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6月24日 信仰心を喪った知的エリートが、歴史と文化を崩壊させる

 今月は日本と東アジアの植生をテーマにしたお話を書いたが、そのオマケのような話。

写真は宮城県仙台市青葉区のソーラーパネル。

 この頃はSDGsという言葉がもてはやされ、「自然環境をより豊かにするために」「子供たちのために自然を守ろう」という名目の下に森が破壊され、ソーラーパネルが敷き詰められる……といった事案が日本中で頻発している。どうやら世界中で起きている現象らしい。
 私の地元にも、池の上に大量にソーラーパネルが敷き詰められるようになり、そこにあった景観が台無しになってしまった。
 ただ景観が台無しになっただけではなく、山の一角を皆伐伐採した上でソーラーパネルを敷き詰める……といった事案も起きている。皆伐伐採をしてしまうとその場所の生態系が死滅するだけではなく、保水力を失い、土砂崩れの危険性も高まってくる。
 そしてこうなる↓

写真はこちらから

 こちらは仙台市太白区で起きた土砂崩れ。木を切り、土の保水力を失ったところにソーラーパネルを載せたから、ちょっとした雨でもその重量で滑り落ちてしまった。こういったソーラーパネルを敷き詰めた一角が土砂崩れを起こす……といった画像はグーグルで検索するといくらでも出てくる。
 ソーラーパネルには鉛、セレン、カドミウムといった自然にとって有害な物質が含まれる場合もあり、こうした土砂崩れが起きると、そういった物質が土中に染みこんでいく可能性がある。そこでさらに自然を破壊する可能性がある。
 次に問題なのは、ソーラーパネルは寿命が25~30年ほどであること。この時、きちんと処理されるかどうか。適切に廃棄処分しないと先ほど書いたような有害物質が自然に垂れ流し……ということになる。そうした最終処理まで想定したうえで設置されているのか……という疑問も残る。

 この頃はいろんなところで「SDGs」という言葉が聞こえてきて、この言葉の下に自然環境を守るんだ……という話が出てきているが、実体がコレだ。「自然環境を守る」と言いながら自然環境を破壊している。いったい誰がこんな愚かな行動をしているのかというと――エリート達だ。残念ながら私たちよりはるかに良い学校を卒業し(ブログ主はFランク校出身)、はるかにいい仕事について、高い給料を得ている人たち。そういう人たちの現実認識が崩壊を始めている。

 以前に『理想を唱えすぎていつか現実が崩壊するかも知れない未来』なんて記事を書いたが、もう一度同じ話をしよう。

 エリート達の現実感覚が崩壊を始めている。現実の問題はさて置きとして「理想」の尊さを説く。
「移民はかわいそうだから制限を設けずどんどん受け入れるべきだ」
「ジェンダーによる差別は完全に撤廃して、男女の権利を平等にすべきだ」
「自然環境を守るために、自然エネルギーをもっと活用すべきだ」
 ちょっと聞くとそれが正しいことのように思える。しかしそこには様々な現実問題が起きる。
 例えば移民は無制限に受け入れると、そこで文化的な軋轢が生まれる。移民達は移ってきたその国でも、自分たちの文化を守って受け継ぎたいと考える。するとその国の文化との軋轢が生じる。
 最近に日本で起きている問題は、日本にやって来たイスラム教徒達の埋葬方法について。
 今年の1月、仙台市青葉区のインド料理店で50代の男性が心臓発作で帰らぬ人となった。男性はイスラム教徒だ。そこで故郷と同じ方法である土葬で埋葬したい……しかし日本では火葬が基本。イスラムでは火葬は禁忌。そこで死体をどうするかで軋轢が起きてしまった。
 なぜ問題が起きるのかというと、日本は高温多湿気候。土葬するとそこから疫病の問題が発生する可能性がある。だから日本では昔から火葬なのだ。昔からやっていることには環境的な意味はあるのだ。
 なぜ日本は火葬なのか……という合理的理由があるのだけど、しかしそれが海外からやってきた人からすると「受け入れがたい」ものとなる。そういう例はいくらでもあるのだ。

 こちらの話はかなり話題になったからご存じだろう。イスラム教徒の男が「神はアラーのみ」と叫びながら神社の設備を破壊する一場面である。
 一応念のために補足しておくが、この件について日本ムスリム協会は容認していない。他宗教のシンボルを破壊することは、イスラム教は推奨していない。
 しかし「他宗教」を引き受ける……ということはこういう問題が起きる可能性もある、ということをあらかじめ考えておく必要がある。どんな宗教にも過激な人たちというのはいて、例えば戦国時代の終わり頃、日本にやって来た宣教師達が仏教寺を見て「邪教の偶像だ」と焼き討ちしようとした……という事件があった。
 日本人は「自分たちは無宗教だから、宗教対立の問題は起きない」……と考えがちだが、そんなことはない。

 移民の受け入れは世界中であらゆる問題が起きている。そういう話はグーグルで検索すればすぐにわかる話。
 しかし知的エリートほど、こういう問題に目をつむり、反対意見を上げると「極右だ!」「ネトウヨだ!」「レイシストだ!」と非難する。高学歴エリートほど現実が見えなくなっている。なぜなら移民を受け入れること自体が「正義だ」「良心だ」と信じているからだ。これを「信仰している」といっていい。
 人は何でも「善悪の問題」に単純化してしまうが、今は移民を受け入れることが正義で、反対は悪だ……と信じられている。

 最近の日本人は「私たちは無宗教だ」と言う人たちが多いが、海外から見ればそれは通用しない。町中のあちこちに神社があって、元旦には人が集まって賽銭箱にお金を入れて手を合わせる……これはどの国の人たちが見ても「宗教的活動」と見なされる行動だ。ただ、日本の場合はその宗教観があまりにも特異すぎるために、日本人自身、自分たちの宗教的な行動に自覚を持てずにいる。その辺りの話も掘り下げていこう。

 日本の宗教と言えば神道であるが、この神道には開祖も、宗祖も、教義も、救済もない。すべてが「ない」宗教である。いったい誰が始めた宗教なのかもわからず、どういう歴史を辿ってきたのかもよくわからない。特に教義もなく、だいたいの宗教は最終的に「救済」が示されるのだけど、神道に限ってはそういうものがない。そもそも「神社」は本来なかったのだけど、仏教建築を参考に作られるようになったという。かなり特殊な宗教なのだ。
 宗教を構成するあらゆるものが「ない」。しかし確かにそれは「ある」宗教である。
 日本人自身が勘違いしやすいところはここにある。日本人も「宗教といえば……」でイメージとして開祖となる誰かしらがいて、その宗教にまつわる長い物語があって、特有のしきたりがあって、そして礼拝堂や聖遺物なんかがあったりする……そういうものを考えてしまう。神道はそういったすべてがない。「宗教といえばそういうものがあるんでしょ」と日本人の大多数の人が考えて(というか世界中の人々も思っている)、しかし神道にはそれがないから、「自分たちは無宗教だ」と思い込んでしまう。よくよく考えれば日常の色んなところに宗教的なサインを見ることができる。
 神社を参拝することもそうだし、夏や秋のお祭り、神棚の設置やお守り、結婚の儀式もそうだし、新築の前に神主を呼んでお祓いをやってもらったりする。どれもこれも宗教的な習慣だ。日本人が無自覚にやっている行動の多くが、実は神道に紐付いている。なのに世界中のどの宗教にある「形」がことごとくなく、生活の中に密着しているから、日本人自身も「無宗教だ」と勘違いしている。しかしはっきり「ある」のだ。

 神道の信仰の場といえば「鎮守の森」だ。
 「神社」と「鎮守の森」はなかなか切り離せない関係性にある。なんとなれば神道の本質は「神社」という場所ではなく、「鎮守の森」にこそある……といってもいいくらいだ。
 その森の中に神がいるとされ、そこが儀式の中心地であった。年中行事は森の中で催され、神輿の渡御が行われたりする。
 また鎮守の森に生えている木々が儀式のアイテムになった。オガタマ、サカキ、シキミ、ヒイラギ……こういった樹木は神道の儀式の際によく使われる。こういった木々は日本古来から鎮守の森で茂っていた木々である。現代の森は外来の植物が多く入り込んでいるが、神道の世界で使われる植物というのは今も変わらず古来から日本の森にあるものが使われる。あらゆるものが「ない」神道だが、道具や習慣を見ているとヒントは一杯あって、どうしてそういう形になったのか――といえば日本の環境そのものに答えを探すことができる。

 「文明」というのは、基本的に「自然」とトレードオフすることで作り上げることができる。文明を築くためには背景に豊かな自然が絶対に不可欠だ。文明のスケールは自然がもたらす恩恵に制約を受けることになる。
 ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』には文明が崩壊するパターンが示されていた。文明は自然とトレードオフすることで作り上げることができるが、その自然がもたらすスケール以上に文明が大きくなると――突然文明は崩壊する。自然がもたらす恩恵に限りがあるはずなのだけど、それ以上に人が増えて、自然から恩恵を搾取しようとした瞬間、文明は崩壊する。その時のカタストロフというのは、「人が1人1人死んでいく」というものではなく、数百人とか数千人単位でバタバタと倒れていく。飢餓で死んでいくし、飢餓に直面してわずかな食料を奪い合って殺し合ったりというケースもある。こうやって崩壊した文明の痕跡が世界にはいくつも残されている。

 人類最初の巨大文明とされているメソポタミア文明。紀元前2100年頃に作られた壮麗な神殿だが、周囲の自然が荒廃している。もともとはこの辺りは豊かな森だったと推測される。

 ギリシャのパルテノン神殿。現在のギリシャといえば、木が1本も生えてない荒涼とした山だが、もともとは鬱蒼とした森だった。しかし文明というのは自然とトレードオフであるから、その森を片っ端から消費し尽くして、最終的には崩壊していった。

 現代は自然の破壊を外国のどこかに押しつけてしまって、自分たちの周囲で実感しにくくなっている(日本の場合、家を建てるのに海外から材木を購入している。山林国でそこらじゅうに木があるのにかかわらず)。しかし自然の崩壊は確実に進行している。かつての文明は小規模で、取引している自然が破壊されると文明も崩壊していた。しかし現代の文明はあらゆるネットワークで世界中が繋がってしまう。もしも次の崩壊が起きるとしたら地球規模……という懸念がある。地球規模で自然とトレードオフして、文明(贅沢暮らし)を維持する……その欺瞞をどこまで続けられるのか、が私たちが直面して認識できないでいる問題である。

 日本は縄文文明から数えると1万年に及ぶ文明を築き上げてきた。かなりの長期間、しかも高度な文明を築き上げてきた。つまりそれだけの期間、自然とトレードオフし続けてきた。にも関わらず、日本の森は現在も鬱蒼と茂っている。これはなぜなのか?
 日本は高温多湿の気候で、植物の生育が早かった。平地が極端に少ない地形であるため、森を破壊して居住地の開拓ができなかった。どちらも正解だと思うが、やはり「森そのものが信仰の場であったから」、が大きかったはずだ。そこに神がいて、立ち入ること自体が禁忌であったから、破壊されなかった。森が破壊されなかったのは、日本人の元々の森林信仰が大きかったはずだ。

 それが今、森が破壊されようとしている。他でもなく、「自然環境を守ろう」という名目の下に……だ。そしてそういう森林破壊を推進している人々……というのが私たちよりはるかに頭も良く、地位の高い人たちだ。どうしてそういうことになるのだろうか。

 一つには彼らの知能が中途半端だからだ。
 優秀な彼らの頭脳では、それが「合理的かどうか」しか判断基準がない。その合理的思考で日本の山を見ると――こんなにたくさんの空きスペースがある! 《有効利用》しなければ! ……ということになる。
 そこで「古来から続く植物相の破壊」といった概念はない。そこは立ち入りを禁じられた神住む森である……と言っても「それがどうしたの?」と優秀な人々は失笑するだろう。宗教なんて古くさい。神様なんていないよ。いまだにそんなの信じているの、ダサい……と彼らは言うだろう。そうした宗教観があったから森が破壊されずに済んだ……なんて言ってもただ嗤うだけだろう。
 優秀な人々の頭脳には「合理的かどうか」がすべてだ。「コスパが良いかどうか」。そういう判断基準しか持たないから、「山や森に空きスペースがあるからソーラーパネルを立てちゃおう」という考え方になってしまう。

 二つ目には日本的な伝統への嫌悪。

 ちょっと前に、ドキュメンタリー映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』という作品を見たのだけど……。
 討論の内容はほとんど理解できなかったのだけど、断片的に理解できたのは、東大生たちの「日本人的なもの」に対するコンプレックス。
 難しい言い方をしているけど、結局のところ、彼らは思春期的な「日本的な伝統ってダサいよね」という意識なんだろう。それが東大生だから難しい理屈を並べて婉曲的にしているだけであって。
 伝統なんて古くさい、ダサい。いまだにそんなことを言っているのか。もうすぐ21世紀だぜ。そういう伝統やしがらみから脱却した別のなにかになりたい……という願望。それに対して三島由紀夫は「日本人はどうあがいても日本人にしかならんぞ」と諭している。
 そこには敗戦を抱えて、「戦争に負けたダサい国」というレッテルから逃れたい……という願望もあったのかも知れない。
 こういう時代から、日本の知識層には「伝統ダサい」「古くさい」「昔の習慣なんて非科学的」そして「西洋的ではない」という意識が組み込まれてきたんじゃないかな……という気がしている。日本人が自国の歴史や文化を軽んじて、伝統的建築や芸術が荒廃していても無関心、外国人から尋ねられてもうまく答えられなくなっていった……そういう性格が知識階層の上の方から作られ、広まっていったんじゃないか。
(ちなみに私はたいていのことは答えられる。実際、外国の友人からいろいろ聞かれているが、すべて答えている)

 3つ目にはやはり「利益主義」。
 どうしていま日本中のあちこちで森が破壊され、ソーラーパネルが敷き詰められるようになったのか、というとソーラーパネルで一儲けしたい業者がいるから。儲けたい人々からすればSDGsも儲けの種。SDGsブームに乗って自前の商材を売ってやろう……そういう考えしかない。
 そういう商売を、いわゆる「意識高い系」の人々が「進歩的な考えを採り入れよう」と買っていく。
 どうしてそんなものにお金を出すのか? 自然を守りたいのか? いや違う。彼らは「ステータス」が欲しいのだ。流行の思想に乗っている……という客観的にも確認できる証が欲しいのだ。人々から「SDGsの流れに乗っている」と承認されたいのだ。
 でもそのソーラーパネルの設置場所がないから森を破壊する。森を破壊していいのか……意識高い系の人々は森は「空きスペース」でしかない。彼らが欲しいステータスの中には、「森を守る」という意識はないのだ。
 そしてこうなる↓

 SDGsとは「Sustainable Development Goals」の略称で、意味は「持続可能な開発目標」。自然環境を保全しよう……という大いなる目標の合い言葉である。しかし実態はまるっきり違う。むしろ自然を破壊している。短絡的に森を破壊し、計画性もなくソーラーパネルを敷き詰めて、その年の台風に耐えきれず崩壊する。しかも、場合によっては修復のめどが立たず放置。
 そういう計画を立てているのが、私たちよりもはるかに頭も良く、社会的地位も高い人々。結局言うと、日本の知識層の思考力なんてこんなもん。まず台風に耐えられるかどうか……という計算もしない。SDGsという流行語に乗ることしか考えない。その上に、とりあえずソーラーパネルを売り込みたい業者に騙される。
 私は以前から「認知能力」の問題を話しているが、人間の認知能力なんて実はたいしたことがない。知識階層の上であろうが下であろうが、そんなに差はない。私たち人類はどうやっても、自分たちが身を置いている「社会」がどういう構造で成り立っているのか認識できない。知識階層はどうやら「世界の潮流」だけには詳しいようだけど、自分たちの足元がどういった環境や文化観で成り立っているのか理解していない。そもそもそういうものを「下らない」と思い込んでいる。彼らの認知能力の全体は世界の上辺で流れている「理想」と、自分が世の中からどう見られているかという「ステータス」ですべてを使い切っている。だから理想を唱えて現実が崩壊する。
 SDGsだ! ……と言っている人ほどやっていることがSDGsの思念とかけ離れている。そろそろSDGsという言葉が詐欺師の決まり文句に聞こえてくる。

 お話しの途中にも書いたけど、文明というのは自然とトレードオフすることで成り立つ。現代みたいに文明が発達しきって、「自然とか関係ないよ」……みたいな意識が広まっている時代であっても、これは変わらない。スマートフォンの部品を作るのだって、世界中の色んな地域の鉱物を削って、運んで、加工して作られる。その原料が尽きたらもう作れなくなる。スマートフォン1コでも自然とトレードオフで作られている。
 今も昔も変わらないこと、というのは文明というのは豊かな自然を背景に成立しているということだ。これは忘れてはならない。この自然を喪うと、文明は崩壊する。
 実は知識層達が「ダサい」「古くさい」「西洋的ではない」と切り捨てた古くからある伝統や習慣といったものに、自然を守ろうという意識が隠されていた。SDGsを連呼する人々は、まずこういったところに立ち戻ったらどうだろうか。自分たちの文明がどういった自然を背景になり立っているのか知らずに、なにが「自然保護」だ。


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