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【短編小説】蛇の尾を踏む

木陰に潜む毒蛇にはご注意を。
三人組シリーズに出てくる少年、龍がある末っ子の地雷を踏みぬく話。下記の話の続きです。先にそちらを読んだほうがわかりやすいと思います。

 病室には求めていた人物はいなかった。白いベッドのうち三つは空で、どうも住人のうち片方も席を外しているらしい。
 残る一つのベッドで何かが動き、こちらを見た。

「あ、もしかして龍さんですか?」

 ベッドの上にいたのは肉付きのよくない少年だった。少しでも力をいれれば折れそうな細身の体に日に焼けていない肌は、日差しに溶けて消える薄雪のような儚さを植えつける。

「あ、ああ。白海の弟の地永ちえいだよな? 白海まだ来ていないか?」
「はい、僕が地永です。白海兄さんはまだ来てないですね。さっきちょっと遅れるって連絡が来たので、もう少ししたら来るんじゃないでしょうか」

 会話終了。沈黙が落ちる。

「あーえっと……これどうぞ。一応お見舞いの品ってことで」

 龍は紙袋を差し出した。小さな紙袋にしては重みがあるそれを。

「白海からさ、本が好きって聞いたから、本好きなヤツに聞いて、ソイツのおすすめの持ってきた。面白いとは思うけど、もし既に読んでいたもんだったらごめんな」

 読書は趣味ではないし、もっとも好き嫌いが分かれる贈答品の一つであるので、その手に詳しいヤツの協力を仰いだ。彼の目利きはたしかだから、品質は保証できるだろう。

「わざわざありがとうございます」

 地永は微笑んで頭を下げた。
(こういうところは白海と似ていないな)
 すぐ感情的になって、兄に歯向かうどこぞの次男坊とは大違いだ。兄の一挙一動に盾つき、教室でぎゃんぎゃんと愚痴を並べたてる姿が頭をよぎり、思わず苦笑いをこぼす。

「ちょっとあけてみてもいいですか?」
「どうぞ。もうお前のだし」
「ありがとうございます!」

 地永の目が光り輝いた。
(あ、これは子どもっぽい)
 子どもっぽいのではなく、実際子どもなのだが。しかし隔絶された場所で育ってきたせいか、身にまとう年頃らしくない落ち着きが彼を年下と感じさせないのだ。
 地永は表紙を一枚めくって、さらに輝きを強くした。

「わ、マリーゴールドだ。植物が出てくるのかな」

 そこには見事なマリーゴールドのイラストがあしらわれていた。何枚もの花弁が重なる様は西洋の姫君のドレスのようである。

「植物が好きなのか?」

 思わず心の呟きが表に出ていた。はっと口を押さえたが、既に地永の耳に届いた後だった。地永は笑みを深めて答えた。

「はい。昔から植物が好きで」
「へえ、白海とはまったく趣味が違うんだな。アイツが植物を愛でるなんて想像できないし」

 静寂が落ちる。が、それも瞬きにも満たない間のことで違和感を覚える暇もなかった。

「そうなんですか? いつも花をもってきてくれるので、てっきり白海兄さんも好きなのかと」
「いや、学校じゃまったくもってそんな素振り見せないけどな」

 白海が好きなのは植物よりも魚だ。同じく魚好きなさくらとやれこの魚が今年の脂のりがいいだ、やれ今年は何々が豊作だ、とかで盛り上がっているのを見かけたことがある。

「じゃああれもそうなのか?」

 龍は窓際に飾られた黒い箱を指さした。その中にはオレンジ、薄ピンクと明るい色のバラが敷き詰められている。

「そうなんですよ。生花はだめだからプリザーブドフラワーを買ってきてくれて」

 僕のお気に入りなんです、と笑う顔に幼さが滲み出る。龍は目を見開いた。

「へえ、相変わらずブラコンだなアイツ。それ高いだろ」

 箱の質からして一線を画しているのだ。素人目にみても安物ではないことくらいわかる。白海はいったい何か月分のバイト代をつぎこんだのだろう。

「そうでしょうね。高校生が気軽に買える値段ではないでしょうから」

 地永はつっと視線を花に移した。目を細めて嬉しそうにはにかむ横顔は微笑ましい。
 こういうのが普通の兄弟なのだろうか。ふと兄の言葉が頭をよぎった。

「きっとずいぶん頑張ったんでしょうね。僕が喜ぶと思って、それだけを糧に」

 その眼差しにどろりと煮詰めた蜂蜜色が混ざる。
 待てよ。これは普通なのか? 疑問が頭をもたげる。
 いや勘違いだろう。龍は首を振った。温かみのある家庭とは縁遠い場所にいたせいで、何でもかんでも斜に構えるのは悪い癖だ。色眼鏡をどければ、弟思いの兄とその気持ちを正しく受け取る弟の美しいエピソードのはずだ。そうであってほしい。
 地永はうっとりと続ける。

「昔からそうなんですよね。僕は物欲が強いほうじゃないんですけど、リクエストすると一生懸命叶えようと奮闘する兄さんたちの姿が好きで、ついつい頼んじゃって。特に手が届くかどうかギリギリのラインを攻めると、僕のために必死になって頑張ってくれるんで、本当にそれがもうたまらなくて」

 地永はほう、と恍惚の息を吐いたが、対照的に龍には悪寒が走った。

「そ、そうか。俺にはちょっとわかんねえけど」
「そうですか? 龍さんにもたしかお兄さんいらっしゃいましたよね」

 きょとんと首をかしげる姿はいとけないが、龍にはもはや人の皮を被った別の生物に見えてならなかった。
 とにかく一秒でも早くこの場から去りたい。もう白海を待たなくてもいいのではないか。どうせこれに言伝ことづてしておけば、自分が来たことも伝わるだろう。そもそも手土産を渡した時点で義理は果たしたはずだ。

「うちはお前んとこと違ってそこまで仲良くないからな」
「そうだったんですね……。すみません」

 顔がこわばっていることに気づいていないのか、地永は申し訳なさそうに眉を下げた。

「そういえば白海兄さんも輝生きせい兄さんとは仲悪いんですよね。そりが合わないみたいで、いつも白海兄さん怒っているんです。別にそれはそれで構わないんですけど、あのまま行くと白海兄さんが飛び出しちゃいそうで怖いんですよね。僕はずっと三人でいたいんだけどなあ」
「いやさすがにずっと一緒はおかしくないか?」

 気がつけば思ったことが口から滑り出ていた。はっと口を押さえたが、既に覆水盆に返らず。空気が一瞬で冷えこみ、肌が粟立った。
 表情がごっそり落ち、ただぽっかり空いた一対の空洞が自分を見た。反射的に視線を逸らす。だが一点の汚れもない白は、逃げ場になってくれることはなかった。

「ねえ」

 低い声が地永の口から這い出た。びくりと体がこわばる。
 恐る恐る彼の顔を見ると、ぽっかりと口を開ける深淵と目があった。

「アンタに白海兄さんのいったい何がわかるんで? それともなんですか? 血のつながった家族よりも友達である自分のほうがわかるって?」
「い、いやそういうわけじゃ……」

 龍は頬を引きつらせて後ずさりした。

「はあ? じゃあどういうつもりで言ったんですか?」

 とげとげしい気配が牙をむく。
 冷や汗がだらだら流れているのに、口内は乾ききっていてうまく舌が動かない。その間も圧は増すばかり。のしかかる重圧だけで圧死しそうだ。
 ああ、やっぱりあの二人についてきてもらえばよかった。光太であればやんわりと怒り狂う地永を宥められただろうし、さくらであれば火に油を注ぐどころかガソリンをぶっかけるだろうが、真っ向から立ち向かえる強さがある。少なくとも無抵抗でやられるタマではないだろう。

「えっと、その」

 早く言えと言わんばかりに開ききった瞳孔が急かす。
 何か、何か言わなければ。自分の無実を証明しなければ。しかし焦れば焦るほど空回る。頭が真っ白になって出てくるのは意味のない単語ばかり。喉笛めがけて牙を突き立てられるそのとき、風が吹いた。

「悪い! 遅くなった!」

 息を切らして入ってきたのは待ち望んでいた少年、白海である。途端に不穏な空気が噓のように霧散した。

「ううん、そんなに待ってないよ? 白海兄さん」

 そのあまりの変わり身の速さに戦慄する。もはや猫どころか虎を被っているレベルだ。白海は特に疑う仕草もみせず、ほっと息をついている始末。騙されてんぞお前と龍は半目になった。と、次の瞬間、

「それに」

 ふいに真っ黒な目がこちらを貫く。思わずひっと引きつった声が漏れた。

「龍さんがいてくれたおかげで退屈しなかったから。そうですよね?」

 にっこり微笑んでいるのに目は笑っていない。てめえ余計なこと喋るんじゃねえぞ、と喉元に突きつけられた切っ先が透けて見えた。

「そうなのか? 悪いな。地永と仲良くしてくれてありがとう」

 手を握って白海は笑う。だが純粋無垢な笑顔の背後に幽鬼のような地永の顔があり、龍としては到底笑えるどころの話ではない。

「い、いや大したことしてねえし。それにもうお暇しようかなって」
「え? もう帰んのか?」

 残念さを前面に出した表情で白海が見つめてくる。一瞬心が揺れ動いたが、後ろの悪魔のおかげで持ち直した。

「白海兄さん、龍さんは龍さんのお母さんのお見舞いついでに顔を出しにきてくれたんでしょう? 疲れも出てきたんじゃないかな。ここで引き留めるのも可哀想じゃない?」
「そ、そうだな! もう俺は見舞い品も渡したし、あとは兄弟水入らずのほうがいいだろ」

 わざとらしいくらい声を張り上げて、龍はじりじりと後退した。

「そうかぁ? べつに気にしなくてもいいのに」
「まあまあ白海兄さん。龍さんもこう言っていることだし。龍さんもまた白海兄さんの話を教えてくれたら嬉しいです」

 きょとんと首をかしげる白海と、百パーセント社交辞令の笑顔を向けられ、龍は引きつった笑顔で扉を閉めた。最後に見えた光景は談笑する二人の兄弟。だが無数の黒々とした根っこがとぐろをまくように白海に巻きついている、恐ろしくグロテスクな図が重なっていた。

 病院から出た瞬間、どっと体に重力がのしかかり、思わずうめき声が漏れる。

「なんだったんだあれ……」

 整然と並ぶ四角い窓はどこもカーテンが閉められていて、どれがあの病室なのか見分けがつかない。だが白い布がひらめくたびにあの絶対零度の目がこちらを見下ろしているような気がして、龍は足早に病院を後にした。


「どうだった」

 家に帰ると兄が玄関で待ち構えていた。
 なんでわざわざ玄関まで出迎えに来ているんだ、と、平時なら悪態をついたところだったが、今は憎まれ口を叩く気力さえない。
 ため息をこぼすと、なぜかうろたえる気配がした。

「その、やっぱり何かあったのか」

 龍は顔を上げた。いつもの冷静さはどこへやら。優等生じみた顔がこわばっている。だがそれは不安と心配からくる緊張によるものだ。決して侮蔑だとか落胆だとかそういう類ではない。
 ――ああ、コイツもちゃんと血が通った人の子なのか。
 すとんと胸に何かが落ちた。それはごく普通のことだったが、龍にとっては新たな数学の法則を発見したときのような衝撃だった。
 今までずっとどこか違う生き物なのだと思っていた。自分の望むもの全てを持っていて、両親の期待と愛を一心に注がれる存在。いつだって自分の千歩先を行き、出来損ないの自分とはまるで違う世界を歩んでいるのだと。それは兄が歩み寄りの姿勢を見せてからも常に心の底にあった。
 だがこうして自分の挙動に一喜一憂する姿は完璧超人とはかけ離れた、泥臭くもがく人間の姿だ。

『今度は虎徹といらっしゃい』

 母の言葉が耳の奥で反響する。かたん、と微かに天秤が傾く音がした。龍は息を吸いこんだ。

「母さんがさ」

 兄は息を詰めて自分の言葉を待っている。

「その、今度は兄貴と一緒にこないかって」
「え……」

 兄は絶句した。
 ぽかんと口を開けて数秒固まったのち、意味もなく眼鏡のブリッジを押し上げる。その間抜けな姿に龍は吹き出した。そして未だ決定的な一言を言い出せない情けない兄のために、こちらから切り出してやることにした。

「で、提案なんだけど、今度一緒に行く?」
「いいのか?」

 言葉尻を奪うように兄は前のめりに頷いた。心なしか目の奥がきらきら輝いているような気さえする。あまりの勢いに龍は顎を引いた。

「あ、うん。兄貴がよければだけど。勉強とか大変だろ」
「俺はまったく問題ない。お前がよければ明日にでも行くか?」
「い、いや明日はさすがに母さんの疲れとれてないだろ。やめとけよ」
「そ、そうか。それもそうだな」

 兄はがっくりと肩を落とした。今日の兄はやけに感情豊かだ。

「でもまさかお前からそんなこと提案してくれるなんてな。俺は嬉しいぞ」

 花が後ろで散っている幻覚さえみえる喜色満面の笑みを浮かべられて龍は苦笑いした。
 今、自分たちはそれなりに「普通の兄弟」をやれているのではないか。ふとそんな考えが浮かび、龍は苦笑を深めた。以前であればそんなこと夢にすら思わなかったことだろう。
 このまま自分たちの間にできた厚く冷たい壁もゆっくりと雪解けのときを迎えるのかもしれない。瞬間、心底幸せそうながらどこか仄暗い微笑みと、ぞっとするほど昏い瞳がよみがえる。背筋に冷たいものが駆け抜けた。

「……やっぱ俺たちは今のままのほうがいいかも。あんま距離近すぎるのもよくないし」
「えっ」

 龍はさっさと二階の自室へ向かった。だから気がつかなかった。呆然と立ちすくむ兄の姿など。中途半端に取り残された宙に浮いたままの腕など。
 ベッドに寝転がると、どっと疲れが襲ってくる。
 なんだかひどく幼馴染たちに会いたかった。くだらない会話でいいから、生産性のない馬鹿なやり取りでいいから、あのぬるま湯に浸りたい。
 そんなことをつらつら考えているうちに瞼がおりた。

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