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【小説】神の店じまい 上

散って大地に還る花のような終わり方を。
死にゆく神の昔話。上下2本で終わります。

 血のように真っ赤な夕陽が透き通った白い毛を通り抜けていく。消えゆく自分にもまだ太陽の暖かみは感じられるのか。狐は口の端をゆがめて自嘲した。

「おい、いつまでそうしているつもりだ」

 低い声がかかり、獣の耳がぴくりと向いた。藪から現れたのは一匹の白蛇だった。鬼灯のような瞳がじいとやしろの前でうずくまる己を映す。

「放っておいてくれ。どの道もう助からん」
「お前なあ……。だから言ったのだ。早く見捨てろと。ああ、もうどうしようもないところまできているではないか」

 先が二つにわかれた舌がちろちろと瞼の上を舐める。狐は甘んじてそれを受け入れた。

「そう言うな。ただ普通よりも長生きしただけの獣に有り余る力と時間をくれたのだ」
「だから感謝しろと?」

 白蛇は嘲笑を浮かべた。その炎の底に寂しげな色が混じったのは気のせいだろうか。

「現実を見てみろ。勝手に祀っておいて、飽きたら放置して、そこに住まう者も忘れて能天気に笑っているのだ。お前ひとり律儀に待っていたところでもう誰もこんぞ」

 白蛇は吐き捨てた。陽の光が彼の美しい純白の鱗を血の色へと染め上げる。

「人間なぞ捨ておけばよかったものを! 見ろ、お前の体を! 見ろ、お前の周りを! 社はみる影もなく、お前も朝露より儚く消えそうではないか」

 狐は後ろを振り向いた。雑草は生え放題で、目を凝らさなければ、社へと続く階段も見えない。瓦は何枚も地に落ちて粉々になり、屋根も傾いている。飾られたしめ縄はいつのまにか切れてしまった。思えばこれが切れてから急速に神気が失われていった気がする。

「仕方あるまい。この世に永遠など存在しないのだ。私の場合、それが他の者より早く訪れただけのこと」

 狐は目を伏せた。脳裏によぎるのは過ぎ去った日々の数々である。

 狐がこの村の神として祀られるようになったのは偶然だった。
 狐は通常の野狐よりも大きな体を持っていた。おまけに毛皮は雪のごとき白で、赤黄色の毛皮をもつ同族たちからは奇怪な目でみられたものだった。
 冬ならばともかく、この毛は森の中で目立つ。獲物を捕らえるのにも、猟師から逃れるのにも苦労した。だがそのおかげか、人や動物を騙すのは大変得意になった。
 ある日、胡散臭い山伏から握り飯を盗みとってやったところ、突然煙が現れ、息を詰まらせているうちに毛むくじゃらの手に捕まってしまった。
 自分の死を覚悟したが、そいつは大層変わり者で、そんなに手が器用ならわしの技を教えてやろう、なんて笑ってさまざまな術を教えた。
 たかが野の獣に呪術を教えてもいいものかと思ったが、本人がいいのならばいいのだろう。もらえるものはもらう主義だ。
 狐は握り飯を食らいながら大げさな身振り手振りで語る男の講話を話半分で聞いていた。男は存外語りが上手く、こやつ山伏よりも騙りのほうが似合うのではないだろうか、と狐は内心思っていた。が、見た目にそぐわず術の力は本物だった。
 おかげさまで人や物にも化けられるようになり、一時は人を惑わす化け狐として周囲に悪名をとどろかせたほどだ。
 ただそれも長くは続かなかった。理由は単純。過ぎたいたずらはむやみに敵を増やすだけだと思い知ったからだ。
 それからは気の向くまま、風のおもむくまま、根無し草のような生活をしていた。
 だからこの村を訪れたのも休むのにちょうどいいと思った、ただそれだけのことだったのだ。

「あ、おきつねさま」

 草むらをかきわけて現れたのはまだ七つかそこらの少女だった。狐は薄目で少女を見た。
 麻の服を着、耳あたりまで伸びた黒髪には葉がついている。どこにでもいる田舎娘だ。

「めった白いのう。雪みたいにまっしろだ」

 訛りのある言葉と共にもみじのような手が伸びてくる。狐は鼻に皺をよせて牙をむきだした。
 ひっと引きつった声を上げて少女は後ずさった。足をもつれさせながら走り去っていく後ろ姿を一瞥し、狐は鼻を鳴らした。
 田舎の小娘ごときに自分の毛を触らせるつもりは毛頭ない。
(寝床変えるか……)
 下手に大の男、特に猟師なんぞ連れて戻ってきた日には最悪だ。せっかく良い日当たりだったのに、とぼやきながら狐は重たい体を持ち上げた。


「あっ、やっとめっけた」

 狐は耳を立てた。足音はつい先日聞いたものと同じもの。他に足音がないため、男どもを連れてきたわけではなさそうだが、あれだけ怖がらせた元凶に何の用だろうか。

「おきつねさま、前はすまなかっただ。いせなし触るのはおきつねさまがおどけるてえおっかあが言ってた。おらあやまりたくて」

 少女は勢いよく頭を下げながら何かを差し出した。それは不格好な握り飯だった。めちゃくちゃに力をこめたのだろう。米粒が潰れて恐ろしい密度になっている。

「だからこれくれる。ごめんなさい」

 鼻先に押しつけられて威嚇しなかったのは褒めてもいいくらいだ。そもそも狐は米より鼠の一匹でも寄こしてくれたほうが喜ぶ。
 しかし少女の顔は真剣そのもので、水を差すのも憚られた。狐はため息をかみ殺して、握り飯を一口で飲みこんだ。

「わっ、一口だ。おきつねさま、大きなくち」

 少女は目を丸くした。
 だからなんだ。こちとらお前よりも遥か長く生きている上、体格も普通の狐より恵まれている。わらべが作った握り飯なぞ一口で十分だ。それより早く去ってほしかった。日向ぼっこに赤の他人は必要ない。
 狐は岩のように硬い米を噛みながらさっさとどこかに行けと尾を振る。が、少女は怯むどころかさらに距離を詰めてきた。

「おきつねさま、一つ頼みたいことがあるだ」

 狐は胡乱げに少女を見上げた。
 押しかけ謝罪だけではおさまらず、頼み事までしてくるとはなんと図々しい奴だ。狐は前と同じように場所を移動しようとした。が、狐が踵を返した瞬間、少女はむんずと尾を掴んだ。思わず狐は吠えた。

「おいわっぱ何をする!」
「やっぱりただのきつねじゃねえ。ただのきつねはしゃべらねえもん。おきつねさまは神の使いだ」
「たわけたことを言うな。俺はただの狐だ。神の使いなんてものではない」

 神の使いなんぞ冗談でも毛が逆立つ。自分は神の加護も神聖な力も何一つ持ちやしない。あるのは人を惑わす妖術だけだ。

「おきつねさま、実はえらい化け物が村に現れるようになっちまっただ。どうか、どうか助けてほしいだ」
「おい離せ」

 小娘のくせにどれだけ尾を振り回そうとも手を離そうとしない。このままでは尾が引きちぎれそうだ。

「わかったわかった。聞いてやるから尾を離せ!」

 ついに根負けした狐は叫んだ。

「ほ、ほんとうか? ほんとうにおらの村たすけてくれるか?」

 勝手に話を進めようとして何を今さら。狐は冷えきった眼差しをむけた。

「まったく人間というものは身勝手の極みよ。それでいったい俺に何を求めるんだ小娘」

 深い嘆息をついて狐は目の前の娘を見据えた。少女は顔を輝かせて一気にまくしたて始めた。

「おらの名前はちえ。その化け物が来たのはひと月前のことだ」

 ちえが言うには、山から一番近い場所の馬が消えたのが異変の始まりだったらしい。山地の村にとって馬は大事な労働力の一つだ。おいそれと買える物でもない。
 馬屋の戸が壊れていたことから馬が逃げ出したのではないことは明らかだった。ただしその壊れ方が異常だった。まるで紙を破るように木戸が破り捨てられていたのだ。
 到底人ができる芸当ではなかった。これは大事おおごとだと村の男衆は顔を合わせて何度も相談しあったが、明確な解決策は出てこない。そうこうしているうちに次の事件が起きた。
 次の事件現場は桑畑だった。桑畑は田畑にもできぬやせ細った土地を活用している。そのため山に最も近い場所の一つだ。
 その桑畑が一か所道を作ったかのようになぎ倒されていた。さらにその付近には大きな熊の足跡がいくつもついていた。
 熊がわざわざ馬屋に来てまで馬を襲うもんかと村人たちは首をかしげたそうだが、人の味を覚えた熊は人を襲う。どこかで馬の味を知ってしまった熊が降りてきたのだろうと自分たちを納得させた。しかし相手が熊ならばそれなりの武器が必要となる。
 そこで村人たちは隣村の腕のいい猟師に頼みこんで、一晩見張ってもらうことにした。猟師は新たにできてしまった桑畑の道のすぐそばの茂みに隠れて、獲物が来るのを待っていた。
 月の光も届かぬ夜更けにそれはやってきた。ゆっくりと草を踏みしめてやってきたのは人のように二本足で歩く影だった。
 一瞬、盗人かと思ったのだが、それにしては背丈が大きすぎる。星明りを頼りに目を凝らしていた猟師はその正体にあっと声を上げた。
 それは熊であった。しかし力士よりもがたいのいい体格といい、獣にしてはあまりに凶悪な面構えといい、その禍々しさから鉄砲の引き金に手をかけることすらできず、震えて化け物が通り過ぎるのを待つしかなかったという。
 結局その日は別の馬が連れ去られた。猟師は手に負えないと、どうしても退治したいのならば奴のねぐらを突き止めて、入口をふさぎ、追い詰められて出てきたところをめった打ちにするしかないと言う。
 だが山奥の小さな村だ。深い山のねぐらを探すだけの人手を割けるわけもなく、熟練の猟師が手も足も出なかった化け物にみんな震え上がってしまい、戦意をなくしてしまった。
 それでもろくな抵抗もしないまま好き勝手させるわけにはいかない、と柵を作ってみたり、罠をしかけてみたりしたものの、当然のごとく破られてしまった。もはや村人たちには打つ手がない。

「このままじゃおらたち馬なくして、おかいこさんもとれねえで飢え死にするしかないだ。どうか、どうかこの通りだ。おらたちのことたすけてくんな」
「そうは言ってもな……」

 特徴からして村に現れたのは恐らく鬼熊という妖怪だろう。
 小耳に挟んだ程度だが、たいそう力の強い妖怪らしく、七尺もある岩を片手で持ち上げることができるらしい。妖術をかじった程度の狐が太刀打ちできるものでもなく、下手に期待させるくらいならばはっきり断ってやったほうがお互いのためだ。
 狐が口を開いたそのときだった。

「おらのご飯くれるから! 明日も明後日ももってくる。油あげはわからんけど、あきんどに頼みこんでみる。おねがいします。おきつねさま!」

 ちえは額を地にこすりつける。しかもちゃっかり前左足を掴んで離さない。なかなか胆の据わった小娘である。

「いや俺としては雑穀の握り飯よりも鼠のほうが嬉しいんだが」

 うっかりこぼしてしまった一言にちえは食いついた。

「ねずみか!? だったらおら毎日おきつねさまにねずみお供えするだ! ねずみならどこにでもおる。毎日お参りもかかさん。だもんでどうかこの通りだ! どうかあの化け物倒してけれ」

 足元にすがりついて懇願するちえの勢いはすさまじく、思わず首を縦に振ってしまいそうだ。しかし同情だけで承諾するわけにはいかない。こちらも命が大事なのである。

「残念だが俺はただの狐でな。無理なものは無理だ。諦めて他をあたれ」
「でもおらの握り飯食ったろ? おらの頼みごと受けてくれただ?」
「それはそうだが……いや待て小娘。それはお前が俺を驚かせた詫びにもってきたものだろう。話をすり替えるな」

 ちえは頬を膨らませてそっぽを向いた。
 まったく油断も隙もない。人を化かす狐を謀ろうとはとんだ童もいたものだ。

「じゃあおら、おきつねさまがうなずいてくれるまでここにいるだ。うなずくまでぜったいに離さねえ」
「ならばそのまますがりついているといい。村が滅びるまでな」

 二度会っただけの田舎娘の言うことを聞く義理はない。狐は喚くちえを放って昼寝を始めた。


「……まだいたのかお前」

 空が赤に染まるころ、目を覚ました狐は呆然と呟いた。騒ぎ疲れたのだろう。ちえは狐の足を掴んだまま寝息をたてていた。鼻先でつつくと、童は言葉にならない寝言を言った。

「はあ、厄介なことに巻きこまれたものよ」

 空は嫌味なまでに美しく燃えている。呑気に山の際に沈んでいく太陽を睨みつけ、小さな体を鼻で強く押した。

「ううん、まだ寝かせてくんな……あっ、おきつねさま! おらの頼みきいてくれるかや?」

 始めこそ瞼をこすっていたちえだったが、すぐさま顔を上げて狐にしがみついた。狐はそれを冷ややかに見下ろす。

「お前は愚かだな。ただの狐である俺にそうまでして縋るか」
「おきつねさまはただのきつねじゃないだ! 人と話せるのは神さまのつかいに違いないだ」

 これはこちらが折れるまで続ける気だ。ならばやることは一つしかない。狐は深いため息をついた。

「わかった。お前の粘り強さには参った。やってやろうではないか」
「ほんとうか!? おきつねさま、ほんとにおらの村たすけてくれるだな」

 飛び上がって喜ぶちえに狐は口元にいびつな笑みを浮かべた。
 頷くまで離さないというのならば、嘘をつけばいいのだ。なに、狐は人を騙すと相場が決まっている。立ち向かう振りをして夜更け前にここを発てばいい。
 悪く思うなよ、と狐は密かにほくそ笑んだ。

「ここがその化け物の通り道だ」

 ちえが指差した先には桑の木が倒れ、一本の道ができていた。辺りから漂う濃厚な獣の匂いは頂点に立つ強者の匂いだ。狐が立ち向かったところでひとたまりもないだろう。

「ああ、案内ありがとうな。ここまででよい。お前は家に帰れ。早くしないと日が暮れる」
「おきつねさま、よろしくたのむだ」

 真剣な顔でぺこりと頭を下げ、ちえは背を向けた。小さな背が夕陽に溶けていく。影が見えなくなったところで狐はやれやれと首を振った。

「鬼熊なんぞ俺がかなうわけないだろう。わっぱには悪いが、無理なものは無理だ。恨んでくれるなよ」

 夜になるまであと少し。月が顔を出したら、闇に紛れて消えてしまおう。
 桑の木の根元に狐はうずくまり、背を丸めた。
 その見こみが甘かったと知るのは夜の帳が落ちてからである。

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