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ルールを疑うことは、当たり前を疑うこと

『「ルール」とは、現状に合わせて変えるもの』というのが、私の基本的な考えだ。

「それがルールだから」という言葉だけで、人は思考停止してしまう。何も考えずに従ってしまう。

横断歩道で言うなれば、「赤信号だから止まれ」というよりも、「車が来てるから止まれ」なんだよね。横断歩道では、赤信号の有無に関わらず、自分で考えて、判断して、止まるもんだ。赤信号でも、車が来てなかったら、自分の判断で渡ればいい。(まぁそれは自己責任ね、という、自由と責任の話が始まりそう)

ともすれば、「ルールは破るためにある」とも思ってしまう。

「破る」というか、何も考えずに「ルールだから」という理由だけで守って、思考停止に陥るな、と思う。(自分にも言い聞かせてる。)ルール破った方がなんか新しいこと生まれそうじゃん?(笑)

私の前に道はないけど、私の後ろに道はできる。

『普通がいいという病』という本の一節だ。

私は、小径を行く方が好きだし、尖っていたい、と思っている。そうしたら、ルールを変えたり、ルールを破ることで小径が開けることもある。

ルールは守るべき・破ってもいいという議論よりも、言いたいのは、なんのためにそのルールはあるのか、今の状況で自分は従った方がいいのか、従わなくてもいいのか考えろ、ということだ。

複業、会社や学校のルールや文化、社会的な規範もそう。ルールや社会的な雰囲気って、ストッパーになることが多い。心の声を、頭の言葉がかき消す感じ。

ルールがなんのためにあるのか疑うことで、小径が見つかるかもしれない。ルールを疑うことは、当たり前を疑うことになる。

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