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9月12日 AIが漫画を理解するようになり、漫画家から「絵が上手い」の概念が消えるかも知れない?

 漫画家の山田玲司さんの動画でAIがイラストを描くようになってどうなるか……という話をしていた。今回、『Midjourney』や『mimic』といったAI絵描きツールが出てきて、その以前のAIと何が変わったのか……というとAIが「漫画キャラクター」の曖昧さを理解したことだ……という。漫画のキャラクターは顔が立体があるようでない、目や鼻の形が抽象的な概念で成立しているわけだが、この漫画キャラクターの規則性をとうとうAIが理解し始めた。これまではAIは漫画の抽象性を理解していないから、漫画家やイラストレーターの仕事は奪われることはない……というふうに言われてきたが、とうとうAIがこれを理解しちゃった。これは本当に大変な事態だ。本当に「漫画家やイラストレーターの仕事がなくなる」という事態が来てしまった。
 そこでこれから起きるであろう変化は、写真が登場してからのアートと同じような現象が漫画やイラストレーターの世界でも起きるのではないか。つまり、絵の上手い下手という究極的な尺度がなくなる。より描き手の「個性」が重視されるのではないか……と予想が立てられていた。

 そうか、ついに漫画家やイラストレーターの世界でも「絵が上手い」という価値観がなくなってしまうのか……。

 あまり語られていない話だが、絵描きには絵が上手い・下手という尺度とは別に、「面白い・面白くない」という尺度が存在する。絵が面白い・面白くないという尺度は絵の上手い・下手という概念とはまったく別で、ほぼ生まれ持った感性で、この感性を鍛えるということはほとんどできない。
 それで、極端に絵が下手で、極端に絵が面白い……という作家のことを「ヘタウマ」と呼ぶ。ヘタウマ作家は絵が下手であるから、絵が面白いというその作家が本来持っている生の感覚が浮かび上がってくる。
 絵が面白いという人は、絵の上手い人の中でもいる。例えば『監獄学園』を描いた平本アキラは絵がうまい上に、やたらと面白い絵を描く人だ。ただ絵が上手くて面白い絵を描く人……というのは絵の上手さのほうに注意が逸れちゃって、その絵が面白い……という部分が隠れてしまう。そういうわけで「絵が下手で面白い」というタイプのほうが人々に発見されやすい。そこでついた言い方が「ヘタウマ」。
 だから本当言うと「ヘタウマ」という言葉は間違いがあって、「下手で面白い」という言い方が正しい。ただ言葉として「ヘタウマ」のほうがしっくりくるのだけど。

 西洋絵画史における「ヘタウマ」作家の代表はもちろん、アンリ・ルソー。間違いなく下手なのだが、なんともいえない味を醸し出してくれる。おかげでなぜか目を逸らすことができない。技術的にはどうにもならないのだが、「面白い」という一点だけで突き抜けてしまっている。アンリ・ルソーほど「下手」で「面白い」のバランスが極端な人は、絵画の世界では後にも先にも例がない。

 お話をAIの話題に戻すと、これからは「絵の上手さ」よりも「絵の面白さ」のほうが重視される世界に入っていく。絵が面白いかどうか……という感覚は技術と違って鍛えることはほぼ不可能なものだから、それを持って生まれなかった人たちにとってはこれからは大変な時代に入っていくだろう。

 そこで今回はこんなお話をしよう。
 西洋絵画史上最大の贋作師と呼ばれる、ハン・ファン・メーヘレンにまつわるお話だ。

 メーヘレンは1889年生まれ。子供の頃から画家になりたかったのだが、しかし父親に反対され、「絵描きじゃなくて建築家になれ」と言われるままにデルフト工科大学建築学部へ進むことになる。しかし画家になる夢を諦められなかったメーヘレンは、独学で絵を学び、大学在学中にアカデミックな賞をもらい、めでたく画家としての第一歩を踏み出したのだった。
 ところがメーヘレンが勉強したというのは「古典絵画」。アカデミックなところは権威的な「古典絵画風の絵」は評価してくれるのだけど、メーヘレンが社会に出てみるとそういう絵は「もう古い」と言われる時代に入っていた。西洋絵画は印象派の時代を越えて、希代のアーティストであるピカソが次々と革命を起こし、昔ながらの絵は完全に廃れてしまっていた。
 お話は19世紀後半。この頃から画家達が芸術世界の権威に異議を唱えるようになっていた。――芸術はいつまで聖書や神話の世界ばかり描き続けるんだ? キリストの磔なんて2000年も前の話じゃないか。現代には現代の様々な事件が起きている。画家はそういう“今”の事件を描くべきじゃないか。

 そういった絵は早い頃には1830年にウジェーヌ・ドラクロワが『民衆を導く自由の女神』を描いて表現している。神話や聖書の世界ではない、まさにその時代のできごとを描いた絵画だ。ただ、一番目立つところで旗を掲げている女性は人間ではなく「女神様」。こういうところで、古典絵画の匂いはまだ残してある。

 その時代の「事件」をテーマにした絵画……といえばゴヤのほうが先だったね。ゴヤはその当時起きていた、フランス兵によるスペイン人市民虐殺を絵画にしていた。これが「報道絵画」の先駆的な絵だとされている。

 ギュスターヴ・クールベにもなるともっと過激にアカデミズムに反抗を示した。その一つが、1849年に描いた『オルナンの埋葬』。どうしてアカデミズムは2000年前のキリストの磔ばかり描かせて、評価するんだ。田舎のごく普通のお葬式の風景だって尊いだろ……という意図が込められた絵だ。
 当時は「なんでこんなもん描いたんだ」と非難囂々だったそうな。
 クールベはその後もアカデミズムが嫌うような絵ばかりを描いていく。クールベは才能も実力もあったから、アカデミズムに反抗する絵を描いても注目され、仕事が絶えることはなかった。このクールベの行動から、「反アカデミズム」のフォロワー達が生まれてくることになる。

 こういう歴史があって、もはや昔ながらの神話や宗教画なんてものは誰も描かなくなった……という時代にメーヘレンは生まれてきて、時代に逆行するように昔ながらの権威的な絵画を真面目に勉強して、賞をもらって社会に出たのだった(学校の中の価値観は、世の中の価値観の変化から遅れてしまうもの。この時代では、学校では未だに古くさい権威主義的絵画のみを称揚し、生徒達にそういう絵を描くよう指導していた)。そんな時代だから、メーヘレンの絵なんて誰も注目しない、1点も売れない、描いても「古くさい」「個性がない」と酷評される。
 メーヘレンは絵描きとしての才能も実力もあったんだ。上手いと言えば間違いなく上手い。しかもメーヘレンは古典絵画をしっかり学んで、そこに強いプライドを持っていた人だったから、その時代に流行りかけていたキュビスムとかフォービスムなんてものは描きたくない。
 メーヘレンにまつわるエピソードとして、ピカソそっくりの絵を即興で描いて、「くだらん」とこき下ろしてその場で燃やす……ということをやってみせたという。描こうと思えば描けた。でも古典絵画を勉強してきたメーヘレンのプライドが許さなかったのだ。
 古典絵画の世界は、目の前の世界をとことんリアルに描く世界だった。どこまでも本物そっくりに、空間を描き、質感を描き出し……という世界だ。それは技術・技術・技術の世界で、もはや誰が描いたものかわからないような世界だった。しかし20世紀にも入るとすでにカメラが存在している。現実そのものを映す……なんてことはカメラでやればいいこと。「写実的に描くこと」の価値はもうなくなっていた。それよりも、どのようにして絵描きとしての個性を打ち出せるか……が画家としての物差しになっていた。
 19世紀末頃から日本人の画家はみんなフランスに留学して絵の勉強をしてきたのだけど、みんなこの時代の雰囲気に影響されてしまっていた。「写実的に描くのは古くさい。これからは印象派だ」……それで日本では逆に印象派っぽい絵が権威的になっていて、絵画といえばみんな印象派のコピーみたいなものばかりになってしまった。
 「写実的な絵なんて誰でも描けるんだ」……という言葉は一般の人たちの間にも広まっていって、ほとんどの人が意味もわからず使うようになっていた。特に絵画もろくに理解していないような人が、絵の上手い人に対するマウントをかけるときの、お決まりの文句になっていく。(Yahooニュースのコメント欄なんて、こういうタイプばっかりでしょ)
 じゃあお前はパウル・クレーとか理解できるのか……と尋ねるとたいていは黙ってしまう。せめてある程度以上絵画がわかった上で「写実的な絵は誰も描ける」と言って欲しいものだ。

 ちなみにパウル・クレーの絵画はこんな感じ。私も意味がわからん。
 パウル・クレーは超理論派の画家で、構図も色彩も描かれているものにもすべて意味があるんだそうだが……わからん。

 私はもうずーっと言い続けていることに、「写実的な絵なんて誰でも描けるんだ」……というようなことは「描けるようになってから言え」がある。
 まず、抽象画とか訳のわからないような絵を描いている画家も、一度はちゃんと写実的に描けるようになってから、ヘンな絵を描くようになった。つまり、基礎・基本ができた上で、ああいったヘンな絵を描いているんだ。もしも基礎や基本ができてないのに、ただヘンな絵を描き始めた……というのはただのヘンな絵でしかない。その違いをきちんと理解しなくちゃいけない。
 それに、「写実的な絵なんて誰も描けるんだ」と口癖のように言う素人さんが、じゃあ絵画を理解しているか……。私は「理解できている」という人に会ったことが一度もない。それどころか「写実的な絵は~」という言葉の意味すら理解していない。要するに、このワードが格好いいから言っているだけ、というのは真相だった。
 じゃあどうやったら理解できるのか……というと描けるようになったらわかる。だから「描けるようになってから言え」と私は言い続けている。

 メーヘレンの時代ではもう古典絵画は古くさい。誰も評価してくれない。社会に出てきた瞬間、もう時代遅れ扱いだった。
 そこでメーヘレンはとうとうブチ切れる。じゃあ俺が描いた絵をフェルメールってことにするよ。メーヘレンはフェルメール風の絵を描いて、評論家の前に差し出すと……評論家達はまんまと騙された。「素晴らしい! 本物のフェルメールだ!」……メーヘレンからすると「ざまーみろ。お前らは偉そうに寸評しているけど、本物と偽物の区別も付いてないじゃないか」……と心の中で喝采するのだった。
 メーヘレンは評判が高まったところで、「本当はオレが描いたんだ」と公表するつもりだったと言われるが……。あまりの評判にとうとう言い出せないまま。
 やがて戦争になり、ナチスの高官に自分のニセモノ絵画を買わせるのだが、戦争が終わる頃になると「国の宝をナチスに売った」という罪で告訴されてしまう。そこでメーヘレンはようやく「あの絵は全部オレが描いたんだ」と告白するが、しかし評論家達全員が騙されている状態なので、誰も信じてくれない。メーヘレンは刑務所内でみんなが見ている状態で自分のニセモノ絵画を再現することになり、ようやくメーヘレンの贋作であることが認められる。すると今度は「ナチスにニセモノを買わせて一杯食わせた」として人々から称賛されてしまい……。
 ……とこんな感じにメーヘレンの人生は捻れに捻れて、なんだかわからないものになっていったのだった。

 古典絵画がもう廃れてる時代に古典絵画で勝負しようとしてしまった画家の末路……がメーヘレンだ。つまり「絵が上手いか下手か」という率直な勝負を挑んで、敗れたのがメーヘレンだった。メーヘレンは結局、画家ではなく詐欺師として人生を終えるわけだが……。私はこの人物にやや同情的に感じているところがある。というのも、確かに20世紀以降、絵画は訳がわからなくなっていった。キュビスムやフォービスム、その後もシュールレアリスムやダダイズムや……みんな訳がわからない。あんなもの自宅に飾りたいとは思わない。なんだかある時期から絵画がぶっ壊れちゃったな……という感じがしてしまっている。
 だからといって、19世紀頃までやってたような、未だにキリストの磔刑画ばかり描かせていた権威がいいとも思えない。(そもそも西洋画にそこまで画題のバリエーションがなかった……というのが問題なのだけど)
 「写真みたいな絵なんてものは誰でも描けるんだ」……こう言ってしまったがために、絵としての基本的な軸がどこか壊れてしまった……そんなふうに感じるんだ。まずいって、絵が上手い・下手という基本的な価値観すらもなくなっていった。私としては、絵描きを目指すのであれば、まず絵が上手くあるべきだろう

パブロ・ピカソ 1896年『初めての聖贄』

 「絵が上手い」という価値基準を完全にぶっ壊したのが20世紀芸術界のカリスマ、パブロ・ピカソだった。
 ピカソといえば世間的には「よくわからない絵を描く人」……というイメージだが、もともとピカソは天才少年。ものすごい神童だったので、12歳で美術学校に入り、16歳にはマドリードが主催する国立美術展で入選。上に掲載した『初めての聖贄(あるいは『初聖体拝領』)は15歳の時の作品。この15歳、16歳の時に「もはやアカデミズムから何も学ぶことはない」と宣言するほどだった。
 ピカソは天才だからこそ、コンプレックスを持つようになる。というのも、描こうと思ったらなんでも描けてしまうからだ。どんな絵も一級品で仕上げることができてしまう。古典的なアカデミック絵画だったらいくらでも描ける(だからピカソにとってアカデミズム絵画は「つまらない」という対象だった)。あまりにも天才で、なんでも描けるからこそ、「いかにすれば枠からはみ出せるか」が人生のテーマとなる。
 そこで注目したのがヘタウマ画家。なぜヘタウマ画家に注目したのか、というと「作為」がないから。ピカソは天才だから、画面に描かれるすべてをコントロールできる。でもヘタウマは一切コントロールしていない。ピカソからすると、ヘタウマ画家がやっているようなことが逆にできない。だから衝撃だった。

【11月20日追補部分】

 ピカソが変な絵を称賛して変な絵を描くのは、「天才だったから」という理由があったから。あまりの天才で、なんでもうまく描けてしまうから、いかにしてそれを崩すのが一生のテーマになってしまった。でもその価値基準を万人に当てはめるのはどうだろうか?
 セザンヌとかユトリロとかゴッホとか日本でやたらと評価されているけど、あの人達……下手だよ。よくよく見るとみんな下手。みんな「ヘタウマ作家」。ヘタウマ作家だからたしかに独創的な絵を描いたけれども、絵が上手いかどうかでいうとたいして上手くないよ、あの辺りの人たち。あの辺りの絵が「良い」と言っている人たちって、本当にそこを理解しているのだろうか。絵が上手いか下手か……という価値観でもう一回見てもいいんじゃないか。あの辺りの絵がなんとなく「権威化」しちゃったがために、ちゃんとした批評されていないんじゃないか……という気がする。まず、絵が上手いか下手か……という話からしないと。
 20世紀以降は「絵が上手い作家」と「ヘタウマ作家」を並列にしてしまったどころか、ヘタウマ作家のほうをむしろもてはやしちゃった結果、なにかおかしくなってしまった。本当は絵が上手いはずなのに、その技術を封印して、ヘタウマな絵を描く……みたいな作家が現れ始めてしまった。絵を技術で描く、絵を技術で語る、というのがむしろダメな風潮すらできてしまった。そろそろ芸術世界でヘタウマ作家はをもてはやすのはやめたらどうだろうか。ちゃんと「絵の上手さ」で絵の良し悪しを語る……というところに戻ったらどうだろうか。

 そういう意味で言うと、今の漫画家とかイラストレーターとか、実はめちゃくちゃに絵が上手い。なぜならイラストレーターの世界ではヘタウマ作家はいるけれども、そこまでもてはやされていないから。ちゃんと絵の上手い下手で評価される世界だ。
 でもいわゆる一般の人たちは、絵の上手い・下手という価値基準で絵を見る……ということをやっていないし、その訓練もしていないから、あの上手さがわからない。世間的な権威に当てはめて、「どうせ漫画の絵でしょ」という言い方をしちゃっている。「写真みたいな絵は誰でも描ける」なんてことを言って、絵を上手い・下手の評価基準で見る訓練をやってこなかったからそういうのもわからなくなっちゃう。まず絵の基本から取り戻さなくちゃダメじゃないか。

学生時代からユトリロの絵を見て、なんとなくモヤッとする感じがあったけれども……。大人になってわかるけど、この人、下手だわ。「ヘタウマ画家」だからやたらと雰囲気のいい絵は描くけれども。ユトリロは「絵の上手さ」という価値基準が崩壊したからこそ評価された画家。ヘタウマ作家がもてはやされた時代だからたまたま注目されたんだ……ということを美術教科書に書かなくちゃダメだよ。でないとユトリロの絵がなぜ「名画」なのかわからない。

 もう少し別の側面のお話をしよう。
 絵というのはひたすらに修行・修行・修行……の産物だ。現代の漫画絵はずーっと同じようなものを描き続けるから、そこに「修行」の要素があるなんて一般の人たちは想像もしないだろう。でも漫画であれイラストであれ、絵というのはひたすら泥臭い修行の世界なんだ。
 で、そうやって色んな絵を見て色んな絵を描いていると、ふと自分のステージがあったような気がする瞬間がある。昔は「この絵はどうやって描いているんだ。凄い!」と思っていた絵も、ある時「あ、パースの中心点がここで、こういう色彩構成なんだね」と気付くようになる瞬間がある。絵を理性的に分解して見られるようになっていく。それは自分の絵のステージが上がって、絵の見方がわかったからだ。
 格闘技はぜんぜん知らないけれど、鍛え始めたはじめの頃は「あの人めちゃくちゃに強い。絶対に勝てない!」と思っていた人でも、自分が強くなっていく過程で「もしかするとあの人と戦えるかも」と思える瞬間があるだろう。それは自分の強さのステージが上がったから(まあ、たいていは勘違いなんだどね)。
 こういうのはあらゆるものでもあるんだと思うんだ。音楽とか演劇とかダンスとか……何にでもあるものだろう。
 それを、絵の技術面をすべてAIに任せてしまったらどうなるか? 絵描きはずっと絵描きとしてのステージが上がらない……という問題に直面する。絵描きとしてのステージが上がって、「こういう絵じゃダメだ。もうちょっとこういう絵を……」という目標が作りづらくなってくる。漫画家が絵描きとしてのステージが上がらなかったら、より高品質な画面を作ろう……という発想もしなくなっていく。漫画家自身が自分の絵が良いか悪いかもわからないところに、AIに「いい絵を描いて」と命令しても、何が“いい絵”なのかわかるはずがない。“いい絵”の基準が作り手にないままだと、そこで漫画の絵クオリティが沈没する可能性がある。「昔の漫画絵は凄いのに、AIが導入されてからの最近の漫画はいまいちだな」みたいになるかも知れない。AIを導入したことによって、かえって漫画全体のクオリティが下がるかも……。絵描きとしてのステージを上げるためには、やっぱり「絵の修行」は必要なんじゃないか。

 もしかしたら将来、「うまい絵なんてAIでいくらでも描けるんだ」という言い方が流行ってしまうかも知れない(それも、絵の上手い下手の区別を付けられない人が決まり文句として使われる可能性がある)。「絵が上手いこと」を絵描きも漫画の読み手も否定しちゃうような時代が来ちゃうかも知れない。そこでセザンヌやユトリロやゴッホみたいな作家が権威的になってしまうかも知れない。よくよく見るとたいして絵が上手くないけど、「個性」だけの一発屋みたいなのが注目されるような時代が来るかも知れない。ここで絵の修行を否定してしまうと、絵描きとしてのステージが永久に上がれなくなっていく。絵の修行をきちんとこなさないと、見えてこない風景というものもある。
 それも未来の人が選ぶ価値観かも知れないけど……。私はやっぱり「絵が上手いこと」という基本的な価値観は守るべきだと考える。絵が上手い人はやっぱり尊敬されてしかるべきだろう。上手い絵はAIが作ってくれる時代になっても、絵の上手い下手の価値観は崩壊させるべきじゃない。
 みんなも「上手い絵なんてつまらない。上手い絵なんてAIでもいくらでも描けるんだ」とか言っちゃダメよ。これを言い始めると本当に「上手い絵」と雰囲気がいいだけの「ヘタウマ絵」が同じ価値基準で並んでしまうようになるから。「上手い絵」と「ヘタウマ絵」の価値基準がひっくり返っちゃったせいで、アートの世界は訳がわからなくなったんだから。


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