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写真日記/顔

 写真日記にしたら、文字数を減らせるんじゃないかな。そんな淡い期待は裏切られ、結局いつもと同じか、それ以上の文字数を書いてしまっている。自分のために書いているものの、いつも読んでくれる人の顔を想像すると、なんだかちょっと申し訳ない。


 「顔」とは言ったけれど、頭に浮かぶのは、その人のプロフィール画像。現実の顔はもちろん知らない。noteでつながっていて、実際に会ったことがある人もいない。noteをきっかけにして「VRゲーム内で会えた人」だったら何人かいる。だけどそれは仮想現実上の顔で。アバターを変えてしまえば、失われていくイメージに過ぎないから。

気持ちよさそう

 先日参加させてもらったVR写真展では、会場の設営からお手伝いをした。壁のボードに釘を打ち、写真を掛ける。レーザー水準器なるものまで使って水平をとったりと、これまでにない貴重な経験ができた。

 そのとき、VRでは面識のある方と、リアルでも初めて「顔」を合わせた。会ってみると、アバターとはやっぱり別人で。アニメ風にデフォルメされた3Dモデルと差があるのは当たり前だ。それでも、相手の声を聞いていると「(あ、本当に〇〇さんなんだ……)」と認識できるのはどこか不思議で、同時に安心感を覚えた。

 みんな、色んな顔を持っている。仕事での顔、家での顔、親しい人にだけ見せる顔。どれが優れている、とかではなく。ただ上手に使い分けるだけ。

 僕は「note」と「Twitter」にアカウントを持っている。noteはこうして、日々思うことを綴ってるけれど。Twitterではあまりつぶやくことがなくて。ただ、撮った写真を載せるだけ。つまりnoteが「日記」としたら、Twitterは「アルバム」みたいなもの。そんな使い分けをしている。

 考えてみれば「一人称」もそうだ。仕事とか公の場所では『私』だけど、肩肘を張らない場面では、つい『僕』と言ってしまう。ありのままの自分、と言えば聞こえはいいけれど。

 この人はこうだ、みたいに。白黒はっきりさせるなんて、できっこない。見えているのは、その人の、ほんの一面だけだから。ふとしたきっかけで、いつもと違う面が見えることもある。はたまた自分の見ようとする角度が、偏っているだけかもしれない。

 僕はそんな風に思う。

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