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あっち向いて、こっち!

前回、前々回と、

気づきには

外側に向かうもの、
内面に向かうもの

の二通りの方向性がある。
いずれも人間の尊厳ともいうべき尊いものだ。

なんて、”ご高説”をのたまったわけですが、
その尊い所為にどーいうわけか水を差すような、また影を落とすようなイヤーな「存在」をほのめかしました。

そこも踏まえたうえで、今回は、あくまでも私自身がこう考えている、このように認識しているという「気づき」について書いてみたいと思います。

あっち向いてホイ! で真逆に首を回せる人が世界の明日を見れる。

誰も顧みないところ、平凡すぎること、当たり前だと思っているところ、そんなお馬鹿なというところ、眼前にいつもあって見えないところ、実は・・・(思わせぶりなイントロ)



問題の答えよりも問題が問題だ?

もちろん、あなたにはあなたの「気づき」があることでしょう。
当然私とは別のご意見があるはずです。

私自身、これが「正解」とは思っていません。
というより、私は物事をこう考えます。

  1. 正解はない

  2. すべて正解だ

  3. 究極は「正解」も「不正解」もない、あるがままの世界があるだけ

なんのこっちゃ? 
ですが、

ずいぶん前から、私は「問題」を「大きいか小さいか」で判断しています。
その「大きい問題」とは、すべての「小さい問題」の元になるものとします。

よって、小さい問題がそれぞれ「解決」しても、もとの「大きい問題」が解決していないのであれば、それは「正解」ともいえる反面「不正解」ともいえる。
なぜなら、「完全」ではないから。

そんな考えです。

つまり、私にとっては、問題の「解答」そのものよりも、なぜその問題があるのか、その問題が行きつく先はどこか?
そこが常に「問題」なのです。

なに? 大きいか小さいかだって? 
それ、問題と言うより「問題発言」か?




大きな泡の中に小さな泡がある

大きな円(泡)を心に描いてください。
それが「正解」でもなんでもいいですが「到達点」としましょう。

今度はその円の中に大小さまざまな○(泡)を描く。
これがあなたや私が今抱えている「問題」です。
しかも、下図に示す通り、小さな泡はすべて大きな泡に含まれていて、常に関係性がある。

「問題」と「答え(正解)」

以上、それだけです。
一個の問題を解決し、答えを出す。
それがたとえ「正解」であったとしても、それはその問題の「正解」なだけであって、ほかの問題や、まして大きな問題は未決のまま。

その問題が、大きいか小さいかだけで「答え」は二の次になります。


この大小さまざまな問題(泡)に、あなたは矢を射ます。
見事命中すれば、その問題(泡)は消えます。
シューティングゲームみたいなものです。

そして、見事大きな泡にあたれば、その中にある小さな泡もすべて消えます。
しかし、小さな泡をいくら消しても、無限に小さな泡は湧いてきます。
(蛇足ながら、「これぞ大きな泡」と思ってその問題を射落としても、また新たに別の泡が発生する場合は、その射落としたはずの泡は実は「小さな泡」ということになります。)

このことから、(人生で)最後にやってくるのが、

何を、そしてどこを「問題」にしているのか?  

という「問題」「狙い」です。



情報の泡「何を問題にしているか?」

ここであえて私の口から言うまでもなく、今は情報洪水と言われる時代です。
というよりも、おもにネットのおかげで無数の情報が手元に届く時代になったということが出来ます。

私もそうですが、特に若いころは

「何がホントなんだろう」
「何を信じたらいいんだろう」

と迷うことがあります。

EV車が増えたらなおさら電気供給逼迫だと?💦

たとえば、このnoteというプラットホームを一瞥しただけでも、なんとも玉石混交で、取捨択一するいとまもないほどです。

その際、選択の手掛かりとして、私が言ったようにその方の抱えているテーマが「大きいのか否か」を基準にされるのも一考かもしれません。

もし、その方が取り組んでいる問題提起(情報)により、あなたもその問題を「知った」「解決できた」のであれば、それは素晴らしいことです。

ただし、その問題がもし小さかった場合、同じような問題は、どんどんほかにも出てきます。

しかも、その問題同様にその問題に取り組む方もほかに出てきます。
つまり、その方でなくてもいいという場合すらあるわけです。

となると、泡を探求しつつも、自らが「泡沫」となるような「木乃伊ミイラ取りのミイラ」という落とし穴もそこに潜んでいます。



大きな問題は見えない

「大きな問題」と言うのは、ほとんどの方があまり気にかけない(見えない)問題であることが多いです。
いや、ほぼすべてがそうです。

私が『とどのつまりについて』で書いたように、

まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」で、みんなが

「大変だ、猫が次々とさらわれて行って猫がこの町からいなくなったゾー」
「いや、そりゃ一大事、早速警察に調査を依頼しなくては!」

とやってるときに、
名探偵?は、たった一人、丘の上で指をなめ風向きを調べたり、
気象庁に出向いてなにやら相談をしている。

といった有様なわけです。

「はあ?」

てなあんばいですね?
誰も、町から猫が消えたことがまさか、「風」のせいだなんて思いませんからね。

(フツー、参照として自分の記事をあげるにせよ、「なんたら論」とか、もうちょっとマシな信憑性あり気な”体裁よい”ものを挙げるんでしょうが、タイトルからしてコーですからねー😆)

そして、こうも言えます。

大きな問題を抱えているものにとっては、小さな問題は誰かにやってもらう方がいいのです。

私は不思議にある年齢になった時から、
何かの分野で優秀な方が出てきた場合、「安心」するんです。
その方に任せておけば(むしろ私なんかの凡才がとやかく言うより)優れた仕事が出来ることを期待してのことです。

ごく若いころは、こんな私でも「よーっし、負けてられんぞー」みたいに気負ったこともありましたが、そんな気持ちが無くなりましたね。

それというのも、(あくまでも私の中では)さらに大きな問題がそこに寝そべっているからなんです。



なぜ解決できない(しない)問題があるのか?

問題は山積です。

たとえば「陰謀論の話」「世界権力構造の話」「スピリチュアル世界の話」「愛の話」「美容健康の話」「仏教哲学の話」「ウクライナ問題の話」「コロナの話」「ワクチンの話」「SDGs」「お馬鹿の話」・・・云々を切り取って、フツーそこ(一つか二つ)を解決したいと思いますね?

焼き魚にすっか刺身にすっかそれが問題だ。
どーせなら、地球の問題で悩みたいもんだ。

それは当然だし、私もそうだし、またそうしなければなりません。
降りかかった火の粉は払わねばなりましぇん!!💦😅

しかし、上に挙げた問題にかかわらず、あらゆる問題が小さな泡であって、さらに大きな泡に内包されているとしたらどうでしょうか?

物事をカテゴライズして「白」か「黒」かと決めてかかりたがる人にとっては、当座目先の問題の「解決」を急ぎます。
しかし、それらの問題が、相互に関連性があるとしたらどうでしょうか?

であれば、少なくともAもBも同じような問題ではありませんか?

たとえば、Aという問題が、健康上の問題であったとしたら、

なぜその問題が百年この方、依然として「問題」でなければならないのでしょうか?
健康健康と何年何百年人類は念仏のように、お題目を唱え続けているのでしょうか? ご冗談でしょ、と思いませんか?

同じく、Bが戦争問題であったとしたら、


「戦争反対」「平和だ」と片っ方でわめき散らしながら、もう片っ方でどーして機関銃を撃ちまくるのですか?
何百年キレイごとを建前に、無反省に、同じ狂気の沙汰を繰り返すんですか? それって異常でしょ、と思いませんか?

断言しますが、そんな同じ汚れ切った土俵で首尾よく問題が解決できたところで、またぞろ同じような問題が噴き出すに決まってるではないですか?

それは、何十年となく、「もっと白く、もっときれいに」と言ってきた洗濯洗剤と同じで、いったいどんだけ白くなって漂白され、キレイキレイになりすぎちゃったら気が済むんだ、という問題と一緒じゃないかい!(←お父さん、喩えがちょっと…ピントが…太字いらんし💦)


続きます。

シンクロナイズド・・・

この「Quora」というQ&Aサイト、最近たまに見るのですが、
特にこれの冒頭の回答は秀逸ですね。
旧聞ですが、そういえばあったなあと思い出します。

もちろん「最大の嘘」はこんなレベルではないですが…。

面白いのが、最近私の周りの事象が不思議に私の(思考の)動きとシンクロしていることです。
前回のこのシリーズ②の中で「イラク戦争」に触れたばかりですね。

もう一つ、シンクロしていて、少しびっくりしたのがこの方。
つい最近知った方ですが、お若いのに深く考える方ですね。

「一元論だな」と自分が感じた珍しい人です。

一元的な立場の人はどんなもの(考え方)でも受け入れます。

ところが、二元的な思考の人は、(自説・自我)があるので、受け入れませんね。どーしても排他的になってしまいます。

それがエスカレートすると、相手を誹謗中傷したり、攻撃したり、ひどいときは宗教戦争のような「争い」にまで発展します。

「自分こそが正義」という迷妄ほど怖いものはありませんね(『スモーキン・ブギ』でも触れましたように)。

このマッキーさんなどで勉強されるのもいいかもです。









東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。