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【短編小説】夜を食べる

トラウマも腹に収めてしまえば怖くない。
夜恐怖症を克服するために夜を食べる男の話。

 そうだ、夜を食べてしまおう。男は決心した。怯えたところで暗闇は明けない。だったら部屋の隅で縮こまっているよりも、フォークを突き刺し腹に収めてざまあみろと笑ってやれ。

「――と、いうわけで夜を食いたいんだが、何かいい案はあるか」
「いやちょっと待て。夜を食べたいってなんだ」

 勇気を振り絞って切り出したというのに友から返ってきた反応は待っただった。制止をかけられるとは肩透かしもいいところである。
 機嫌が急降下するのを察した友は慌てて手を横に振った。

「お前が前向きになろうとしてくれているのは嬉しいよ。ただ、そうだな……あまりにも斜め上の解決法を提示されたもんだからびっくりしただけだ。えっと、夜を食べるってつまりどういうことだ?」
「そこまでおかしなことではないだろう。緊張したときに人という字を書いて飲みこむのと一緒だ」
「じゃあ夜って字を書いて飲みこむか?」

 男は首を横に振った。奴がその程度で膝を折るとは思えない。
 男は昔から夜が苦手だった。いや天敵と言っても過言ではない。
 夜恐怖症とでも言うのだろうか。あるいは睡眠障害の一種と言ってもいい。夜になると底知れない恐怖が腹の底から這い上がってくる。昼間は問題ないが、日が落ちるとどうにも駄目であった。
 歯を鳴らして部屋の隅でうずくまる子どもを親は大層心配した。さまざまな病院を尋ね歩き、神社にお祓いに行ったこともあれば、胡散臭い霊能者に世話になったこともある。
 しかし結果は惨敗。何をやっても恐怖心は消えず、原因不明のまま今日まで来ている。
 夜眠れないというのは不利だ。社会は基本的に昼を中心に回っている。特に学校などはその最たるものだ。親は何度も学校側にかけあってくれたが、授業中舟をこぐ生徒を教師がよく思うはずがない。
 中学まで成績は下から数えたほうが早く、何とか折り合いをつける方法を身につけた高校でようやっと持ち直したが、それでもずいぶん苦労をかけたことは否めない。
 この体質のせいで何度か職場もクビになった。夜間中心の職につこうとも身体が震えて使い物にならないし、昼間は睡眠不足で集中が続かない。
 そもそも折り合いの付け方というのも電球の明るさを最大まで引き上げ、無理やり昼だと脳を錯覚させているだけだ。さらに睡眠導入剤を服用することで何とかやっている。学生時代は有効な手法だったが、社会人になってから誤魔化しがしにくくなった。
 友は肘をついてカップを持ち上げる。コーヒーの香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。

「じゃあなんだ。イカ墨料理でも作るか?」
「それもいい案だが、それだけでは弱すぎる。ということでいい作戦はないかと思ってな」

 ふむと相槌を打って友はカップに口をつけた。
 彼のいいところはどんなに突飛な話であろうと、どんなにこちらの機嫌が悪かろうと辛抱強く話を聞いてくれる点である。病気に振り回され、荒れていたときも見捨てなかった稀有な人間だ。

「じゃあ夜に縁の深い食べ物を探してみるか? それとも夜をモチーフにした食べ物を作ってみるとか」
「なるほど。たしかにそれはいい案だ。思いもよらないものが奴との繋がりを持っているかもしれん」
「奴て」
「あんなもの奴で十分だ」

 そうと決まれば早速行動だ。何としてもこの忌々しい戦いに終止符を打つ。意味の分からない恐怖に支配される身体にも毎日やってくる奴にもいい加減飽き飽きだ。


 夜といえば何を想像するか。

「七夕のそうめん、十五夜や十三夜の月見団子、冬至のかぼちゃ、クリスマスイブのローストチキンやらジンジャークッキーやら……ああ、これは多いからどれか一つでいいか。思ったより少ないな」

 夜にまつわる食べ物で検索をかけても、出てくる記事のほとんどは健康関連の記事で、男の計画は意外にも難航した。

「まあ作るものが少なくなる分、作る手間も省ける。ある意味幸運というべきか」

 鍋やカレーなど夜に食べるイメージが強いものもあるが、それでは数があまりにも膨大すぎる。毎日作っても全て食べきる前に自分の人生の日が暮れるだろう。

「ひとまず一番手軽に作れるものを探すか」

 今から作れるものと言えば何か。しばし考えを巡らせていた男は腕を捲り上げた。

 硝子の器に注いだ透明感のあるつゆの中で、細い麺がゆらゆらと揺蕩っている。申し訳程度に添えた季節外れのオクラは、海の藻屑のようにくすんだ緑を浮かせていた。

「これで本当に奴を倒せるのか……?」

 ようやく男は自身の行動を振り返ってみた。いやそもそも奴を食べてしまえば、この病も完治できると考えた時点でおかしい。よって不安に陥ったのではなく、正気に戻ったが正しいのではないか。
 しかし正気だろうが、発狂していようが、既に物は完成してしまった。男にできることは箸を手にすることだけだ。
 改めて目の前に鎮座するそうめんを見つめる。青白い蛍光灯の光に照らされて、元々白い肌の色がいっそう色を失くしていた。
 果たしてこれは人が食うものなのだろうか。ぬらぬらと光る小麦の生成物は濡れそぼった幽霊のようだ。
 男は恐る恐るひとくち口に含んでみた。水を吸ってぶよぶよした食感が気持ち悪い。おまけに強調された小麦臭さが箸を動かす手にブレーキをかける。こしのない麺が喉を通るたび、不快感が腹の底にたまっていった。
 スーパーでたたき売りされていたそうめんだ。値段相応と言われればその通りだが、先ほど抱いたイメージと相まって死肉を飲みこんでいる気分になる。
 と、そんな考えに至ってしまえば、もう一口も口にいれる気にはならなかった。結局半分残った麵の塊は、己の口ではなく三角コーナーの口に吸いこまれる羽目になった。
 この体たらくで奴に打ち勝てるはずもなく。煌々と光る電球を睨みつけながら、男は一睡もできずに朝を迎えることになった。


「で、そんな顔をしているわけか。目の下に真っ黒な隈こさえてどうしたのかと思ったよ」
「ああ。いい考えだと思ったんだがな」

 男は机に突っ伏した。
 初戦は惨憺たる結果に終わった。出鼻をくじかれた男の胸には、先の見えない不安がとぐろを巻いて、今にも心を引きずりこもうとしている。

「んー……でも一度やっただけで諦めるのは早くないか?」

 男は緩慢な動きで顔を上げた。友人は顎をさすりながらこちらを見つめている。その黒い瞳にはお世辞にも目つきが良いとは言えない、凶悪な顔つきの男が映っていた。
 せめて髭くらい剃ってくればよかったか。と、思いつつも、その程度で見捨てるような人間でもないことは知っている。一つ息を吐いて、男は問いかけた。

「じゃあどうしろと?」
「そうだな、アプローチを変えてみよう。お前は例の病を克服したいんだろう? だったら、単に夜っぽいものを食べるんじゃなくて、夜のどんなところが苦手なのか。それを分析して、その要素にあった食べ物を食べたらどうだ? 嫌いなものを腹に収めれば、脳もそれに勝ったのだと思いこみやすくなるかもしれない」
「なるほど。一理あるな」

 たしかに長年悩まされてきた宿敵に対し、ぼんやりとした心象だけで挑むのは無謀だった。いったい夜の何に恐怖し、何に怯えて眠れないのか。それをまずはっきりとさせるべきだったのだ。

「分析するのはいいとして、全てに当てはまるものなんてあるのか?」
「いきなり全てを倒そうなんて考えちゃいけないだろう。なんたってお前と夜の確執は子どもの頃からだ。今までだって何度も打倒を掲げては、破れてきたんだろう? 一発で勝てるわけないじゃないか。ここは辛抱強く取り組まなくちゃ」
「それもそうか」

 男はふむ、と頷いた。
 あれとの戦いは長きにわたる。一度で倒せるわけもない。

「わかった。俺の見立てが甘かったな。ここは一旦頭を冷やして作戦を変えてみることにする」
「いい報告を期待しているよ」

 友人は穏やかに手を振る。男は礼を言って席を立った。

 仕事を終えた男は早速紙を引っ張り出してペンを握った。
 自分は夜の何が怖いのか。時おり手を止めながらも、ペンを走らせていく。
 ようやく右下の端までペンがたどり着いたとき、男は大きく息をついた。紙面いっぱいに連なる文字たちは、一部黒に塗りつぶされていたり、解読できないほど乱れていたりしていた。
 だが始めこそ上手く書き進められなかったものの、記憶を手繰り寄せ、恐怖の根源を追求していけば徐々に見えてくるものがあった。

「それじゃ始めるか」

 さあ開戦のときだ。
 今日作るのはイカ墨スープである。己の敵にどんなイメージを持っているか分析した結果と一番重なる要素を持っていた料理がこれだったからだ。
イカ墨スープは沖縄の郷土料理の一つで、材料を完璧に揃えるのはなかなか難しい。そこで男はネットで調べた中で一番簡単なレシピを参考にすることにした。
 作り方は至極簡単。イカとイカ墨、出汁、味噌のみ。イカを食べやすい大きさに切り、イカ以外の材料を鍋に投入して、沸騰したらイカを入れて数分煮こめば完成である。
 出来上がった真っ黒なスープと男は神妙な面持ちであい対していた。
 イカ墨を使った料理は初めてだ。味噌が入っているせいか、灰色のもやがゆっくりと動いている。
 ひとさじすくってみた。光を通さない暗闇が小さなスプーンの中に閉じこめられている。
 そう、この色が嫌いだった。どんな色も塗りつぶす黒は自分まで飲みこまれてしまいそうで、なぜ毎日この色が支配する時間が来るのだろうと、嫌で嫌でたまらなかった。しかし恐怖の対象であった暗闇は今やこんなちっぽけな空間に収まっている。
 恐る恐る口にすると、意外にもまろやかな甘みが口内を満たした。磯の香りが鼻をぬけるが、思ったよりも生臭くはない。
 男は目を瞬いた。
 今度は具のイカも一緒に食べてみる。イカ特有の嚙み応えのある食感と、それに絡みつく汁が絶妙な旨さだ。白米が欲しくなる味である。
 思わず隣の茶碗を手に取り、米をかきこむと最高だった。気がつけば椀の中身も茶碗の中身も全て空で、残るは役目を果たした食器だけだった。

「やればできるじゃないか」

 男は満足気に呟いた。
 目にいれたくないほど恐怖していた闇は、あっさりと自分の腹に入った。逆に今までなぜあんなにも怖がっていたのか不思議なくらいだ。
 その日は初めて電気を消して寝てみることにした。パチリと電気を消すと、途端に暗闇が覆いかぶさってくる。心臓がぎゅっと握り潰されるような不安が襲ってきたが、ふと夕飯の光景が目に浮かんだ。
 あんな小さなスプーンに捕まるようなか弱い存在なのだ。噛み潰して一滴残らず腹に入れても、何の抵抗もできなかった奴なのだ。単なる見かけ倒しだ。こんなもの怖くない。怖くない。
 浅くなった呼吸が徐々に深くなる。その日は完全に眠りの世界に旅立つことはできなかったが、眠りの浅瀬で微睡むことはできた。
 次の日。手ごたえを感じた男は次のトラウマを腹に収めるため、行動を起こした。
 この日はリベンジ戦。つまりそうめんだ。
 前回の失敗を生かし、安売り品に飛びつくようなことはしない。きちんと下調べをし、手の届く範囲で評判のいいものを選ぶ。
 ここで油断してはいけない。普段の勘に任せたいい加減な調理法は敗北への一歩だ。ありがたいことに選んだ商品はなんと製造元のホームページで茹で方が載っている。
 男はスマホと睨めっこをしながらそうめんを茹で上げた。今回はタイマーで時間もきっちり計ったので、万が一にも前回のような失態は犯さないはずだ。
 椀に盛りつけたものを見て、男は目を見張った。ツヤが違う。
 前回のそうめんは盛りつけの時点でどこかのっぺりと締まりがなかったが、今回のそうめんは安物の蛍光灯の下でさえきらきらと輝いていた。心なしか添えたオクラまで姿勢を正しているようにも見える。お前、この前はサスペンスに出てくる死体くらい生気がなかったじゃないか。
 箸で摘まみ上げれば絹糸がさらさらと揺れる。既にこの時点で格の違いを存分に見せつけている気がするが、前回の失敗が脳裏にちらつき中々口をつけられない。
 だがいつまでもためらっていては麺が伸びる。ええい、ままよと目をつぶって男は口の中に放りこんだ。
 口に入れて啞然とした。わざとらしい小麦臭さはまるでなく、コシのある麵は滑らかに喉へと滑り落ちていった。こちらが飲みこむ労力を感じさせるまでもない、見事な快走である。
 むしろ今まで食べてきたものは何だったのか、己の常識を揺るがすほどの革命をこのそうめんはもたらした。
 心地よいのどごしを味わいながら男は根ざしたトラウマに思いをはせる。
 夜の冷たさも嫌いだった。日が落ちた後の静けさと共に訪れる寒さは心にまで伝播する。寂しさが心に染みこんで、泣きたくもないのに涙がこぼれ落ちるのが嫌だった。夜はまるで自分だけ世界に取り残されたような錯覚に陥らせる。戯れに人の気分を落ちこませて何が楽しいというのだろう。
 七夕も嫌いだった。記憶の中の夜空はいつも雨で、天の川なんて一度も目にしたことはない。そもそも年に一度の逢瀬に他人の願い事を叶える暇なぞあるものか。まとわりつく湿気と陰鬱な雨雲を睨みつけた記憶が男にとっての七夕だった。忌々しい夜の写真やイラストがテレビや店で取り上げられるのも男の苛立ちを加速させる一端を担っていた。
 最後の一本が喉を下ったとき、男は清々しい達成感に満たされていた。これで男を脅かす冷たい孤独は消え去った。
 窓を開ければ秋の気配をまとった夜風が頬を撫でる。空には赤みを帯びた薄い黄色の球体が浮かんでいた。
 ああ、これも食べなければいけないものの一つだ。明日のメニューが決まった。

「次はお前だからな」

 フォークで突き刺すように手を振り回し、窓を力任せに閉めた。

 その翌日。スーパーにいっても自分が思い描く団子がなかったので自分で作ることにした。その代わり、十五夜の供え物、里芋はスーパーにあった総菜を利用した。十三夜は栗や大豆、秋の果物らしいので、半額シールを貼られた栗ごはんを使う。
 ぐらぐらと泡立つ熱湯の中で踊る、白い塊どもをねめつけながら男はひとりごちた。

「さて、味つけはどうするか……」

 そのとき、ふと正月に余らせたまま戸棚の肥やしになっていたきな粉の存在を思い出した。ちょうどいい。供え物の大豆の項目を満たすことができる。
 レトルトやら皿やらが雑多に詰めこまれた混沌の奥に求めていた袋はあった。引っ張り出すと、薄く埃は積もっていたが、中は無事なようだった。男は安堵の息をついた。
 浮いてきた団子を冷水で冷まし、きな粉と砂糖で化粧すれば完成だ。
 月見も好きではなかった。一般の人々は天に上がる球を愛でるが、男にとっては不吉の象徴以外何物でもない。
 冴え冴えとした顔も夜の帳が落ちた直後に上がる赤ら顔も、どちらも苦手だった。前者はあまりにも血の気を感じられず、その寒々しさは死を連想させる。後者は後者で、血だらけの顔がいつまでもこちらを見つめてくるようで気味が悪い。ラテン語では月を示す語が狂気の意味ももつらしいので、自分の感性は古代ローマ人のほうが近いのかもしれなかった。
 だがそれも今日で終わりだ。男は箸を構えた。
 プラスチックのパックに詰められた白米には埋めこまれた金色の宝玉と落ち葉のように散らした黒点がのっている。
 栗は好きだ。鬱陶しい熱気が去り、過ごしやすい秋を代表する食べ物だから。艶のある黒みがかった赤褐色が太陽の光に照らされる光景も好ましい。
 栗の優しい甘みと味つけの濃い里芋の煮物を楽しみながら男は心の傷痕をなぞった。
 古代では夜は人ならぬ者が闊歩すると言い伝えられてきたように、男にとって夜は正体の掴めぬ怪物そのものである。
 月も同様だ。狼男を筆頭とした化け物や呪いの類と縁深い。月食は凶兆として恐れられた時代もあった。
 子どもの頃、夜に怯える自分を面白がった悪ガキたちが無理やりホラー映画を見せてきた時期があった。並外れた怖いものを見れば何も起こらない普通の夜なんて取るに足らないものになるだろうと。
 結果はご覧の通りである。まったくの逆効果だった。振り返ればいかにも作り物めいた演出の数々だったのだが、当時の自分は大層怖がった。特に月をバックに肌から剛毛が生え、おぞましい獣の姿へと変わっていく様は幼心に深い爪痕を残した。
 改めて目の前に鎮座する団子のピラミッドを眺める。白い肌に散らした浅い黄色は今夜も浮かぶ地球の破片によく似ている。
 脳裏に獣の遠吠えと画面越しにぎらぎら底光りする眼差しがよぎった。瞬間、鼓動が不規則になる。
 男は軋む心臓を宥めすかし、山の頂点を口の中に放りこんだ。
歯で押し潰すと、控えめな抵抗が返ってくる。それを無視してさらに力をこめると、あっけなく陥落した。きな粉のほのかな甘みが口に広がるが、同時に水分も奪われる。うっかり気管に入りそうで、慌てて茶で湿らせた。しっかり嚙んで食道まで押しこんだとき、男は勝利を確信した。

「なんだ。こんなにも簡単じゃないか」

 今まで怖がっていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。思い返せば、あの怪物だって最後は人間によって倒されたのだし、ちゃんと弱点だってあった。過剰に怯える必要なんてなかったのだ。
 最後の一個を飲みこんだところで、帰り道見かけたコンビニののぼりが頭に浮かんだ。真っ白な雪色のケーキと共にはためく謳い文句は男にとって苦い記憶の一つだ。

「さて、次で最後か」

 かぶりを振って男は最後の段取りをたてた。
 少々先のイベントであるため、菓子類は手に入らないだろうが、チェーン店のチキンならいつでも手に入るだろう。かぼちゃは近所のスーパーにもあるのを確認しているので問題ない。

「これで終わりだな。せいぜい首を洗って待っていることだ」

 ついに奴との戦いに終止符を打てる。男は力強く頬を叩いて気合いを入れ直した。

 朗らかなバイトの挨拶を背に男は店を後にした。
 紅白色の紙袋から漂う匂いは腹を鳴かせるのに十分な威力をもつ。
(これを買ったのはもう何年前だったか……)
 遥か彼方に消えた団らんの温度。いやそれすら男の願望の現れなのかもしれない。なにせこれに結びつく行事とは世間一般の認識とは異なり、くすんだ灰色の思い出しかないのだから。

「ってこんなことを考えている場合じゃないな」

 わざわざ薄暗い記憶を呼び出してどうするのだ。最後の戦い前に、自分で勢いを削ぐなど自滅行為もいいところである。
 男は頭の中から陰鬱な感情を放り投げ、家路についた。

 かぼちゃの煮物とフライドチキン。通常では顔を合わせないもの同士が隣り合っている光景は絶妙に合っておらず、思わず笑いがこぼれた。
 香味料が練りこまれた特製の鶏肉はこんがりとした衣を身にまとい、かぶりつくよう男を誘う。
 抗う道理もないので、男は誘われるがままに目の前のチキンに食らいついた。
 衣の下から肉汁が染み出し、ジャンキーな味つけが脳を喜ばせる。
 同時にこのチェーン店のコマーシャルが耳の奥で鳴り響いた。恰幅の良い老人の笑みも。それは徐々に真っ赤なチョッキを着、同じ色の帽子を被る老人へと変化していく。反響する音の中に微かに鈴の音が混じった。
 男の眉間に皺がよった。
 クリスマスイブも男は忌み嫌っている。クリスマスイブといえば恋人か家族のためのものだ。だが男にとっては悲痛な過去を呼び起こす引き金だった。
 この病が発覚してからというもの、両親はずいぶん奮闘したように思う。有名なカウンセラーや医師に相談し、寝つきがよくなる香や音楽をかけ、祈禱師や霊能者にまで頼るほどには。
 だが結果は悲惨なものだった。終わりの見えない闘病生活に夫婦の関係は悪化していき、家庭内の空気は冷え切った。
 周囲の子どもたちがプレゼントに胸を躍らせたり、冬休みの予定を自慢げに話したりする中、男は教室の隅で俯いて縮こまることしかできなかった。いい子にはサンタがやってくるが、眠るという至極当然のことすらできない自分にはくるはずもない。きらびやかな包み紙でおめかししたおもちゃは一度ももらったことがなく、あるのは怒声とヒステリックな喚き声だけだ。
 他と同じだったのはこのチキンが食卓に並んだことくらいだろうか。
 冷めたそれは、脂がギトギトでやけに塩分の強い味が口の中にこびりつき、お世辞にも美味いとは思えなかった。
 噛む。舌で旨みを浴びる。脂でてかる指を拭いて茶とともに飲みこむ。そのたびに温かさが溢れた。それがここまで美味しさを作り上げることを、男は初めて知った。
 ひとピース食べ終わったので、傍らの皿に置かれた濃い黄と緑の物体に目をやった。
 少し力をこめただけで、ほろりと崩れるそれはまだわずかに湯気をあげている。
 歯にあてればあっさり形を保てなくなり、かぼちゃ特有の甘さがすっかり塩分と脂の刺激の強い味に支配された口内を優しく癒した。
 夜が恐怖の対象なのだ。冬至なんてもっての外であった。一番嫌いな行事の一つと言っても過言ではない。
 ゆず風呂もゆずが月を連想させるので男は厭んだ。風呂まで奴らに浸食されるのは安らぐ時間を作るなと言っているようなものだ。だいたい個人の風呂に柑橘類を浮かべたところで掃除が大変になるだけである。ゆず風呂が好きならそういうサービスをやっている旅館に行くか、カピバラでも眺めていればいい。
 それにしてもやわらかい。ここまでやわらかいものだったろうか。
 口の中で溶けていくかぼちゃを噛み砕きながら男は思った。
 本当に今までどうしてこんなものを怖がっていたのだろう。皿に残った骨の残額を前に、男は首をかしげた。
 区切りとなる戦いはあまりにあっけない幕引きだった。


「で、どうだった? 成果のほどは」

 友人が穏やかな笑みで問いかける。男は親指を立てた。

「ありがとう。お前のおかげでついに奴に打ち勝った」
「俺は何もしていないが。まあお前の苦しみが少しでも軽くなったんだったらよかったよ」

 微笑む友人に、男は心の底から彼が友人でよかったと感謝した。
 実を言えば、完璧に勝利をもぎとったわけではない。未だに錠剤は男の相棒であるし、眠りの質が良いとは言い難い。しかし前よりもずっと苦痛が和らいだ。この病から解放される日も近いだろう。
 青空には欠けた月が血色の悪い顔を晒している。日の下では何の恐ろしさも湧かない無力な石ころだ。
 そう、無力。決して怖がるものではないことを、これから胸に刻んで歩んでいけるといい。
 男は笑みを浮かべてコーヒーに口をつけた。


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