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【短編小説】桜の樹の下には初恋が埋まっている

埋めても埋めてもまた芽吹く。
初恋を桜の下に埋めた少女の話。

 桜が嫌いだ。いかにも春代表の顔をして、自信満々に咲き誇るあの花が嫌いだ。
 頭上の梢は、堅い鱗のような皮がほころんで、淡いピンクの裾がちらりと覗いていた。日が落ちれば、空気はまだ冬の残り香を漂わせるというのに、だ。
 ああ、今年もやってきてしまった。最も忌まわしいこの季節が。
 少女は憎悪のこもった目で月明かりに照らされた小枝の先を睨みつけた。天に向かって無邪気に手を伸ばす様がいっそう憎たらしい。やがて蕾はほころび、清純で儚くも、庇護欲をそそられる絶世の美女が出来上がる。
 体は少女の腕では囲いこめないほど骨太のくせに。たかだか植物のくせに。花の見目と散り際が多少他の花より目につくからというだけで、物語のヒロインのごとく誰からも愛されるのだ。
 そしてその根元には――
 少女は無理やり目をそらした。制服のスカートをくしゃくしゃにして、足早にその場を後にした。脳裏に焼きついた、闇夜から手招く細い指と、己が手にかけたむくろを振り払うように。


「こはるー。ごはんできたわよ。おりてらっしゃい」

 母の呼び声に横になっていた小春はスマートフォンから顔を離した。イヤホンを抜くと流行りの曲が微かに漏れ出ている。小春はそれを冷たく一瞥して、ベッドから身を起こした。


「そういえば小春、この前堺さんから聞いたのだけど、なんか素行の悪い先輩と付き合っているんだって?」

 母の丸い顔に埋めこまれた小さな目に、探るような、こちらが否定することを望むような、猜疑と身勝手な願望が入り混じった光が宿った。
 小春は視線を落とした。米はあと三分の一ほど、焼き魚は半分残っていた。皿の端には取り除いた小骨が所在無げにうずくまっている。
 まだ皿に残った白い蛋白質の塊にはまだ細い骨がいくつも埋まっているのだろう。神経をすり減らす問答に加えて、食べるだけでも手間がかかる料理。
 喉に小骨が刺さったときの不快感がこみ上げて、小春は箸を置いた。

「お母さんには関係ないでしょ」
「小春!」

 母が叫んだ瞬間、小春は立ち上がった。マシンガンのように飛んでくる母の追及を全て無視して階段を駆け上がった。
 板全体がたわむほど強くドアを閉めると、声の銃弾は途端に威力を失った。耳をすませなければ、彼らはその輪郭すら保てない。
 嵐はしばらく続くだろうが、彼女も言うだけぶちまけ、暴れるだけ暴れれば満足して元に戻るだろう。いつだってそうだった。世間体ばかり考えて、小春のことなど見向きもしない。
 そんなヒステリックを頻発させるから離婚を切り出されたのだ。もっともそれを口にした日には何が飛んでくるかわからないから言いはしないが。
 突然スマホが震える。薄っぺらい液晶画面には吹き出しのアイコンが浮き上がっていた。
 母が眉をひそめた先輩からのものだ。その文言の裏には浅ましい欲が透けて見える。小春は唇を引き結び、それに簡単な了承の返事を返した。
 母は自分が無知であるが故に毒牙にかかったと思いこんでいるが、それは違う。小春は先輩を利用したのだ。自己満足の贖罪のために。
 多分先輩も小春が胸に抱える打算的な思惑に薄々感づいているだろう。
 しかし先輩は何も言ってこない。彼のことだ。盲目的に好いていない分、面倒事がなくて楽だ、とでも思っているのかもしれない。
 事実、先輩に浮気相手がいようが、遊びだと軽んじられようが、小春の心は一ミリも動かない。酒と喧嘩と女に明け暮れる人間に誠実さを求めるほうが馬鹿というものだ。
 空虚。乾いた利害関係の上に成り立つ、刹那的な快楽と暇つぶしを求めるだけの関係。
 だがこの自暴自棄な、悲劇の淵に身を投げ出すような自傷行為を小春は自ら望んで行っていた。なぜならこれが罰だからだ。あの人とあの人の妻を裏切った、愚かな罪人への罰だからだ。


 初めてその人と出会ったとき、小春は恋に転がり落ちる歓声を聞いた。一気に血液が駆け巡り、全身の細胞全てが彼の一挙手一投足を見逃すまいと神経を研ぎ澄ませる。

「初めまして小春ちゃん。僕の名前は勝彦。よろしくね」

 穏やかな笑みと差し出された骨ばった手。自分とは全く異なる硬くて大人の男らしい手。

「え、あ、あのはじめまして」

 髪の毛を整えつつ、手を軽くスカートに擦りつけてから手を握る。ぎゅっと両手で握っても包みこめないほど大きくて、盛り上がった指の関節が大人であることをまざまざと感じさせた。
 いかにも好青年の風貌をした勝彦は、その見た目の期待を裏切らない快活な青年だった。よく笑い、よく通る声で話す。その上、まだランドセルを背負う子どもにも膝を折って目線を合わせてくれる優しさも持ち合わせていた。
 だが小春の頬には熱が集まるばかりで、気の利いた返し一つすらできやしない。小春はただ指をもじもじと動かしながら俯くことしかできなかった。

「やっぱり怖いかな? ごめんね、今の小学生が何に夢中になっているのかわからないから、話していてもつまんないかもしれないね」

 勝彦はそう言って、申し訳なさそうに苦笑した。

「そんなことないわよぉ。立派になって叔母さん嬉しいわあ。この子ちょっと人見知りだから緊張しているのよ」

 ね、そうでしょ? と、よそ行きの笑顔を貼りつけた母が返事を促した。肩に置かれた手に力が入る。普段なら顔をしかめていたところだが、小春はこれ幸いと、母の問いかけに何度も頷いた。

「そうかい? 緊張しなくていいよ……って言っても難しいだろうから、もう少し僕のことを話そうか」

 そう言って勝彦はにっこりと笑った。瞬間、心臓が小さく跳ねた。

「僕は君のお母さんの姉の子ども、つまり君の従兄だよ。年がちょっと離れているからお兄ちゃんとか……おじちゃんはちょっと嫌だけど、小春ちゃんが呼びたいならおじちゃん呼びでも構わないよ」
「そ、そんなことない! おじちゃんなんかじゃ絶対ないよ!」

 小春にとって「おじちゃん」はもっと老けていて、禿げあがった頭にでっぷりと突き出した腹を揺らす男の人のことだ。例えば、通学路の横断歩道の前に立っている小林のおじちゃんはまさにそのような図体をしている。

「あの、じゃあ勝彦さんって呼んでもいい?」

 垂れた髪を耳にかけながら小春は上目づかいで勝彦を見た。
 前にドラマで、友人同士だった男女が恋人関係になったとき、お互いを名前呼びに変えたシーンを見て胸がときめいたのだ。別のドラマで仲睦まじい夫婦が二人で名前を言いあうシーンに他の登場人物にはない、確かな絆を感じたことも思い出した。
 小春は勝彦のことを他の誰かと同じ位置に置きたくはなかった。一等席に座らせたかった。だからこそ、あえて下の名前で呼ぶことにしたのだ。
 勝彦は僅かに目を揺らしたが、すぐに笑みを作った。

「いいよ。呼ばれ慣れてないからちょっと照れるけど」

 微かに赤らめて頬をかく勝彦の仕草に再び胸がきゅんと高鳴った。
 それから小春はすっかり勝彦に懐いた。年の離れた従兄は小春の心をあっという間に掌握した。周りの男子たちとは違う大人びた所作、朗らかな笑顔、頭を撫でてくれる手つき、自分がどんなに拙いことを言ってもきちんと耳を傾けてくれる誠実な姿勢。
 大好きだった。憧れだった。小春にとっての王子様は彼であった。
 だが初恋というのは総じて叶わないものである。そしてそれは何の前触れもなく破裂するのだ。
 テレビを見ながら母は何の気もなしに爆弾を放りこんだ。

「そういえばね小春、かっちゃん結婚するらしいわ」

 それを聞いたとき、水を打ったような静寂が訪れた。いや正しくは小春から一気に音が遠のいただけで、空間自体が無音に包まれたわけではない。
 現にテレビには芸人たちが大げさな身振り手振りで話を盛り上げている。だがそれらは膜一枚隔てた別の空間のように遠いものだった。

「おめでたいわよねえ。あんたも今度の結婚式参加するでしょ? かっちゃん大好きだもんね」

 母はテレビに視線を向けたまま、当然のように言い放った。小春は何も答えられなかった。
 私のほうが勝彦さんのこと好きなのに。
 どろりとした黒が顔を出す。
 絶対私のほうが勝彦さんのこと大事にできるのに。私のほうが先に勝彦さんのことを想っていたのに。私の勝彦さんを盗らないでよ!
 小春ははっと我に返った。

――今、なんて思った?

 顔も知らない勝彦の婚約者を悪し様に罵っただけでなく、浅ましくも勝彦の隣には自分がふさわしいと断じる傲慢さ。年の離れた従兄に欲の混じった視線で眺めていたことへの嫌悪感。そもそも従兄と結婚を望む人間なんておかしい。異常者だ。
 一応、法律上はいとこ同士の結婚は認められているのだが、小春の頭にはそのような知識は存在していなかった。
 ただクラスのどこを見渡してもいとこ同士で結婚したという話は聞いたことがない。それだけで、異端のレッテルを貼るには十分だった。
 気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い!
 こんな感情持ってはいけなかった。自分がこんな、醜く汚れた人間だなんて思いたくはなかった。

――消さなきゃ。

 この感情はきっと世間では歓迎されないものだ。後ろ指をさされるものだ。年若い小春でもそれはわかった。
 小春は心の中で芽吹いた思いを何度も何度も踏みつけた。消そうとした。しかしそれは真っ白な紙に垂らした一滴のインクのように、消えない染みとなって小春の心にこびりついた。むしろ消そう、消そうとすればするほど一層存在を強くするばかり。
 小春は口を覆った。
 ここまで自分は醜悪な人間だったのかと。なんて汚らわしい罪人なのかと。
 呆然と立ちすくむ小春の耳にテレビの言葉がするりと入ってきた。

「いやーそれにしても昔の文豪はすごいですねえ。桜の樹の下には死体がある、なんて表現するなんて」

 これだ、と思った。同時に悩み事があったときは紙に書き出してみるといい、といつしか小耳に挟んだ処世術がよみがえる。
 そうだ。この醜い想いを殺すのだ。そして春に咲き乱れるあの花の養分にしてもらうのだ。あの花の下に埋まる屍たちと同じように、桜と共に散ってしまえばいい。誰にも知られず朽ちてしまえばいい。
 当時の小春にはそれが最善策に思えてならなかった。
 そうと決まれば鉄は熱いうちに打てだ。
 小春は母の問いかけにろくな返事も返さず、駆け出した。机の引き出しにはまだ便箋が残っていたはず。早く、早くこの汚れを絞り出して、息の根を止めなければ。
 後ろから母の困惑した声が追いかけてきたが、小春の耳には一切入ってこなかった。


 決行は一週間後、金曜の夜のことだった。小春は母を起こさないようにそっと家を抜け出した。いつものように深酒をした母は、よほどのことがなければ起きることはない。だが母が就寝している一階の和室を忍び足で通ったとき、一瞬寝言が止まったときには心臓が凍りついた。
 念のため鍵はかけておく。小春は小物入れとして使っていたクッキー缶を小脇に抱えて走り出した。
 真夜中の街は恐ろしく静まり返っていて、小春は自分の息づかいが近所の人に聞こえないか不安でならなかった。
 目的地は小春の足でも五分とかからない土手だ。そこには数百メートルにわたって桜が植えられている。
 月明かりに照らされた花々は妖しく咲き乱れていた。薄桃色の花が小さな毬のように丸い塊となって、枝先を華やかに彩る。梢は重みでたわみ、億劫そうにその豪奢な袖を夜風に遊ばせていた。
 小春はその中でも一番立派な桜を目指した。橋を渡った反対側、ちょうど土手が終わって畑へと続く坂の直前にそれはあった。立ち並ぶ桜並木の中、一人ぽつんと佇む桜の樹。それは一番幹が太く、一番大きく天に向かって腕を広げた桜だ。
 小走りで坂を駆け上がった小春は、その桜を目にした瞬間、思わず足を止めた。
 垂れ下がった枝の先は目を凝らしても見えないほど花に覆われていた。白に淡く紅を溶かした花びらは、幾重にも重なることで、他よりも渋く濃い紅となっている。まるで唇に塗られた紅のように。
 それはもはや一人の女だった。女はおびただしい花の簾の間から艶然と微笑んでいた。花魁のように思わせぶりな視線を送り、細い手が小春を招く。引き寄せられるように小春は歩き出した。


 土を掘る。何度も何度もシャベルをふり上げる。ある程度掘り進めると、甲高い音と共にシャベルが何かに阻まれた。
 それは太い根っこだった。根元を掘っているのだから当然と言えば当然なのだが、小春にはそれが桜の拒絶のように思えた。
 箱を埋めるには深さが足りない。だがか弱い少女の腕では何度スコップを突き立てようと、根っこに傷一つつけることさえ至難の業だ。

「なんで、なんでよ! なんで切れてくれないの! あなたが誘ったんじゃなかったの!」

 しかし泣きわめいても、引っかいても、悲痛な声で訴えても、桜が小春を哀れんで根っこをどけてくれる奇跡など起こるはずもない。小春はそれから数回無駄な抵抗を繰り返したのち、そのすぐ脇の地面を掘り始めた。
 今度は幸運にも進行不可能なほど大きな根っこに阻まれることはなく、缶を埋めるほどの穴を作ることができた。
 小春の手はすっかり泥だらけで真っ黒だった。爪の先は力任せに根っこをひっかいたせいで血が滲んでいる。汚らしい罪人にふさわしい汚い手だった。
 はっ、はっと息がきれる。震える手でクッキー缶を持ち上げた。
 これでようやく解放される。ようやく私は勝彦さんの顔を真っすぐ見ることができる。
 色とりどりの花をあしらった可愛らしいクッキー缶が土に覆われていく。埋もれていく。死んでいく。一度も日の目を見ずに冷たくなっていく。
 これでよかったのだ。よかったはずなのだ。
 冷たい春風が肌をこする。視界がぼやけて、ならしたばかりの土にぽたぽたと雨が降った。


 しかし予想に反して埋めた想いは消えてはくれなかった。あの樹をみるたび、春がくるたび、殺したはずの想いは何度もよみがえり、小春に恨みのこもった目を向ける。小春の心に深く深く根を張って、小春が埋葬した想いを糧に燦然と咲き誇る。
 いや小春はしくじってしまった。仕留め損ねたのだ。奴は瀕死の体を引きずって、小春への憎悪をたぎらせた。その憎しみがあの桜をも染めてしまったのだ。
 勝彦にはもうすぐ産まれる赤子がいる。
 小春は体調を崩して結局彼の結婚式には参加できなかった。彼はひどく残念がって、産まれたときには、ぜひ赤子の顔を見に来てほしい、とわざわざ伝えに来てくれた。
 彼と彼の妻、そして彼女の腕に抱かれて眠っている赤子。幸せだけが詰めこまれたその空間を目にしたとき、小春は奴を御せる自信はなかった。
 幾度となく潰した芽が再び顔を覗かせようと蠢く気配がする。小春は唇を嚙みしめて、それを踏みにじった。
 だから小春は己を罰しなければならない。呪いには呪いを、汚れたものには汚れたものを。薄暗い世界に身を沈めて、あの花を枯らすのだ。
 そうしてあの人に会うひと時だけでも、純粋に慕う従妹の顔を取り繕えればそれでいい。
 春は確実に近づいてくる。土手の桜たちは既に五分咲きを迎えた。天気予報は全て晴れマーク。強風の日もない。天の神様とやらはとことん小春のことが嫌いなようだ。
 だから小春は膝を抱えてあれを視界に入れないようにするしかない。
 俯く少女の頭にどこからともなく薄桃色の花弁が一枚、舞い降りた。


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