ところが、兄が特急列車に乗り込み、手を振って列車が走り出し遠ざかり
さあ、わたしたちは帰ろうというときに...
急激に、たとえようのない不安が襲ってきました。

兄ちゃん、いっちゃった、もう、いっちゃったんだ...

よくわからない寂しさと恐怖に近い感覚で、わたしはおもわず
母の腕にギュッと、強くしがみつきました。

あれは、もう二度と会えないことの『予兆』だったとしかおもえません。


でも亡くなるときには...その『予兆』は無く、あまりにも突然でした。

9月4日...日曜日。
わたしと母とで大阪に電話をして、兄と話しました。
『来年こそは絶対に合格してみせる』とか『大阪の親戚の家に行った』とか
他愛のない話しをしました。
わたしは兄に「高校に行くって決めたよ」と、報告しました。
経済的な理由からして、わたしが高校に行くのは無理だと自覚してたし
兄とは逆で頭が悪いから勉強なんて嫌いだったし、イジメをうけてたし...。
中卒になってもいいから働くと、幼少時から決めていたのですが...
いわゆる定時制 (通信制)で、働きながら高校に行くことにしたのです。

『おまえ漫画家になるんじゃなかったのか?(笑)』

そう言って、からかってきたのが...兄との最後の会話になりました。


翌日の9月5日...月曜日の朝...

学校に行こうとしたら電話がかかってきました。
わたしが電話を取ったら、親御さんに代わってほしいと言われ
母に代わると

「うちの息子が...!?」

と、言ったあと『きのう、電話で話したのに...!』と、泣きだして
『気分が悪くなったのでもう切らせてください』と、一方的に電話を切り

母は、その場にうずくまって

『兄ちゃん、死んだって!』

そう言って倒れこみました。

わけがわからない...
昨日、電話で話したときに元気そうだったのに。

母の嘆きは、もはや娘のわたしでさえ近寄れないほどでした。
畳に溶けてしまうんじゃないかとおもうほど泣き崩れていました。

わたしも庭に飛び出して声を上げて泣き叫び、
泣き過ぎて目が開けられなくなったほどでした。

しかも母は、大阪へ差し入れを送るために、段ボールに食べ物やら着替えを詰め込んで、宅配してもらう準備をしていたところだったのです。
受け取る相手は、もう手を伸ばすこともできなくなっていました。
入院していた父も病院から仮退院して駆けつけて、大阪へと向かいました。


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《 迫ってきた宗教・その誘惑の強さ 》

わたしは兄が言った最期の言葉...

『漫画家になるんじゃなかったのか?』

これを本気で叶えようと14歳で決意しました。

そもそも創作の楽しさをおしえてくれたのは兄だったのです。
オタクなだけでなく、アニメに特撮にSF小説から少女漫画まで詳しくて
あらゆる影響をうけました。
わたしの感性の80%くらいは、いまでも兄から形成されています。

ですが、上手く芽が出ないまま月日は過ぎ、それでも熱意は消えず
同人誌の創作も始めていって、オタク仲間も増えていきました。

雑誌に投稿すると、批評くらいはもらえる程度にはなりましたが
大きな賞は取れず...悔しくてもがいていたとき、友人が
『はやちゃんが努力してるのに、自分はなにもしてないと思えてきた』
と、声優を目指すために上京していきました。
※その彼女は、いまは故郷の愛媛に戻っています。

わたしも東京に行って、漫画家さんのアシスタントになりたかったけど
兄が大阪で亡くなって以来、母が都会を怖がってしまい...反対されたり、
そもそも両親とも病弱だったので、近くにいる必要性があって無理でした。


漫画は地方からでも送れば投稿できると、めげずにいた頃...
オタク仲間のひとりが、ある有名な宗教に入信しました。

そしてオタク仲間で集まったときに、詳細や体験を説明して
入信をすすめてきました。

彼女は確かに変わり果てていましたが
『白猫が黒猫になった』ような極端さではなく
『白猫が薄っすらと灰色の毛並みになった?』みたいな...
微妙な雰囲気で変貌していました。

正直、うさんくさくて、何を言われても耳をすり抜けていく感じで
まったく興味が湧かなかったのですが...

ある言葉で大きく心が動きました。

「はやちゃんのお兄さん、生き返るから会えるよ」

そう言われたのです。
その宗教では、そういう世界がくるのだそうです。

わたしは、そこで一気に引き込まれました。

お兄ちゃんに会いたい、もう一度、会いたい...!
会って、どうしても聞いてみたいことがある。

会えるのなら...神様でも悪魔にでもすがりたい、その可能性があるなら...!
そう一転して入信を本気で決めました。

カルト宗教系における...
『悲しみと不安から弱り切った心を突いて入信させる』

正にそれを過去に体験していたのです。


ただ、わたしは結局、入信しませんでした。

端的に暇がなかったからです(笑)

漫画の投稿をして、同人に参加して地元のコミケに行って、仕事もしてる。
宗教活動の余裕は無いまま、機会は流れてしまいました。

あのまま入信していたらどうなっていたのでしょうか?

明確にわかるのは...
それならいま、こういうブログは書いてなかっただろうなぁ。
ということだけです。


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《 ただ生きてきた、それだけで変われた人生の流れ 》

うちの家系は、なんだか異質なのは事実です。

兄が急死でしたが、父もまた急死でした。
肺を患っていて、長期入院から退院して家に戻った直後に
玄関先で容態が急変して倒れて、そのまま亡くなりました。

わたしはこのときにそばにいたのに、なにもできなかったのと..
自分が頭を支えている状態で、冷たくなっていったショックで
自責の念から、PTSD (心的外傷後ストレス障害) になりました。

あるとき占い師に
『先祖が悪事をやらかし (たぶん殺人レベル) 怨霊に取り憑かれている
お兄さんは長男だから消された。家系を根絶やしにしようとしている』

と、言われたときは、それはあるかもしれない...と、本気でおもえました。

うちは、昔は村でも有名な土地長者だったのに、ある代で博打にはまり
その一代ですべて失くしてしまったのだそうです。
ここまでくると、なんだかもう家系そのものがオカルトです。
そもそも父の姉も、父の父親 (わたしの祖父) も、早くに亡くなっています。


いろんなところに点在している様々な不可思議、それを突く誘惑...

悪質な方向性でのカルト宗教、インチキ系の占い、幸せを呼ぶ商品...。

もしもわたしの性質がもう少し違っていたら
そちら方面に溺れきっていたかもしれません。

ですが、どうにかそうはならずに済みました。
なにもしていません、自殺も何度もしようとしましたが、できないままで...
ただ、生き延びてこれただけです。

漫画家をあきらめて無気力になり、PTSDの症状も悪化していくなかで
ちょっとした出来事から生活に変化が生じて
PTSDが、徐々に回復していける方向へと向かえて
趣味仲間とたくさん出会えたことで、精神が活性化されていきました。

それから2年後くらいに、持病のあった母が風邪をこじらせて亡くなって...
もう、自分が四国にいる意味はなくなりました。

天涯孤独になったわたしは、東京へと引っ越してきました。
それが2015年の10月です。 

東京生活は大変ですが...苦しいこともたくさんありましたが

少なくとも、いまはもう寂しくはないです。
『みえない何か』に頼る必要もなく、暮らせています。

家族はいなくても「たくさんの他人」が、そばにいてくれるからです。
そして、東京でいろんなエンターテイメントを楽しめるからです。

しかも...上記の入院の時期に、ベッドの上でいろんなことを考えたのが
きっかけで、退院してからウェブサイトで小説を書き始めました。
漫画ではなく、小説を...趣味範囲ですが書く日々になり、充実しています。

※はや ( トモリ ) の「トモリ」は、小説を書くときのクリエ名です。

漫画家になる夢は、叶えられなかったけど...
わたしは再び創作に励める日々になりました。
長生きすると、いろんなことが展開するものですねぇ。
   
※東京の新居に荷物が届いた記念の写真です。↓ お蕎麦を探し回りました(笑)

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《 写真が遺す生きていた証し・その奇跡...》

えらい長々と書いていますが...まだあるんです。奇妙な出来事が。

柗下仁美さんも、お兄さんも『撮る人』です。そこに関連するのですが...

わたしには、兄の写真が1枚だけ残っています。
高校生だったのときの生徒手帳です。もちろん手元にあります。
もう色あせてボロボロですが、顔写真が付いています。

証明写真の正面顔は、わりとイケメン?(笑)
 でも普段は猫背で姿勢が悪くて、髪がモサっとしてて
なんていうか全体的にダサかった(笑) そしてやっぱり自分に似てる。

それはともかく。

愛媛にいた頃のわたしは、実家からバスで一時間ほど離れた隣町で
独り暮らしをしていました。
実家が小さな村すぎて、勤められる仕事が無かったからです。

そしてあるとき、実家に帰った時に母と大喧嘩をしました。
不思議と何に怒ったのか?おぼえていないのですが
「もうあんたなんか知るか!二度と顔もみたくない!」くらいの勢いで
わたしは、仏壇に飾ってある兄の生徒手帳を取って、母へ悪態をつきながら
バスに乗って住まいへ帰りました。
なんだか「兄ちゃんも連れていく!」みたいな衝動だったのです。

この些細な出来事が...奇跡になりました。

上記のように大喧嘩はしましたが、持病から入退院を繰り返す母とは
顔を合わせないわけにはいかず、もちろん普通に対面していました。
そして、2015年の7月に母は亡くなり...
実家が借家だったので、すべて処分して家主に返すことになりました。

その作業を...
わたしに報せずに、親戚の叔母が、勝手に進めて終わらせてしまいました!

いや、酷いでしょ!「業者が亡くなったことを聞きつけて催促してきたから
こっちで話し合って決めて、やっちゃった~っ」という流れでした。
(作業すると一度で一気にお金が入るから、向こうも必死だったらしく)

せめて作業時に色々と中身を確認しながら、思い出に浸りたかったのに...
その中で何かしらは、持ち帰りたかったのに...すべて消え失せました。

要するに...

母親と大喧嘩したときに、生徒手帳だけを持ち帰ったことで
これだけは死守できたんですよ。

これを奇跡といわずなんというべきかっ...!
さすがにこの点においてだけは『みえない何か』を、信じたくもなります。


その守りきれた形見は「おまえはどんだけ真面目な学生だったんだよっ!?」

そんなツッコミをいれたくなるほどです(笑) 兄の生徒手帳には
授業や部活やミーティングや予習・復習に関する、詳細なメモ書きが
鉛筆で書きこまれています。

その文字と顔写真を眺める度におもえるのは...

兄は確かに生きてこの世にいた。

という事実です。

写真というものは「思い出や記念や記録や証明」だけでなく

〚手触り〛を、残す役目もあるのだと...おもえる出来事です。

わたしが生きていて、思い出し続ける記憶だけでなく『物』として
あることが、いかに大事であるか...その生徒手帳はおしえてくれます。

ただの一般人であるわたしには「サクリファイス」の撮影に込められた
悲しみも喜びも、すべてを感じ取ることはできないかもしれませんが...

柗下仁美さんの、そしてお兄さんの〚生きて作り上げた手触り〛も...
わたしの手元にあります。

大切にさせていただきます。

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《 最後にオチを付けておきます 》

どこまで書けば終わるのか...わからないほどの長い手記になりました。

どういわけか、自分のことばかり話しているのに
ところどころに「サクリファイス」の要素が散りばめられている...

水面に月の光がこぼれて輝くような...そんな絵を描くような作業でした。

こちらとしても、なんともいえない気持ちです。


そして...
こんなところまで読んでくださった方に...

ある、もうひとつの機運を...お伝えしたいとおもいます。


壷井濯監督は「村上春樹氏の作品に影響を受けている」と
わたしが観に行ったときのトークショーで話されていました。
それは本編でも納得できるものがありました。

そこで告白しますが...

わたしの亡くなった兄の名前は〚 春樹 〛です。

さすがに名字は違いますが、漢字はそのまま同じです。

生まれ変わりとはおもってませんよ ( そもそも没後と生誕が一致せず )
※ちなみに、わたしの「はや」は本名ではありません。
本名があまりにも嫌いで、自分に別の名前を付けたのです。

それにしても、ちょっとした驚きがありますよね、これ。


そんな春樹兄ちゃんへ
「サクリファイス」へ
3.11を体験した人々へ

そして、まだ生き残っているわたし自身へと

このブログを捧げます。


一年でいちばん悲しい日...2020年9月5日...
兄の命日に、故郷の海の写真を添えて。 

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