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ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだった~バビロン再訪#11

はじめてニューヨークに行ったのは1987年10月のことだ。
 
国内ではバブルの予感がひたひたと忍び寄り始め、ディベロッパーには超高額物件や大型プロジェクトの話が舞い込み始めていた。
 
とはいえ、当時の東京はアークヒルズ(1986年)ができあがったばかりで、超高層マンションはというと、大川端の8本のタワーのなかのリバーポイントタワー(40F)が建設中(1989年竣工)というような頃だ。
 
好機の訪れのかすかな気配のなか、東京はニューヨークに憧れ、マンションはニューヨークの摩天楼を夢見ていた。
 
初めてのニューヨーク訪問は、そんな空気のなか、社団法人日本高層住宅協会主催の第12回アメリカ高層住宅事情視察ツアーへの参加によって実現した。
 
今回は現実としてのニューヨークが遥か彼方にあった時代の私的妄想としてのニューヨークをお届けする。 


本のなかのニューヨーク

 
「森に老木がまじって生えているように、ここではいっさいがっさいが、自然なるままの秩序ある渾沌のまま、ひたすら今日を生きることに没我である」「私にとってのたた一つの口惜しさは、三十年前の十九歳のときにここにくるべきであったという、その一念あるのみ」。
 
旅雑誌「旅」(1980年5月号、日本交通公社)に掲載された「ニューヨーク、この大きな自然」と題された開高健によるニューヨーク紀行のなかの文章である。
 
ヴェトナム戦争従軍など百戦錬磨の旅人開高健をして、「十九歳のときに」訪れたかったと後悔の念を抱かせしめるニューヨークとは。<本のなかのニューヨーク>はいやがうえにもニューヨークへの妄想を掻き立てた。

photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0


 とはいえ<本のなかのニューヨーク>の極めつけは、なんといっても植草甚一の書くニューヨークだった。
 
植草甚一がどのような人物かを説明するのは難しい。4万冊の蔵書、人形町生まれの江戸っ子、ジャズや映画やミステリーや英米仏文学や前衛アートの愛好家、コラムニスト、評論家、神保町古本屋の常連、コラージュ作家、東京散歩者など、言葉は重ねられるが、それで植草甚一をうまく紹介したことになるかは自信がない。
 
このサブカルチャーの稀代のエピキュリアンにして、おたくの始祖のような明治41年生まれの植草甚一は、1974年66歳の時に初めての海外であるニューヨークの地を訪れる。そしてその4ヶ月の滞在のあいだ、200万冊(!)の本の題名に目を通し、2,300冊を購って帰国する。

植草甚一

 
その後、死去(1979年)する前年まで、計4回に渡りニューヨークに長期滞在し、フィフス・アヴェニューと9番街の西角の「フィフス・アヴェニュー・ホテル」の805号室を拠点に、グリニッチ・ヴィレッジの「ダウバー&パイン」や「パジェント」といった古書店に入りびたり、ブリッカーストリートのアンティークショップを物色し、街角の小さな映画館で映画をみ、ジャズを聴き、ストリートの写真を撮り、行きつけのコーヒーショップ「シェリー」でウエイトレスのジャクリーンと言葉を交わし、ヴィレッジ界隈では謎の日本人大富豪と噂され、英語の発音が通じないのを嘆き、ニューヨーク人のフランクさと親切さに感じ入り、多くの人と仲良くなり、はたまたスリや強盗に逢い、現地の新聞や雑誌を切り抜きコラージュ日記をつけ、漱石がもしロンドンではなくニューヨークに留学していたらと創作を夢想し、そして多くのニューヨークのコラムを書いた。
 
「東京の街では、知らない人間に対して、めったに口をきかない。(中略)ニューヨークという街で、ぼくは他人から話しかけられることが多かった。なんだか困った顔をしていると、どうしたんだいと言ってくれる。(中略)大都会の性格として表面は似ているようだが、表面のちょっと下のほうはというと、こんな風に違ってくる」(『ぼくのニューヨーク地図ができるまで』 晶文社 1977年)
 
「そういえば、ぼくとおなじ明治生まれの東京の下町育ちが、パリやロンドンなどのいろんな都会へ行ったけれど、やっぱりニューヨークが一番いいよ。あそこは下町を歩いているときと、どこか気分が似ているんだと言った」(前掲書)
 
お気楽そうに見える植草だが、その目は意外にも都市の本質を突いている。
 
1970年代に植草甚一が闊歩したグリニッチ・ヴィレッジは、ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(1961年)で、「歩道上のバレイ」との形容で、その街の生き生きとした人々や暮らしの様子が描かれた街であり、本書がきっかけとなり、それまで主流だった機能主義的、コルビュジエ流モダニズムによる都市計画や街づくりに一大転換がもたらされたことは、後に知った。 

銀幕のニューヨーク

 
かつてニューヨークは犯罪都市といわれていた。
 
実際、1970年代後半から犯罪件数が増加し、「危ない」ニューヨークは90年代前半ぐらいまで続いた。もっとも、今もってニューヨークの犯罪件数は日本の数倍以上というのが現実だが。
 
大都市や時代の矛盾を抱え込んだ、すさんだ悪場所としてのニューヨークとそこで懸命に生きるよるべない個人、というのも当時のニューヨークのイメージだった。 
 

photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0

 
『真夜中のカーボーイ』(1969年)のジョン・ボイトとダスティン・ホフマンの凸凹コンビが都会の底なしへと転落していく、惨めで、哀れで、限りなくやり切れない顛末。
 
『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス』(1973年)の5ポケットトラウザースにレザージャケットを羽織ったロイ・シャイダー演じる刑事が駆け回る冬のニューヨーク。
 
調査会社に勤めるどこにでもいそうな青年(ロバート・レッドフォード)が知らないうちにCIAの陰謀に巻き込まれ、マンハッタンを逃げ回り、徒手空拳で殺し屋と対峙する『コンドル』(1975年)。
 
『タクシー・ドライバー』(1976)で、あてもなく深夜のマンハッタンを流すロバート・デ・ニーロ演じるヴェトナム帰りのタクシー運転手の不眠症のとろんとした目に映る街のネオン。
 
『狼たちの午後』(1979年)で、ブルックリンを舞台にした、犯罪史上最もばかげた、かつこころ優しい銀行強盗を演じたアル・パチーノの一世一代の熱演。
 
ローワー・イーストサイドのごみごみした街並みを舞台に、流れ者ジャン=マイケル・ヴィンセントとなじみのバーにたむろする面々が街の悪へと立ち上る『摩天楼ブルース』(1979年)。
 
「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれ、アメリカの現実が抱える闇や病いや弱さやどうしようもなさを率直に共感をこめて吐露する<銀幕のニューヨーク>は、ますますニューヨークへの憧れを増幅した。 

ターンテーブル上のニューヨーク

 
ニューヨークといえばジャズという時代があった。先のジェイン・ジェイコブズが活写し、植草甚一が闊歩したグリニッチ・ヴィレッジには多くのジャズクラブやジャスバーが点在している。
 
なかでも1935年オープンの名門「ヴィレッジ・ヴァンガード」は、数々のライブの名盤が生まれたモダンジャズの聖地のようなところだ。
 
ソニー・ロリンズの『ア・ナイト・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1957年11月録音)、ビル・エバンスの『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『ワルツ・フォー・デビイ』(1961年6月録音)、ジョン・コルトレーンの『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1961年11月録音)など、50年代から60年代初頭にかけて「ヴィレッジ・ヴァンガード」で録音されたライブ盤を並べるだけで、当時のニューヨークのジャズシーンのすごさは想像がつくだろう。

『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』

 
ソニー・ロリンズの縦横無人な奔放なテナー、ビル・エバンスとスコット・ラファロの緊張感あふれるインタープレイ、コルトレーンの激しいテナーの咆哮など、一音一音、一瞬一瞬がまだ見ぬニューヨークへの妄想を刺激した。
 
それにしても、歴史的名演奏そっちのけで、がやがやとおしゃべりがやまない彼の地のジャズクラブでの習慣は、なんともったいないと驚くと同時に、ジャズがごく日常になっているという、日本とは全く異なる、ある種の贅沢さのようなものも感じさせてくれもした。
 
ニューヨークはターンテーブルの上にもあった。 

身に纏うニューヨーク

 
ニューヨーク マジソン街346番地といえば、昨年(2018年)創業200年を迎えたブルックス・ブラザーズの本店がある住所だ。「346」はブルックスのスタンダードライン・スーツのブランド名ともなっていた。
 
ブルックス・ブラザーズは1849年にアメリカで最初にレディメイド(既製服)を手がけ、当時は「ボタンダウン・ポロシャツ」と呼ばれていたボタンダウンのドレスシャツを創案するなどしたアメリカン・トラディショナル・クロージングの雄である。

photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0

  
ブルックスが最初に国外で支店を開設したのは、日本においてだった。1979年にダイドー・リミテッドと共同出資で、青山通りの旧VANの店舗跡地に開店した。それだけ当時も今も、IVYやトラッドに関しては、こと日本は世界の大国であり、有望なマーケットなのだ。
 
青山店もすでに今年で40年の堂々たる老舗といえるが(★1)、やっぱり本山は約100年の歴史を誇るマジソン街346番地の本店だ。 
 
いつかはマジソン・アヴェニューの本店で・・・・。トラッド小僧は皆そう思っていた。 

ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだった

 
長年かなわぬ夢だったニューヨークの地を踏みしめた時の感慨は、今も記憶に鮮明だ。
 
「346」の紺のトロピカルウーステッド3ボタン段返りのスーツにニットタイをきりりと締め、見学予定の物件がある、今やアメリカ大統領となった当時41才の若き不動産王ドナルド・トランプが建設する38階建て340戸のタワーコンドミニアム「トランプ・パルク」 Trump Parc(★2)のあるセントラルパークサウスの59丁目のストリートに降り立ったとき、思わずこう叫んだ。
 
「ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだ!」
 
その後、何回かのニューヨーク訪問で、妄想のなかの古本屋やアンティーク屋を目指してグリニッチ・ヴィレッジの街をうろつき、通り一本の違いで治安の天と地の差を肌身で感じ、満を持してマジソン街346番地の扉を開け、ジャズクラブの席を温めたことは言うまでもない。


 
 (★1)ブルックス・ブラザース青山店は2020年8月にクローズ。現在は表参道店、丸の内店が旗艦店となっている。

(★2)当時販売中の「トランプ・パルク」の最も広い4ベッドルームの住戸は、広さ3,300スクエアフィート・価格450万ドルだった。日本になじみの単位に換算すると約300㎡・6億7,500万円(1ドル=150円として)となる。当時すでに1~2割は日本からの投資で購入されていたそうだ。

*初出:東京カンテイサイト(2019年)

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