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量産型不安系

いつも心配してる人がいる。
その人にとって心配とはクセであり、もはや趣味なのではないか。
そう言う、わたしもなにかしら不安を抱えてないと日常を送れない。

不透明な今の世の中は不安を生み出すのにうってつけだ。

今欲しい知識に何が真実か明確に証明できるものがない。

Webの記事をシェアしては、簡単に人を不安の世界へ誘い込める。
なにが本当で、なにが陰謀で、なにが親切なのか。

個人の見解に任せられることから「まさに風の時代ですね」なんて、
おいしいような無責任をぬけぬけと発信したり。

テレビなんぞ、外出を控える呼びかけをした次のコーナーでは街での食レポを行ってたり
つじつまの合わない混乱が脳を麻痺させる。

いつからだろう、
片手のスマホで、毎日液晶に表示される、病人と死者の数をスワイプする残酷さに
抵抗があった日々が日常になっている。

そんな鈍くなってる自分に、軽い絶望さえも、霞んでいる。

予防接種の副作用の情報を集めては、新しい恐怖に浸る日々。

「ああ、そうか。わたしは不安でいたいのか。」


最初はコミュニティから離れてる自分が不安だった。
コミュニティから離れることを国が要請したら、これまでの不安が安心になってしまった。
安心が消化できないわたしはネットに転がる日常の危険性を新しい不安にした。
しばらくも経たないうちに、新しい抵抗に対して、もっと、もっと、不安を欲するようになってしまった。

もう、ここまで来たら不安が居心地いいんじゃないかと、いうぐらい。
危険性と呼ばれるものをほっぺが落ちそうだと言わんばかりに食べている。

なにが悪いわけじゃない。なにが本当かわからないから。

ただ、わたしは、今をもってわざと自分を不安に浸らせるのをやめたい。

不安は依存性が高い。それが恐怖。

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