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2月14日 AIによって「コンテンツを作る」という仕事がどのように損なわれていくか

前回


問い
鏡よ鏡よ、この世界で一番美しいのは誰?

答え
あなた自身です。

 どう答えるかな……と思ったけど、賢い。たいしたもんです。

 さて、AIがこちらが打ち込んだ自然な言語を読み取って、自然な言語で答えてくれる。まず考えたのは、この技術があれば例えばVTuberのようなキャラクターを作り、こちらが問いかけることに対して答えてもらえる。リアクションをしてもらえる……というものだ。そうしたものができれば、きっと楽しいだろう。

 実はすでにそういうエンタメは実験的なものではあるが作られていたりする。

 画像はスクウェア・エニックスが「CEDEC+KYUSHU 2022」において公開したゲーム。「自然言語処理技術による新世代コマンド入力式アドベンチャーゲーム」……というもので、こちらが自由に言葉を入力し、入力したものをAIが読み取って、ゲーム中のキャラクターが答えてくれる……というもの。
 このシーンではプレイヤー側が「潮風が気持ちいいな」と入力すると、「天気がいいのは気持ちいいですね」とゲーム中のキャラクターが答えてくれている。
 こんなふうにゲーム中のシチュエーションに合わせて、こちら側がなにか気がついたことを入力すると、ゲームキャラクターがその時々に合わせた言葉を返してくれる。
 スクウェア・エニックスには社内にAI研究をやっている専門の部署があって、そこにAI研究の第一人者を招待しているので、こちらの分野の研究がかなり進んでいる。こういったテスト映像的なゲームだけではなく、敵CPUのアルゴリズムにもAIが採用され、より「本物」っぽく動くプログラムを生成している。みんなの気付かないうちに、実はわりと高度なAIがすでにゲームの世界で採用されているのだ。

参考→IGNJapan:スクエニが研究している次世代アドベンチャーゲーム「NLPアドベンチャー」とは何か 人工知能を使った原点かつ最先端の新感覚ADV

 ただこうしたAIにキャラクターを喋らせるようなゲームの場合、何が問題であるかというと「倫理・権利」の問題が生じる可能性があること。
 プレイヤーが自由に言葉を組み合わせて物語を進行させられる……というゲームにした場合、プレイヤーがみんな品行方正に言葉を入力するとは限らない。中には犯罪行為を誘い込むような言葉を入力する人もいるだろうし、性的・セクハラワードを入れたがる人も絶対に出てくるはずだ。そういった言葉に対し、キャラクターがどう反応するのか。犯罪を示唆するようなキーワードに対してはキャラクターごとに「倫理コード」を作って対応しなければならない。その行動に対し、キャラクターがどのように捉えているか、否定的か肯定的か……そういうパラメーターを作って逐一対応していかねばならない。

 またどれくらい「キャラクター観」を維持できるか……という問題もある。こちらが質問したことに対し、ネット上の情報を参照して自然に答えてくれる……。これはChatGPTであれば問題ないが、キャラクターにしてしまうとちょっと違う……となる。例えば上画像のようなイケメンのお兄ちゃんが、「アイドルアニメについて教えて」と尋ねて異様に詳細な情報をだーっと語り始めたら、「ちょ、ちょっと待て」となる。イメージが壊れる。
 キャラクター設定として例えば「映画好き」という設定を作っても「どの程度好きで、知識があるか?」という設定もしなければならない。いくら「映画好き」といっても森羅万象すべての映画を知っているわけではないし、人間であれば一つ一つの映画に対し「好き/嫌い」といった感想を持つもの。そういうときの設定はどうやって作るのか、一貫性をもった設定を自動生成できるのか……という問題も生じる。
 それに、ゲームとして作った場合、プレイヤーが最初から犯人を知っていたら……。「ヤス、犯人はお前だろ」みたいに入力したらいきなりゲームは終わってしまわないか。作り手が用意した「展開」が一気に崩壊する。推理ものゲームになると、あるときふっと犯人や事件のトリックがわかる瞬間がある。それを文字入力したら、作り手の意図したシーンを飛び越えていきなりエンディングに入ってしまう。すると「物語」が崩壊してしまう。
 そういう諸々の問題をどのようにクリアすればこの形式のゲームがきちんと成立するのか……。まだまだ手探りらしい。

 でも「ゲーム」ではなく、それが特定の人格をコピーした「キャラクター」だったら成立させやすい可能性が高い。
 例えばVTuberは動画で自分が好きな食べ物、好きな映画、好きな音楽について一杯語ってきたはずだ。それを「AI化」させて「自分の分身」として提供できれば……。キャラクターだったら「情報の正確さ」といったものは別に重要視されない。ユーザーはそのキャラクターが身近にいて欲しい……と思うはずだし、そのニーズは間違いなく満たせる。
 現状のChatGPTの問題はどこにあるのか……というと情報の正しいかどうかを審査する能力がない。一つ前の記事に作家や声優の関わった作品について尋ねたけれど、内容は間違えまくっていた。でもこういう問題は、対象とする情報量をより大きくすれば自ずと解消されるでしょう。でも世の中のあらゆる「問題」に対し、「普遍的な回答」がいつだって正しいわけではない。そういう穏当な回答など求めていない場合は往々にしてある。その一つが「悩み相談」だ。

 動画やブログで「人生相談」を一杯こなしてきたような人は、死んだ後もAI化させておけば、「その人が言いそうな発言パターン・思考パターン」をコピーしたAIを作ることができる。そういう「人生相談AI」……例えば「瀬戸内寂聴タイプ」とか「マツコデラックスタイプ」みたいなのを作っておく(「ひろゆきAI」や「岡田斗司夫AI」もいいだろう。岡田斗司夫さんは「岡田斗司夫AI」の話を聞くとその日のうちに「それだ!」といって実現しそう……)。そういうAIはグーグルのあらゆる情報を参照して“普遍的な回答”をしてくれるわけではない。しかしその人が言いそうな発言パターン・思考パターンを学習しているので、その人らしい答え方をしてくれる。その発言パターンさえしっかりしておけば、過去になかった問題・課題であっても、それまでの思考パターンから参照して答えを出してくれるはずだ。
 そういうもののほうが、「相談相手」として実は需要があるのではないか。ノーマルなAIチャットボットだったら基本に沿った穏当な答えしか返してくれない。しかし特定の人物をベースにしたAIであれば、思いも寄らない答えを示してくれる可能性が高い。
 それでも答えに納得しなかったら、別のAIに質問をしてみればいいだけの話だし。
 そういう「特定人物ベースのAI」が実現するなら、「音楽に関してはあのAI」「ゲームに関してはあのAI」と相談内容によって尋ねる相手を変える……ということもできる。ChatGPTにアニメや映画に関する質問をしてみたが、内容は不正確だし、あまり突っ込んだ部分にも触れてくれない。「薄くて浅い」という印象だった。しかし「特定人物ベースAI」だったら、例えばアニメに関しては「氷川竜介AI」に聞く、ゲーム関連だったら「桜井政博AI」に聞く……きっと素晴らしい答えを用意してくれるだろう。その分野の超プロフェッショナルは世界に一杯いるのだから、生きているうちにその人達の思考法をAIに落とし込んでおいて、死後も人々の相談役になってもらう……というのもありかもしれない。

 私もブログにこういった自分の考え方や映画、アニメの感想文を一杯書いてきたから、どこかでAI化して、「あのアニメについて教えて」「あの映画について教えて」といった相談に乗れるAIを作れるかも知れない。「死や魂について教えて」と聞かれたら、私は世間的にある「普遍的な答え」はしないが、私なりの回答を持っている。それは「偏った答え」ではあるが、そういうものをむしろ欲する人もいるだろう。映画の話にしても、私は一つ一つの作品について「好き・嫌い」といった簡単な感想文だけではなく、いつも数千文字を尽くして語ってきた。AIにパターン学習させておいて、私らしい答え方をしてくれる私のコピーを作れるかも知れない。それは普遍的な答えは示さないが、「とらつぐみはこういう考え方で映画・アニメを見ている」という答えを提供するAIは作れるかも知れない。
(そういうものを「サブスク提供」すれば収益を出すことができるかもしれない。「とらつぐみ相談AI」だ。私が死んだ後だったら、無料提供でいいけど)
 そういうもののほうが「ネット上の正確か不正確な情報かわからないものを参照して答えてくれるAI」よりも「親しみ」は感じるかも知れない。むしろ「なんでも答えるAI」よりかは状況に合わせて「このAIに相談しよう」みたいにその時々で「頼る相手」を変える……という発想はありかもしれない。

 ChatGPTで遊んでみた感じ、確かにあらゆる質問に対して答えてくれるが、しかし正確性に欠くし、AIが書いた文章はどこか当たり障りがなさすぎる。例えば前回、声優について尋ねてみたが、出演作は間違えまくっていたし、紹介文もどの声優で試してみてもだいたい同じような文章が出てくる。文章の質はいいとは全くいえないものだった。
 しかしこういった技術は日進月歩。どんどん進化して、精度も高くなっていくだろう。するとどんな未来が想像されるのか。
 私が考えたのは「無限生成される娯楽コンテンツ」だ。
 現在のコンテンツ作りといえば、まず企画を立てて、予算を集めて、それを実行している姿を映像として撮り、撮った素材を編集し、やっと公開となる。そうやって手間暇予算をかけて作ったものでも、15分ほどで消費されてしまう。
 でもAIを使えば、単純なストーリーを作り、簡単な画像も同時に生成すれば、あなた1人のための「終わらないストーリー」を無限に作り出すことができる。

 それは「夢の技術」でもあり、「悪夢の技術」でもある。

 まずいって、「物語を提供する仕事」の大半は消失する。漫画、小説、YouTuber、それからライター。どんなものでもなにかを作ろうと思ったら、まずアイデアを出し、制作し、発表する……というプロセスが必要となる。週刊誌漫画家であれば週16ページほどだが、それを毎週ヘトヘトになりながら作る。
 しかしAIなら一瞬だ。AIであれば一瞬でストーリーを作れるし、一瞬でビジュアルも作れる。あなた1人のためだけのストーリーを無限に提供できるようになる。
 そうなると漫画家、小説家、YouTuberにニュースライターといった人々はほぼ全滅する。「一流」の人間は生存できるが、逆に言えば一流の人間しか生存できない世界になる。
 もう一方で、「無限のストーリー」を提供され続けてしまうと、果たしてその虚構の世界から抜け出すことができるのか……。
 例えばさっき「特定の人物をAI化したキャラクター」の話をしたが、そのAIはこちらが気になっていることを疎むことなく無限に答えてくれる。すると「そのAIと一緒にいる」ということから抜け出せるのか。しかもそれが異性のAIキャラクターだった場合、現実の伴侶はもはや必要としなくなってしまうのではないか。
 コンテンツを求め、消費するペースはどんどん速くなっている。人々は「もっと早く娯楽を提供してくれ!」と「もっと! もっと!」を連呼し続ける。人間が手間暇かけて作っていたら時間が掛かる。未来の人はそういう時に「待つ」ということをしてくれるだろうか。AIだったら一瞬だし、自分の好みのエンタメをいくらでも出してくれる。しかも下手すると人間が作るより品質がいい(人は誰でも常に一流のものを求めるわけではない)。そんな快楽を提供してくれるものがあるなら、誰だって「人間よりAIのほうがいいや」ってなったりはしないだろうか。
 特に、「消費」するしか意識のない人たちにとって。こういう人たちはこの麻薬のような娯楽から果たして現実に戻れるだろうか。

 悪夢の未来が来るとわかっていても、人間は歩みを止めることができない。なぜならそれが本能だからだ。

 ここで私の個人的なお話し。
 私がいま制作中の漫画は『ムーンクリエイター ~2050年の漫画学校』というタイトル。AI技術が社会に広がって、すると「作り手」、未来の漫画学校の生徒はどのように考えるのか、どのように作品を作ろうとするのか――ということがテーマになっている。
 漫画の第1ページは未来の漫画家志望の生徒達がみんな使っているというAIタブレットが登場してくる。絵を描いていると「仕上がり候補」というものがどんどん出てきて、少し書いてはそれをクリックして、絵画制作の作業的なところをどんどんスキップできる……というふうになっている。仕上げは「スタイル選択」でいきなり少年漫画風、少女漫画風、劇画タッチ風……といくらでも絵柄を変換できる。
 娯楽の消費もAIが中心になれば、作る方もAIの助けを借りるということが当たり前になるだろう。2050年になればおそらく産まれたときからAIがあるのが当たり前、AIを使うことが当たり前の世代となる。2020年代の今、大学のレポートにChatGPTを使う生徒が問題になっているが、2050年代になるとすべての生徒がAIを使うのが当たり前の時代になっている。そういう世代の物語である。
 一見すると夢のような未来だが、しかしお話しが進んで行くと次第に「ディストピア」の側面が見えてくる……というお話になっている。

 こんなお話しを書いていて、なにを表現したいのか? というとAIでなにが崩壊していくのか。それからAIにできないこととはなんなのか……ということ。
 AIにできないことはなんであるか……というと「その時代の人間の感情」を表現することである。
 AIに弱点があるとしたら、AIは過去の情報をネットから探してきて参照して、妥当だと思える答えを出す……というものであって、決して未来について語ってくれない。未来を作るのは結局のところ人間。では人間はどうやって未来を語り、作るのか?
 人間はいつもその時代の社会と接している。するとその時代に対して抱いている「感情」というものが必ずある。エンタメというのは野放図に愉快なことをやっていればいいというものではない。その時代の人々に「共感」されなければならない。共感のない作品はどんなに出来が良くても一定以上の評価をもらえることはない。そしてより多くの人に共感され、あたかも「自分の人生を代弁してくれた」と思えるような作品が、「時代の作品」としてシンボル的に掲げられるようになる。
 例えば1968~1973年の『あしたのジョー』といった作品もそれ。どうして『あしたのジョー』がその時代の人々に熱狂的な支持を得られたのかというと、みんな主人公ジョーの気持ちと共感できたから。
 『ライ麦畑でつかまえて』もそう。あの小説を読んだ人は「どうして僕のことがわかるの?」……という人が多かった。作者の自宅まで行って、「どうして僕のことがわかるの?」と尋ねた人が当時、たくさんいたとか……。(作者はそんなつもりはなく、かなりの迷惑を被ったとか)
 どんな作品もそう。その時代その時代の人々の感情、葛藤、理想がエンタメの中に表現される。その形がより美しいもの、純化したものがその時代を代表するシンボルになる。
 一つの社会があるなら、多くの人がその社会に対して漠然と、共通の想いを抱いているものである。そんな曖昧模糊としたものを「物語」という具体的な形にするのが作家のお仕事である。そういう物語と接することによって、人々は「自分の物語」を人生の中に作り上げていくのである。
 ところがAIは基本的に「社会」と接しているわけではないから、そこに感情が生まれるわけではない。

 一つの例えとして、ここにペンがあるとしよう。そのペンを使っていて、なーんか使いにくいな。形がいまいちだな……。よし改良しよう!
 こういうところからイノベーションは起きる。
 しかしAIは何かしらのツールを使っていて、「使いにくいなぁ、よし改良だ!」なんて考えない。AIは肉体を持っていなければ、社会も持っていないからだ。肉体も社会もないから、「もっと改良した方がいい」という発想にはならない。改良するのはいつでも人間のほう。人間でなければならない。
 これが人間にできてAIにできないこと。AIに勝てる唯一のこととなる。

 そうはいっても、それができる人とできない人との格差はきっとできてしまう。
 それができない大多数の人は、AI革命以後の未来、なにができるのか……。
 「夢の未来」と「悪夢の未来」はいつも背中合わせである。


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