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私がnoteを始めた理由。

平凡な人生だったはずの私に、全然平凡じゃない事が起きた。

出産するまでは、特に特徴もない人生を歩んできました。田舎の公立の高校を出て上京し、特に有名でもない私立文系大学を卒業し、就職氷河期の中、就活に苦労し、アパレルや映画配給会社に就職したいと頑張りましたが、どこにも引っかからす、当時のITバブルに乗っかり、ソフトハウスに就職し、プログラマーとなり、その後、職場結婚しました。

ところが結婚して、出産し、死産し、出産し、そしてまた出産し。。。
そして、元気に生まれた子供たち3人は、生まれて数年後に、発達障害とわかりました。死産した時に、「生きているだけで感謝しなくちゃ」と思ったはずなのに、子供たちに障害がわかると、「もう辛いのはあれだけで十分なのに。」と、「生きているだけでありがたい」などと思う余裕もなく、手探りの育児でした。正確には、「でした」ではなく、「です」という現在進行形の形です。

「でした」になりつつある一人目の長男は、ようやく職を得て自立に向けて歩んでいます。

発達障害児を持つ親に一つの「例」として参考になれば。。。

「例」って変な言い方ですが、発達障害って一言に言っても、ほんとに人によって全然症状が違います。なのでその子によって良い形はそれぞれ違うと思いますが、うちの子育てや、進学、進路の節目節目の選択など、今、悩んでいる親御さんに向けて、こういうふうに育ったケースがあるよ、という一つの参考にして頂けたらと思いました。

もちろん、まだ20歳なので子育ての答え合わせはまだまだ出てはいません。これから、何が起きるかわかりませんが、とりあえずはここまできた、という話です。

息子の発達障害を聞いた頃は、今ほど言葉も浸透していなくて、どうやって大人になっていくのか、ネットや本やいろんなものを漁りましたが、「大丈夫、どうにかなる」という希望がなかなか得られず、随分と不安な中、息子の障害を周りに言えず、孤独に育てていました。

マガジンの方にも書きましたが、(記事のリンクの仕方は試行錯誤中)
息子の障害は、こんな感じです。
メインは自閉スペクトラム症、ADHD(注意欠陥強め)、軽度知的障害、発達性協調運動障害、トゥレット症。後天的なものは、トゥレット症です。

お子さんに障害があると分かった親御さんは、間違いなく自分が亡き後の将来の心配をします。そこから少しづつ現実的な方向に悩みが広がっていきます。
私たちが死んだらどうするの?から始まり、仕事は?結婚は?学校は?

私たち夫婦も全く同じです。あの時に、「こうやって育ったよ」「こうやって大人になったよ」「こうやって生きて行ってるよ」というエピソードを少しでもたくさん知ることができたらどんなに希望になっただろうと思います。

そうやって希望を持つことは、多少なりとも子育てに余裕を与えてくれると思うのです。「大丈夫、どうにかなる」と思える事実があることって当時の私にはとても必要でした。根っから心配性の私には特に。。。

全く同じ子供はいないので、みんなそれぞれ合う道は違うことは間違いないと思うのですが、1ミリでも希望を持って頂けると嬉しいです。

noteを始めてちょうど1週間なので、使い方がよくわからない部分も多々ありますが、マガジンの方に思い出しながら綴っていきたいと思います。

未だ手探りの不登校生の子育てに希望を持ちたい。

自分の子供がまさか「不登校」になるなんて、ってやつです。ほんとに。
一人目はちゃんと(?)育ったのに。。。(これもまだわからないですけどね)
長女は不登校になって1年が経ち、次女も3ヶ月ほど前から五月雨登校です。
今は、このことに関しては、完全にお悩み真っ只中、暗中模索、という言葉がピッタリな状況です。

「不登校」というワードで検索をしていると、たまにnoteの中のページがヒットして、何ヶ月か前からいろんな投稿を読ませて頂いていました。noteの中で自分も何か発信することによって、同じ体験をされた人や、今まさに私と同じように葛藤中の方、経験者とも繋がれたら心強いなと思いました。

娘は中1の秋から登校しぶりが始まり、冬には相談室登校となり、3月のコロナ一斉休校を機に行かなくなり、精神的に追い込まれ、5月の終わりに「うつ病」と診断され、抗うつ剤に睡眠薬にと薬をどんどん処方され、壊れてきました。毎日のように、「死にたい」「殺して」と言われました。目つきも変わり、人格も崩壊しているように見えました。学校どころではありませんでした。

自傷行為もひどくなり、最終的には自殺未遂も何度か行い、警察のお世話にもなり、とうとう入院しました。うつ病と診断され、薬を飲み始めてわずか1ヶ月半のことでした。自傷行為は「後遺症」が残らなくてよかったね、というくらい深い傷が何本もありました。

入院し、薬をやめたらだいぶ落ち着きましたが、入院中も辛い目にたくさん遭い、腕の無数の傷以外の心の傷もたくさんつけてしまいました。そこで発覚したのは、適応障害はあったものの、はっきりとしたADHDと、ASDの要素があることです。あんな短期間に人が変わったようになったのは、薬の副作用でした。ADHDという衝動性の高い13歳の娘に処方するにはあまりに危険な薬でした。
何より、「誤診」でした。

病院を選んだ自分、薬で良くなると信じた自分、うつ病と診断するよりも先に発達検査をやらない病院に何も言えなかった自分、早く良くなるようにと焦った自分を本当に情けなく思い、娘の心と体に一生消えない傷をつけてしまったことを、深く深く反省しています。このことは、書いている今も、思い出すと、辛くて悔しくて悲しくて、涙が込み上げてきます。

私はずっと自分を責めていました。

街中で見かける楽しそうに友達と笑ってる制服姿の学生や、スーパーで見かける買い物中の親子、日常の当たり前の風景すらも私には残酷で、比べても仕方ないとは頭では分かっていても、そんな光景を見ては泣いてばかりでした。
当たり前の日常すら送れない自分の家が嫌になり、そんな家庭を作った自分も嫌になりました。

カウンセラーの方にもスクールカウンセラーの方にも、「お母さんは悪くないよ」と言われ続けました。言われてもすぐには、素直にきけず、それでも自分さえあんな選択をしなければ、とか、そもそも干渉しすぎたんだ、とか。。キリがないほど責めました。しまいには、私は不必要だ、私も消えてしまいたい、と何度も何度も思いました。

でも、最近は、自分を責めそうになったら、「私は悪くない」と思うようにしています。私が自分を責めたら、きっとあの子も自分を責めてしまう。私が楽しく生きることが、あの子の心を軽くして、人生って悪くないって思ってくれるかもしれない。少しづつ半ば無理矢理ですが、そう思えるようになってきています。

長女は確かに今、「不登校」ですが、私の中では、いろいろあってようやく「不登校」というところまで戻ってこれた、という感覚です。退院して5ヶ月、、
生きてるだけよかった。もはや、学校なんてどうでもよいのです。

ここから先、娘が自分の人生を自分で生きていくこと、自分で選択し、自分で進んで行けるところまで、せめて、自分で進もう!と思えるその日が来るまで、一定の距離を保ちながら、お互いの人生を尊重しながらできればな、と思います。まだまだ私にとっては「理想」ですが。。。

このことも、慣れない「マガジン」に少しづつ綴っていきたいと思います。
よろしくお願いします。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。




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