見出し画像

こども雨声録

 物憂い雨の日であった。戸外に、幼い少女たちがキャッキャと雨を避けてはしゃいでいる声がする。上から水の粒が落ちて来ることが楽しくてたまらないようだ。子供は何が面白いのかわからないところで笑う。我々の見えない何かを見て、特有の琴線に触れているようでもある。自分もかつては子供であったはずなのに、子供の素直な笑いの琴線が、いつしかわからなくなっている。なぜ、子供心を失うのだろうか。少女が子供心を失って恥じらいを知り、乙女心に変わるのはいつだろうか。私はこんなことを考えながら、子供の思うところについて、いつもの妄想を繰り広げてみる。


*********************

 ある日の予報は雨だった。朝の曇り空と天気予報を見て、いつ子の母は、娘に長靴を履いて出かけるように命じた。家を出ると、ほどなくぽつぽつと雨が降ってきた。なんだか楽しくなってきて、「やめてやめて、やめてやめて」と冗談めかした独り言をこぼしながら、いつ子はゲームのように雨粒を避ける仕草をとりながら、ひょいひょいと縦横に飛び回った。母は、そのうち車道にはみ出てしまうのではないかと見かねて、いつ子の手を取って引いていく。

 ふざけながらも、いつ子はきちんとルールを守れる人間である。公道を歩くときのマナーは逸脱しない。横断歩道を渡る際、母親とつないでいないほうの手は、もちろんピンと挙げて、伸ばす。謹厳な面持ちで、姿勢も正して歩く。大人たちが、笑みを浮かべながら傍を通りすぎてゆく。大人たちのニヤつく顔を横目にしながら、はねっ返りの遵法者いつ子は毎回思う。ふん、おおかた微笑ましいとでも思っているのだろうが、この大人たちが一人だって手を挙げて渡らないのはどういうわけだろう。挙手ができない特別の事情があるならともかく、ニヤニヤしている暇があれば、少しの時間手くらい挙げるべきであろう。幼稚園で習うような交通ルールの基本すらできない大人ばかりだ。そう考えると、老い先の長いこの国は、このままで大丈夫なのかと一人一人に真顔で問い詰めたい気持ちになるのである。

 しかし、いつ子は空気が読めるので、うわべはすまして知らぬふりをしている。大人がどんな気持ちでいるかを読んで、それに従うほうが面倒がない。常日頃母親からその教訓を得ている。
 先日は母親と、ひな人形を選びに出かけた。大きなお内裏様とお雛様の二体だけのものと、三人官女から五人囃子も勢ぞろいの七段そろえの二種類があった。いつ子はもちろん、種類がたくさんあって賑やかなほうが楽しい。値段はともに5万円と書かれていた。迷うふりをして母のほうを盗み見ると、二体セットを見る時間がどう見ても長い。平素から観察していたとおり、母はごちゃついたものを嫌い、シンプルなものを好む。この法則に間違いはなさそうだ。いつ子は自分の希望を殺して、二体だけのものを選んだ。「この子は一点豪華主義で立派な方を選ぶんですよ。数にこだわらず、ものの本質的な価値がよくわかる子なんです」と、母はレジで代金を支払いながら店員に「自己紹介」していた。
 またある日は、もうすぐ小学校に上がるという頃合いなので、母親とワンピースを選びに出かけた。いつ子は小学校に入ったら、赤いワンピースを着たいと思っていた。しかし彼女の母は落ち着いた色味が好きで、なんでも地味な色合いを気に入っていた。さて、商品がやって来た。鮮やかな赤と落ち着いた紺。母の顔色をうかがう。紺をじっと見ると、母の表情がわかりやすく緩む。赤に目を移すと、母は少し眉を上げる。今回も法則から外れていない。とても簡単で、間違いようのないゲーム。自分の意思に反して機械的に選べば、それで満点が取れる。そのうえ人生にしばらくの平穏がやってくる。将来の安寧に保険をかけるための選択。いつ子は、こっちにする、と言って紺のワンピースを指さした。母はにっこりと微笑んで、店員に「子供なのに、渋い色味が好きなんですよ」などと言っている。心の中でやれやれと両手を広げる。子の心親知らず。今回も簡単だったが、奥底では何かが削られていくようにも思う。

 いつ子は、美しさとはなんだろうかと考える。昨年弟が産まれたとき、わくわく楽しみにして、病院で初めて顔を見た。赤くて目鼻がもやもやして、ぶよぶよしている。赤ん坊というのは、なんて可愛くないものだろうかと思った。大人はこのみっともない生き物を、可愛い可愛いと言って褒めそやす。同じ時期に生まれたハムスターの赤ちゃんも、まるっきり可愛くないと思った。生まれたての生物というのは、なぜこんなにみにくくて、珍妙な顔をしているのか。自分もかつてこうだったのかと思うと、自分の顔がいずれそれに戻ってしまうのではないかと恐怖を感じ、いっそのことくしゃくしゃにしたい衝動に駆られる。

 いつ子はおてんばで、保育園終わりに男の子の集団の中で遊ぶことがもっぱらだった。毎日のように野球仲間たちと遊んでいる。ある日の試合の中で、男の子が思いきり振り回したプラスチックのバットが頭に直撃し、ちょっとしたコブができてしまった。痛みには強いタチであるから、泣きはしなかった。翌日、いつも通り野球に混ぜてもらおうと思って行くと、幼なじみのしょうちゃんから、真面目な顔つきで、いっちゃんは今日からカントクな、と言われた。なんでもカントクとは最高に偉い人で、自分で投げたり打ったりせず、バッターやピッチャーに指令を出すのだそうだ。そんなのつまらない、といつ子は思った。その日から専任のカントクとなって、バットもボールも持たせてもらえなかった。

 この日もカントクを終えた帰り道、雨は止んで、川辺に虹が出来ていた。虹を見た瞬間に、その終わりを追いかけてみたくなった。心に浮かんだアイデアを、すぐに実行に移す。いつ子は川に沿った土手の道に上がり、虹の先を目指して走り出した。
 虹の果てを懸命に追ういつ子の黒くて長い髪が、風と混じり合って靡いた。虹が消えることは、この瞬間少女にとって世界の全てであり、力を尽くして追わなければならない神秘であった。長靴の歩きにくさなど、微塵も感じていなかった。つまらなかった野球もすぐに忘れた。狭い歩幅は回転を早め、川の土手道をどんどん進んで行った。そのうちに、いつ子の影は大人の身長を遥かに超える長さに延びており、少女の小さな身体にある全能感を昂らせた。空は紺碧から薄紅色へと染め替わりつつあった。
 三本目の橋を越えたとき、虹は消えていた。果てまで来たのかと思って、横を向いてみた。虹はどこにもなかった。橋のたもとで、一人の知らないおじさんがホースのようなものを持って佇んでいた。なんということだ!虹はこのおじさんによって吸い取られたのだ!そこでいつ子は初めて虹が果てるものではなく、失われるものであると悟った。虹の消失を待っていたかのように、空の薄紅色は、こげ茶とも紫ともつかぬ濃い色彩に満ちた。
 その夜、陽が落ちるまで虹を追いかけた少女は、心配して川沿いまで探しにきた母親に、家に帰ってからひどく叱られた。虹が消失する理由を突き止めたいつ子は、がみがみ叱られながらも満足げに微笑んでいたので、母親は実に閉口した。

*********************

この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

雨の日をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?