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さくらふる

 ちはやふる、というと「ちはや」なる花が降る様子を想像してしまう。
散歩中、桜がひらひら散っているのを見て、「さくらちる」より「さくらふる」が縁起のいい感じだと思う。無職の自分を日が照らし、ライフガードをおともに近隣をぶらぶら。人に会うことが少しおっくうでも日を浴びることが大事な気がした。セロトニンが出て幸福感が上がるんだっけ。ミシェル・ウェルベックの小説もセロトニンだったな。そろそろと子供たちが下校している。無職は下校しない。ただ遠回りして家に帰る。無職になって1ヶ月が経っている。

 「人生やキャリアにおいては遠回りした方がいい」という言葉が何かに夢中になれる人間にのみ適用される事例ではないか、と思う。点と点がつながって線になる、というのは頑張ったものや対象にのめりこんだ人間にのみ与えられる成果ではないのか、と。自分はもう遠回りしているのか、洞窟に迷い込んでしまったのか分からない。進路、やキャリアというものに明確な進路を抱けていない。ざっくりとしたまま生きている。

 「文藝」誌でイスラエルのパレスチナ、ガザ地区での虐殺行為についての緊急特集を読む。村田沙耶香さんの文章が特に心に残る。パレスチナ人の友人を心配しながら、見ないようにしていた世界(ウクライナ、イスラエル、パレスチナ)と村田さんが生きている小さな箱の世界について書いていた。
自分は見ないようにしている。現実を見て感情が乱されることから逃げたいと思いながら、自分の人生のことばかり考えている。

 離職して、1カ月前から実家暮らしとなり、食費・家賃・光熱費などを親に全て支払ってもらっている。親のすねをかじる、と言うけれど、まさに丸かじりで生活している。このような恩恵は当たり前でなく、自分は恩恵を受けたのだから、これを返さなくてはと思う。社会の中で不条理に苦しんでいる人間がいるのだから、自分が誰かに恩返しや貢献するべきなのではないかと思うが何も返せていない。どうやって返したらいいのか?

 散歩していると女の子にあいさつされたが、返せなかった。イヤホンを付けており、脳内でキッズリターンのテーマ(映画。北野武監督)が流れていたため「こんにちは」と言ったらしいのを聞き逃した。10度くらいのお辞儀しかできず、悪かったなあという気持ちになった。悲しかった。

 ライフガードを3本飲み、スコールを1本とグレープサイダーを1本飲んだ。歯が心配だ。実家に来てから、食事は健康でおいしい物を食べさせてもらいつつ、ジュースの暴飲が止まらない。知らないうちにストレスが溜まっているのだろうか。恵まれた生活なのに。

 今は、職業訓練を受けるための準備をしている。と言っても、最近はさぼりがちである。まずいと思いながらも、ふらふらしている。職業訓練が受けられなければハロワで就職先を紹介してもらおうか。おもえば1ヶ月前、環境を変えたいと思って沖縄から実家に戻った。でもそれは逃げだったのかもしれない。それでも自分のした選択ならいいかな。あとはもがくだけだ。おれは最近もがいているだろうか?尾崎豊の「シェリー」みたいな文句だけど。

 さくらはふる。誰もが散って、消えてなくなる。
夢がある。村上春樹に会って話したいという夢。
好きだったあの子と付き合うことは叶わない夢だったし、
死んだ母に会うこともできないけれど、村上さんに
会う夢はかなえられたらいいなあ。きっとユニコーンくらい出会えないだろうな。

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