森鷗外の「あそび」
森鷗外の「あそび」という短編の中に、今の自分のあるべき心境に近い記述があった。
もちろん自分は文学者でもなければ文学者として人に知られているわけでもない。しかしそういうものになりたい気はしている。つけたりのような仕事をしていて、頭が禿げかけてきてもいっこうに幅が利かないのに、ろくなものを書いていないのは同じである。
しかしこの主人公「木村」は、仕事においてはうだつが上がらないわけではなく、仕事場に早く来て、晴れ晴れとした顔で次々とこなしてゆく、どちらかといえばデキる男なのである。それはすべてをあそびの精神でこなしているからだという。仕事を早めにこなしていきたいという心構えは自分も持っているつもりだが、それは重苦しいから早く軽くしたいという気持であって、とてもあそびとしてすいすい消化するという境地には至らない。
「木村」が鷗外自身を模していると考えた場合に、文学史上の「余裕派」と言ったら『草枕』などに代表される初期漱石の独壇場かと思いきや、これを読むと、なんの鷗外だってかなりの余裕派じゃないの、と思える。
なんにせよ、自分がいつも試されているかのような器量の狭さから脱却して、すべてをのらりくらりとかわしながら、あそびだと楽しめる心のありようを会得したいものだと考えたりする。プレッシャーに弱くて、人の顔色を窺い、いつまでも腰が据わらずに、どこに座を占めるべきかわからない浮雲のような気分に陥っては特に。
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