悲恋の文字がたり
人間と同じように、文字にも相性がある。
同じ要素を持つ文字同士は相憐れんで寄りあい、仲間となり友人となり、恋人となり一族となる。熟語を形成する文字ともなればその惹きあう激しさは人知を超えるに違いなく、文字の世界では日々数々の事件が起こっているはずである。
例えばこういう話は考えられないか。
手元の書物に悲恋という文字が貼り付いていたとする。悲と恋はそれぞれ独立した固有の人格を持っているとする。両者はお互いに惹かれあい、のっぴきならぬ仲になろうとしているとする。しかし二人の間には障害があって、実は悲と恋の一族は百年にわたっていがみ合う敵であり、許されぬ間柄であるとする。
すなわち悲は「心」を根底にもつ「感族」の青年であり、恋は「亦」を紋章とする「蛮族」の娘であるとする。いま悲恋は感族のページに貼り付いているとする。悲恋の一行隣にある思という文字は、感族の有力者であり、悲のお目付け役として睨みを利かせているとする。思とすれば、憎き「蛮族」の娘である恋が一族の俊英である悲をたぶらかしていることを許しがたく、悲と恋がこれ以上くっつき合わないよう、監視しているのだとする――
ある早暁のこと、夜行性の文字どもが寝床につくタイミングを見計らって、恋は動き始め、そして一画ずつ、紙の上からそろそろと這い出した。それを追うように、隣にいた悲もじわじわと身体のもつれを解いて動く。両人は逢瀬の名残を惜しみつつ、心の絡み合いを外す。そして周囲の文字どもを起こさないよう(とりわけ思には注意しつつ)、手を取り合って行間を密やかに移動し、全身がページの余白に移動したところで、正しく脱兎のごとく駆けて、蛮族の領地である次ページに移動した。すなわち悲恋は駆け落ちを試みたのである。
お目付け役の思は平素、温厚を以て知られていた。許されぬ二人を苦々しく思いつつも、強制的に別離させることなく見守っていた。而してこの突然の駆け落ちという暴挙を知るや、思も流石に激怒した。感族ではただちに悲に対し、同胞への裏切りの廉で二度と故郷に戻れぬよう、感族領地からの永久追放の処分が決定された。
しかし他方で思は、自分の二行横に並んでいた配下の怒に対し、悲を追って捕えることを密かに命じた。彼奴らが敵地に逃げ込んだ以上は何があるかわからぬとて、悲と蛮族との結託を見越し、将来の反乱の目を潰そうとしたのである。あるいは思は憐憫の情抑えがたく、悲を憎むに憎み切れない親心があったかもしれない。怒は感族の門番ともいえる立場であったから、二人に易々逃げられたことを思に叱責されていた。いわば悲恋両名によって恥辱に晒されたのであったから、思は怒に汚名返上の機会を与えたのであった。
悲と恋は予て示し合わせた通り、余白を越えて蛮族の支配する隣ページに逃げ込んだ。恋は逃げる途上、自分は単なる蛮族の女ではなく、王の娘であることを告白した。感族風の容貌を持っていたが、蛮族に極めて特徴的な「亦」の冠が一際大きいことが明瞭にそれを証していた。悲はその告白に対しても、動揺することなく正面から受け止めた。固より名誉を擲って感族の領地を離れたのは覚悟の上である。敵族の姫君であろうと市井の娘であろうと関係なく、自分は貴方を愛していると答えた。恋は無上の幸福に包まれた。
悲は文武ともに秀でていたが、どちらかといえば文官的素養が高く、詩人の燃え上がる情熱を有しながら理知的な判断もできた。思慮深い性格ながら嘘をつくことができず、しばしば優柔不断とみられるほどの優しさも備えていた。恋は蛮族の王たる父が悲の本質を理解し、武勇に偏りがちな蛮族に新風を取り入れるため、排斥よりは登用に傾くとの打算もあった。願望を希望的に矯正したのである。
感族の文字どもが遠のいていく。
逃避行のその脚で、悲と恋は蛮王のもとに向かい、その面前で自分たちの愛情に嘘偽りなきことを誓った。しかし、蛮族には蛮族の言い分がある。いかに表向き品行方正で心優しかったとしても、感族の者を信じるわけにはいかぬ。その名に「下心」を含む者どもは到底信用ならぬというのが蛮の者の思考様式であったから、王の娘を渡すのは禁忌中の禁忌である。蛮王は、自分の娘がよりにもよって感族の青二才に誘惑されたことに、当初は即刻悲の首を刎ねんとばかりに猛り狂った。しかし、二文字の命がけの訴えが有効であったか、次第に冷静になり考えを改めるようになった。あるいは感族との争いに悲を利用する思惑も生じたかもしれぬ。両人の想いの成就までは許さなかったが、悲の勇気に免じて、彼がもはや感族の国に戻ることはできまいと思い、感族についての情報提供者になることを約束させた。また、定期的に王の前に参じることを条件として、領地への居住を許した。ただし蛮王は、悲が妙な動きをすれば直ちに斬ると警告し、実際それは簡単なことだと考えた。
こうして、あろうことか悲は蛮王の軍門に降り、感族における国政の枢機に関する情報を流すことに励んだ。感族では瞬く間に、悲が完全に蛮族への忠誠を誓ったという風説が流れた。あの若造は蛮族の女にたぶらかされ、女に心を奪われただけでなく、故郷を愛する心をも失ったのだと噂され、悲は感族の国ではついに「心抜きの非」と仇名されるようになった。心を失うことは感族において文字としての根拠を失うことであり、最大の不名誉である。
ところで、蛮族に変という者がいた。智能に優れた王族の家臣であったが、蛮族の中でも突出した偏屈ぶりで知られ、妙に鋭く人を見抜くようなところがあったため、一部の者からは疎まれ気味悪がられていた。ある時この変が、王に参じた後で帰路につく悲を見つけるなり、その細い目で凝視した後、「あんたは王に取り入り、蛮族の国を乗っ取るつもりなのだろう」と語りかけた。
悲は虚を突かれて驚き、その場では滅相もないと惚けたが、この変という男は油断ならないと考えた。実際のところ彼の目的は恋との関係を成就させたいだけであったが、蛮王の信頼を得るに従って、心の奥底にある野心の芽生えが見透かされたような気がした。
その後に変は意外なことを言った。「まあどちらでもいい。なんにせよ、あんたは我々の姫さんと結ばれたいのだろう。協力してやらんこともない。そのためには…」
変は感族の母親「恋(蛮族の姫と同名)」と異民族との混血であった。父である「夏」が若くして意味喪失した後、女手ひとつで育てられたが、その母も過労に倒れて意味を失い、一族から放逐されたところを蛮族に拾われて育った。両方の部族に恩義があった。感・蛮両族が和解することを心から望み、そのための機会を窺っていたのである。
その夜、悲は危険に遭うことも覚悟しつつ、変の提案通り、指定された廃墟という文字の辺りまで単身足を運んだ。こっちだ、と呼ぶ声に半信半疑のまま近づくと、変の姿がある。廃墟に入ると、中は燭台が並び、小さくも瀟洒な聖堂風の装飾がしつらわれていた。その奥に、如何にして誘い出したものか、恋が既に居た。変は祈祷者を呼び、悲の「非」の部分から一画の線を引き抜かせ、恋に対して「亦」の部分から一画を引き抜かせ、互いに交換させた。祈祷者がそれを見届けて、それにより婚姻が成立した。悲も恋も背徳の幸福に酔い、正当な手段での婚姻などすっかり忘れてしまった。あっさりと悲恋両人の願いは叶えられ、既成事実はなった。意志による結びつきこそ至当である。二文字は世界中の幸福を占有し、硬い誓約が何者にも破られないことを確信した。
蛮族の奕という者は気性は荒いが知略にも長け、勇猛果敢、戦闘では獅子奮迅の活躍であったため蛮王に重宝されていた。奕は剛毅な蛮王から見ても英雄たる資格充分であり、王は将来を期待し、ゆくゆくは恋との婚姻を匂わせていた。恋を想う奕にとって、美貌の恋を手に入れることが確実であり順風満帆な状況であったが、そこに隣ページの敵族から突然現れて水を差したのが悲である。結ばれることは認められていないが、恋が強く押せば王が悲を受け入れる日も遠くないかもしれぬ。奕は機を逸することを焦り、蛮王に対して、正式に恋との婚姻を申し入れた。曰く、自分は忠臣として蛮族の国を守ることに力を尽くしてきた。また、恋を愛することにかけて何人にも引けを取らないつもりである。どうか恋との結婚を許してもらいたい、と迫った。蛮王はしばし迷った。恋は奕に対してそれほど悪い印象はなかろうが、かといって現在燃え盛っている悲への想いが焦げ付けば、良くないことが起こるのではないかと。しかし最終的には奕と恋が結婚し、蛮族の栄華を望むことが最も現実的で理想にも適うと結論した。蛮王は奕・恋を結ばせ、悲を蛮族の領地から追放することを決めた。
悲は感族から出たうえに、蛮族からも追われる立場となった。そして悲が窮すれば窮するほど恋の情熱は燃え上がった。なんとしても蛮王に刺激を与えて反省を促さねばなるまい。
変が一計を案じた。王を改心させるには恋が一度死ぬことが最も効果的である。変は恋に白い液体を見せた。それは修正液と言って、一度文字を白く塗りつぶすことができるが、その後上書きして文字は復活できるという。この秘薬を用いて仮死状態になることを提案した。恋は躊躇なくその提案を受け入れた。奕との結婚式の前夜、薬壜を開け、全身にその白い液体を塗布した。身体は漸次薄くなってしなやかな身体を固くし、恋の意味は失われた。翌朝、恋の文字は殆ど見えないほどの美しく儚げな薄墨色に変化し、地に固着して冷たくなっていた。蛮王は悲しみに暮れ、憐れなほどに落胆した。遺体を汚したくないと、ありのままに葬送の儀式が行われ、恋は墓所の一室に葬られた。
葬送式を終えてなお、奕は恋への想いが尽きず、墓所に留まっていた。そこへやって来た者がいる。目を凝らすと悲であった。恋が意味喪失したと聞いていても立ってもおれず、危険を冒してやって来たのである。奕は、これ以上蛮族の誇りを荒らしてくれるなと悲に告げた。それに対し悲は「自分は恋を愛する心には偽りがない。どうしても恋の傍にいてやりたい」と返答した。
どうしても退かないのであればやむを得ぬと、奕は悲に決闘を申し込む。激しい剣戟を交した後、奕に一瞬の隙ができた刹那、悲の剣先が奕の中心部を貫いた。奕の文字色は瞬時に薄くなって亦の紋章を失い、どっと大の字になって倒れた。奕は今わの際、息も絶え絶えに言った。自分は恋を想うことにかけてはおまえと変わらない、どうか恋の近くに葬ってほしいと。奕も無骨ながら、情義に生きた武人であった。悲は黙って頷いた。
感傷に浸る暇もなく、悲は急いて恋のもとへ向かった。祭壇に花化粧で彩られ、無垢な白さに包まれた恋の姿は、文字色が薄くとも生きているように美しかった。そのまま起き上ってくるのではないかと思えた。しかし、時既に遅し。悲は恋を失った。大望も潰えた。故郷には戻れぬ。悲はもはやこれまでと、薄墨色に変色した恋を愛おし気に見ながら、意を決して固形の消し護謨を身体中に擦り込んだ。悲の文字は部分的に残って意味を失い、恋の傍に倒れ伏した。
睡眠状態から目覚めた恋は、傍らに意味不明の記号が薄く残っているのを見て、それが悲の痕跡であることをすぐに悟った。一縷の希望は完き絶望に転じた。恋は右の懐に忍ばせた鋭い刎ねのある一画を抜き出して、それを短剣に見立てた。その短剣を悲の痕跡の上に逆立て、そのまま倒れ込んで自らの喉を突いた。恋は一画が突き出て意味を喪失した。互いに意味を失った悲と恋は折り重なるように、ページの余白に静かに横たわっていた。蛮族の者がそれを発見したのは翌日だった。
以上の顛末が、悲を追っていた怒より、思をはじめとする感族に報告された。思はもはや、悲を捕え損なった怒を叱責しなかった。悲は愚かに立ち回ってついに惨劇に至ったが、それは生命の原動力である情熱を存分に発散した結果であり、誰を責めることもできぬ。将来有望な青年を失ったことが、ただただ惜しまれた。
これよりしばらくの間、感族と蛮族は意気消沈、哀しみに暮れ、静かに時が流れたという。そしてそれ以来、しばしば悲と恋のふたつの文字が同じ書物の中に印刷されると、強く引き寄せあって、時には固く抱きしめあうように熟語を形成するのだという。蓋し、悲恋という言葉の意味もこのような物語を背景として成り立ったのであろう。
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「こういうわけで、このありえない誤植が生まれてしまったのです」
長々と語った後で、その編集者は、悲と恋が重なり合ったミスプリントのゲラを、それはそれは悲しげに著者に示した。その面持ちは、悲恋に沈んだ悲と恋の運命を憐れみ、神妙さを醸していた。語ったというよりは壮大に騙ったというのが正しかろうか。
しかもこの編集者、
「彼らを引き離すのは気の毒ですから、束の間の逢瀬を味わわせてやって、最終校までこのまま残しておいてやりましょう」
とまで宣った。著者はこの妄想力と言い草に対して、ただただ苦笑するしかなかった。
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