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ドラマ『俺の家の話』【第2話感想】 “お金”と“介護”と“愛”の複雑な関係性について考えさせられる

『高砂や、この浦舟に帆を上げて』
第2話も、金銭問題に、後妻業の女に、一門破産のピンチなどなど重い事件が続けて起こるが、この記事ではこのドラマが提起した「愛とお金の問題」に焦点を当ててまとめておきたいと思う。
(以降はネタバレあり。2021年1月30日時点の最終更新です)

※過去の回の感想記事はこちら↓


余命最後の“幸せの形”とは?

観山家の次男、踊介(永山絢斗)は、父親が婚約者だと連れてきた介護ヘルパーのさくら(戸田恵梨香)が、余命短い老人の遺産目当てで近づく後妻業の女ではないかと怪しんで秘密裏に調査をし、ついに過去の被害者AさんBさんCさんの証拠写真を集めてみせ、ある夜、観山家の家族会議の場で本人に突きつけた。「親父は騙されてたんだよ」と踊介は寿三郎(西田敏行)に告げる。

静かに聞いていた寿三郎は「違うんだよぉ」とつぶやく。いや違わないと説得する家族たちを制して「違うんだってば!」と否定するのである。
「わたしがね、」
「わたしが、もう一度舞台に立つためには、さくらさんが必要なの。」
「さくらちゃんがいるから、いま私はがんばれるの。ほら、グーパー体操とかさ、それから野菜や、動物の名前思い出すのもさ、それから、色ボケだ、老いらくの恋だと人様から笑われるんだけど、そんなもんもぜーんぜんなんでもないのよ。ただただ、さくらちゃんにそばにいて欲しい、それだけなのよ」

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寿三郎の切実な告白を聞きながら、ぼくら視聴者は、考えさせられる。余命最後の幸せとは、どういうものなのだろう、と。自分自身が余命を宣告されてみないことには、最後まで分からない感覚かもしれない。
「あと1年ほどしか生きられない」と分かってしまえば、もう残しておいてもお金は使えないんだから、金への執着はきっとなくなるのだろう
そんな時に、“その人と居れば、最後の一年とても幸せな気持ちで暮らせる”と確信できる人に出会えたなら、その相手が自分のそばに居てくれるための対価が、たとえ10万円でも、全財産でも、老人にとってはそれがどちらであろうと、あまり違いはないのかもしれない。

さくらは、写真をつきつけられて家族に取り囲まれても、特に取り乱したりもせず、
「だますつもりはないし、遺産目当てでも決してないんです」と素直な声で語る。楽しく幸せな余命を過ごして欲しいし、少しでも長生きしてほしくて熱心にサポートしているだけなのだという。
そうしていたら、遺産をもらって欲しいと打ち明けられるのだ、と。「あげると言われたものはもらいます、いけませんか?」

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“お金”と“介護”の複雑な関係

死んだらお金がいらないのと対比的に、生きている限りはお金がいる。
寿一(長瀬智也)は無職でお金がない。
コンビニバイトをしたり、ウーバーイーツに挑戦したり、金を借りようと頭を下げたり、古巣のプロレス団体に臨時で復帰してみたり。
このドラマは「寿一のお金の工面」がひとつの主題にもなっている。

別れた妻に養育費を渡さなければならないがお金が足りないし、観山家も寿三郎が倒れて以降、借金がかさんでいてお金がない。どこもかしこも火の車だ。
第2話のラストでは、お金に目がくらみ、迷いつつも寿一は寿三郎を置いて、プロレスのオンライン試合に協力するバイトにいってしまい、そのあいだに寿三郎はひとりきりの自宅で倒れてしまう。

かたときも目の離せない介護。舞うほどに赤字になる能舞台。障害ある子を育てながらも働いていない前妻。
それなのに、42歳にもなって、未経験業界への転職をはじめたばかりの寿一。本業にした能楽が金になるまでにはまだまだ時間がかかりそうで、首がしまっている。この状況をどう打開するか。
“お金がないと、幸せにはなれないのか?”
そういう問いのようにも聞こえる。

「なにがなんでも親父の介護は俺がやるって決めたんだ」と寿一は言う。
その“家族介護”とは、実際には“親族による無償奉仕の精神”に頼って運用されていて、もちろんだが寿一がいくら介護に時間をさこうとも一銭にもならない面が、寿一の「お金がない問題」を悪循環もさせている。
このことは“家族介護”の背景に潜む現代的な社会課題でもある。介護ヘルパーのさくらが過去に遺産相続を受けたという老人たちも、自分の親族からは介護放棄されていたとも語られていた。

「介護」と「お金」。「仕事」と「奉仕」。「恩義」と「御礼」。「親族」と「愛」。
何がお金をもらうに値する活動なのか。
何はお金をもらうべきでない活動なのか。

どこにその境界線があるのか?
考えさせられはしないか。

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『高砂』に込められたメッセージ

ところで、寿一は一週間、徹底的に稽古を重ねたすえ、一門たちの前で『高砂』を舞ってみせ、見事、観山流の門弟と認められる。

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この高砂は、結婚式で謳われることの多い“祝いの唄”だという。寿一が舞った場面ではこう謳われる。

『千秋楽は民を撫で 萬歳楽には命を延ぶ 相生の松風 颯々の聲ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ』

老夫婦が、相生の松に例えられて、“いつまでも末永く仲睦まじく夫婦愛を育む”という、「愛」をテーマとした能楽の作品である。

このあと、観山家の“俺の家”の話しは、どうなっていくのかまだ先がまるで見えないけれども、この第2話が“高砂ではじまり、高砂で終わった”ところをみると、そのメッセージからはどうやら、人と人との“愛情の力”が勝つのかもしれない。
寿一が一文無しでも気にせずに、必死に舞ってみせた高砂には、そういう“希望”が込められていると思いたいのである。

(おわり)

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