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こども巌流島

 近所の子供たちが夏休みに入ったらしく、昼間の熱いさなかに賑やかな声が響いてくる。今年の蝉の鳴き声に力がないこととは対照的に、子供の嬌声が何はばかることなく周囲を圧倒している。文京区は小石川の小アパートに数年住まっているだけだが、入居当時に幼児であった子供らはおそらく小学生に上がり、追いかけっこをしてはしゃぐだけの遊びから脱して、キャッチボールをするまでになった。彼らはいよいよ「スポーツ」を知ったのである。すなわち遊戯が競技になり、競い高めあうことの喜びを幼児から少年になる過程で覚え、来るべき青春の葛藤に身を染めていく。競う楽しみの傍らには、苦しみが伴ってあることを知り、それでも挑んでいくことにより、成長していくのである。

 そうして、わたしはいつものように彼らの活力を肴にして、以下の如き妄想を繰り広げて一人遊ぶ。

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 ある日、小学生になったばかりのたけるは、待ち合わせの場所に指定した、住宅街の中にある小さな公園の脇の街路樹の下で、同級生のいちろうを待っている。今日は野球勝負をすることになっている。野球といってもチームで対抗するわけではなく、一対一で投げるほうと打つほうで勝負するという単純なものであり、子供用のプラスチックバットと、ゴムボールで、技術を競い合うのである。

 それにしても、遅い。

 約束を忘れてしまったのではないかしら。名前の音から考えれば、明らかに自分が新免武蔵であって彼が巌流佐々木小次郎であるべきはずなのに、決選の巌流島で待たされて小次郎役をあてられているのは、なぜか自分である。じりじりと焦らされて、これでは自分の敗北が最初から決まっているようではないか。

「いっくん、こないなー」

 誰に向かうともなく、大声で独り言ちてみる。周囲は静まり返っていて、民家やアパートのコンクリートの壁に、自分の言葉が反射する。
 もう一度、いっくん、こないのかなー、と繰り返す。近所の大人が聞きつけて、どうしたの、いっくん来ないの?とでも尋ねてくれたら、待ちぼうけの虚しさは少しでも解消できるだろうに、誰も出てこない。この手持無沙汰な時間が、裏切られたような気持ちを募らせる。

「いっくんは、もうこないのかなー」と、もう一度大きな声で目の前の建物の壁に向かってアピールして、そのあと「きょうは、ぼくの勝ちでいいのかなー」と付け加えてみた。それでも真夏の昼間の街路は、無神経なくらいに閑静を保っている。たけるは、もちろんいちろうが好きだが、待つうちに、ちくちくと心が刺されるような痛みを自覚し始める。

 いちろうのお父さんは大学病院の先生だそうだ。幼少期から野球少年で育ってきて、甲子園には行けなかったけれども、野球選手になることが夢だったらしい。もちろん、息子の名前の由来は米国メジャーリーグで伝説的に活躍したスーパースターである。幼少期から野球グッズに囲まれて育った息子がその球技に関心を示したとき、いちろうの父の喜びは尋常ではなかったことだろう。たけるの父は常々「いちろう君のお父さんは立派な人だからね」と言っている。それに比べて、父自身は「ふつうのサラリーマン」なのだそうだ。実際にそのチチロー医師に会った折には、父は家では見たことのない、胡麻をするような姿勢で挨拶する。いつもの猫背がさらに丸くなっているようだ。せめて裏ではちょっとくらい陰口をたたくとか、負けん気丸出しの人間味というものを見せて欲しいのに、父ときたら完全無欠の人のよさで、家でもそんな調子でいちろうの父を称賛する。人間としての好き嫌いと、高めあうために競うことは別の問題なのだ。そういった大人同士に生まれる序列的な態度が子供同士の関係にも微妙に影響するということを、往々にして大人は理解しない。たけるは同い年のいちろうと同列でありたいというのに、自然と、少し遠慮が出る。社会という異世界に食い込んだ、親同士の目に見えない力関係にまで配慮しなければなければならないことに、たけるは内心不満である。父が自身の立ち位置を固定するのは勝手だが、将来ある彼はここから成長して、飛躍せねばならぬ。

 何よりたけるは、野球に関しては、自分のほうがいちろうより上手いと思っている。ゴムボールの変化球も自在で、本気を出せばいちろうを三振させることは簡単だし、いちろうの投げる球ならたいていはプラバットできれいにヒットできる。いちろうは、家ではチチロー医師から「たける君に敗けちゃいけない」と教えられている様子なのである。はっきりとは言わないが、そんな雰囲気のことをいちろうは時おりぽつりと漏らす。なんだかみじめな気持ちがして、涙が出そうになってきた。たけるは、今日はもう帰ろうと思った。

 と、その時、いちろうが肩を大きく弾ませて駆けて来るのが見えた。我がライバルよ、汝、後れたり。しかし今、来たれり。なんと嬉しいことだろう。まんまと小次郎を演じる羽目に陥ったが、ぶざまに武蔵に負けてなるものか。

 「いっくん、おそいよー。今日は野球だよ!」

 たけるは、涙目を見られないようにやけくそに声を張り上げて、親友を迎えた。自分で自分の声に驚いた。

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