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夜明け前、金木犀

 早朝、鳥が鳴いている。昨日ひさしぶりにお酒を飲んだからか、まだ薄暗いうちに目が覚めた。今は午前4時少し前。ぼやぼやの頭で寝転がったままスマホをいじる。新聞配達のバイクの音や、鳥の鳴き声が聞こえている。

 そこにふと、金木犀が香る。たしかほんの少しだけ換気のために窓ガラスを開けていた。いい香り、と思いながら、そして、まだ暑いようだけれどもう秋なのだなと実感する。そうしたらなぜか途端にさみしい感覚におそわれてしまって、その正体に思いを馳せなくてはならなくなった。

 ぎゅっと目を瞑り、思い出すのは小学生の夏休み。小学生だったわたしたちはあの頃、浮き輪の空気を抜いている時に、人生の大半のさみしさを味わったんじゃないだろうかと思う。プールで散々はしゃいだ後、そのテンションを引きずったまま、けれどからだは疲れていてすこし眠い。まだまだ遊びたいのに、夕方の気配とまわりの家族がだんだんと帰って人がまばらになっていく、その抗えない終わりの近づき方に自分が無力すぎて悲しかった。そうして仕方なく諦め、浮き輪の空気を抜くのだ。がんばって体重をかけてぺしゃんこにした浮き輪を、さみしい気持ちといっしょにぐるぐるに丸めて持って帰る。

 そんなことを思い出してなんとなくだけれど、夏がゆっくりと終わり移ろっていった時の扉を、あの頃にきちんと閉められていなかったように思った。だからわたしの人生には時折するりと、なまぬるくてさみしい瞬間が訪れるのだ。

 ちいさなアパートの一階で、東京にしがみついて暮らす今の生活を愛している。けれど、ふいに訪れるさみしさもわたしは抱きしめていかないといけない。人生は続いてゆく。いつか未来でちいさな庭のある家に住んで、金木犀を植えたいと思った。すこし開いたままの扉のことを、ずっとずっと肯定するために。

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