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【小説】神の店じまい 下

神の使いと誤解された狐は村の子ども、ちえに頼みこまれ成り行きで化け物退治をする羽目に。狐はその場限りの嘘で化け物退治をする気は全くなかったが――?

上記の話から続く死にゆく神の昔話。これで終わります。

「おきつねさま!」

 さてそろそろ移動しようと体を起こしたとき、ここにあるはずのない声が聞こえて、狐は目を丸くした。

「おい、なぜお前がここにいる」

 駆け寄ってきたのは家に帰ったはずの少女だった。

「だってみんな、みんなおきつねさまのこと信じねえんだ。きつねがくまの化け物を倒すなんてできねえって。だもんでおら、おら……」

 ちえは大きな目を潤ませてぐずった。しかもご丁寧にも尾の先を握りしめている。
 狐は冷や汗をかいた。このまま居座られてしまえば、夜闇に紛れて退散する策が台無しだ。何とかしてこの稚児を帰さねばならない。

「しかし夜もおそい。親も心配する。帰ったほうがいいだろう」

 狐はなるべく優しい声でちよを促した。

「いやだ。おら、ここでおきつねさまのおしごと見届けて、みんなにおきつねさまのお力を広めるだ」
「そんなことは望んでいない。それより化け物退治に巻きこまれて、お前が傷つくほうが俺は悲しいぞ」

 耳あたりのよい言葉を並べたて、早く帰そうとするも、ちえは手を離すどころかさらに力をこめる。

「じゃあじゃまにならんようにする。ぜったいにおきつねさまのじゃまはしねえ。どうかおきつねさまのそばにいさせてくれ」

 狐はひゅっと息をのんだ。ちえは恐らく何の気もなしに放った一言だっただろう。しかし狐には、頭を殴られたような衝撃だった。
 狐はずっと独りだった。父も母も物心つくときにはいなかった。捨てられたのか猟師に捕まったのかはわからない。唯一はっきりしていたのは、己が孤独だということだ。
 それから様々な土地を渡り歩いてきたが、この毛色のせいか誰も傍に寄りつこうとしなかった。
 旅に出たときにはいつかは寄り添える相手がいるかもしれないという夢物語は失せ、淡い期待すら抱かなくなっていた。
 それを今、この娘はいとも簡単に叶えたのだ。

「……それは真か?」
「ああ。かならず毎日お参りしにくるだ」

 冷え切った心に温かい何かが染みこんでいく。不味い感覚だった。このままではほだされる。
 そのとき狐の耳が森の奥からやってくる招かれざる客の気配を拾った。
 みしり、みしりと草を踏みつけ、枝を折る不吉な音。それはゆっくりと月明かりの前に姿を現した。
 黒い小山のような塊は聞きしに勝る巨躯であった。頭は首が痛くなるほど見上げなければ見えず、まとう血の匂いは殺し慣れた者特有の冷酷さがひしひしと伝わってくる。

「ひっ……」

 ちえの口から小さな悲鳴が漏れる。とっさに口を押さえたが、塊がぐるりとこちらを向いた。
 血走った目がちえをとらえる。だが腰をぬかしたちえは動くことができない。
 見捨てればいいのだ。会ってから日も浅い。ここで小さな命が散ったところでそういう運命だったのだ。弱き者が強き者に蹂躙されることなど山では当たり前で、狐が助ける道理はないはずなのだ。なかったはずなのだ。
 それなのにまるまるした目に鋭い爪が映ったとき、狐は叫んでいた。

「お前の相手はこの俺だ、鬼熊ぁ!」

 紫の炎が鬼熊の目の前で弾けた。思わず鬼熊は手で顔を庇う。その間に狐はちよを尾で投げ飛ばし、暴君に向き直った。
 鬼熊はしばし顔を覆っていたが、偽りの炎とわかるや否や怒りの咆哮をとどろかせた。
 振り上げられた腕を飛んで避ける。大地が割れ、砕けた地面の欠片が純白の毛皮にまだら模様を作った。

「ほれほれ鬼さん手の鳴るほうへ」

 狐は村と正反対の山へ向かって一目散に駆け出した。
 その後ろを怒り狂った鬼熊が追いかける。その形相はすさまじく、まさに鬼のようだ。
 バキッと嫌な音が耳元で聞こえた。頭がその音を処理するより前に狐は地を蹴って大きく跳躍した。振り返ると、先ほどまで狐がいた場所に太い木が倒れていた。誰がやったかなど考えるまでもない。

「噂にたがわぬ恐ろしい力だな」

 だがそれに胆を冷やしている暇もない。少しでも足を緩めれば、強靭な腕と尖った爪の餌食になる。
 苛立ちの吠え声が空気を震わせた。鬼熊のほうが足の速さは上だが、狐は鬼熊よりも小回りがきく。ときどき挑発するように木々の間から尾を覗かせてやれば、単純な獣はすぐに頭に血を上らせた。
 どんどん単調になっていく動きに狐はにやりと口角を上げた。このままいけば勝機はあるかもしれない。
 と、次の瞬間だった。風圧を感じたと思った途端、衝撃が後頭部に走る。瞼の裏に星が散った。
 四肢が震えて上手く立ち上がれない。意地で頭を動かすと松の若木が他の木々を蹴散らしており、樹齢百年はあろう大木にぶつかってようやく止まっていた。
 どうやらぶつかったのは幹ではなく、枝のようだったが、運悪く太い枝が直撃したようだ。生温い液体が額をつたって視界を汚す。
 鬼熊が太い腕を叩きつけてくる。狐はそれを寸でのところで躱した。

「やってくれるじゃねえか、このでかぶつ」

 息が荒い。脈はどくどくと波打っているが、それに反比例するように頭は冴えわたっている。狐の瞳は刃物よりも鋭利な光を宿していた。
 鬼熊が再び腕を振り下ろそうとしたが、突然灰色の煙が首回りに巻きついた。振り払おうとするも奇妙な煙はまとわりついて離れない。
 狐は鬼熊に目もくれずさらに森の奥へ走っていった。
 ようやく煙がとれた鬼熊は天に鼻を向けて匂いを探った。鉄錆びた匂いが狐が辿った道を告げている。
 鬼熊の口元に凶悪な笑みが浮かんだ。

 地獄の底から響くような低音が前方から聞こえてくる。狐が一歩後ろに下がった拍子に、小石が転がり落ちた。カランコロンと音は長く続いた。
 狐の背後には地面がない。なぜなら狐が立っているのは切り立った断崖の先端だからだ。
 鬼熊は勝利を確信した足取りで狐の前に姿を見せる。三日月のか細い光に照らされて漆黒の剛毛の一本一本が鈍く反射していた。
 狐は耳を後ろに倒して牙をむきだした。鬼熊はそれを歯牙にもかけず、大股で近づき、丸太のような腕で狐の肉をえぐる。狐はよろめいて足を踏み外す。
 鬼熊は勝利の雄叫びを上げた。と、そのときだった。
 ポンと間の抜けた音と共に狐の姿がかき消え、代わりに半分ほどすっぱり切れこみが入った木の葉が一枚現れる。それは風に揺られて夜の闇に消えていった。
 口を開けて固まる鬼熊の背後から嘲笑混じりの声が投げかけられた。

「おいおい狐が化かすのは十八番中の十八番だろう? 何をそんなに驚くことがある?」

 振り向くと、尖った枝をくわえた狐が口の端を吊り上げて鬼熊を見据えていた。鬼熊が瞳孔を広げて怒りの叫び声を上げた。びりびりと骨まで振動が伝わってくるが、狐の目は据わっていた。
 紅蓮の花が咲いて、鬼熊の周りを飛び回る。追い払おうとして腕を振った鬼熊は、火花の粉が毛に触れた途端、悲鳴を上げた。

「安心しろ。今度の炎は幻覚ではない。ちゃんと実体をもった炎だ」

 毛先を舐めだした炎はあっという間に燃え広がり、鬼熊を包みこんだ。もがきながら巨体は傾き、崖下へ落下していった。それでもなおじたばたと暴れ回っていた黒い塊は、飛び出た大岩に頭を打ちつけ、動きを止めた。
 塊が完全に止まったとき、炎も同時に消え失せた。見下ろす狐もぐらりとよろめく。
 今にも途切れそうな意識を繋ぎ止め、狐は枝を持ち直した。切っ先はうずくまる塊に定められている。

「念のためだ。これでとどめをさしておこう」

 枝は真っ直ぐ塊に向かって落ちていく。くぐもった声が一度だけ聞こえたが、すぐに静寂が訪れた。
しばらく崖下の塊を見つめていた狐は、倒れこみそうになる身体を引きずって森の中へ消えていった。


「あっ、やっとめっけただ、おきつねさま! 死んじまったかと、おら不安で不安で……」

 心地よいまどろみから叩き出す騒がしい声に狐は瞼を上げた。落ち葉が敷き詰められた寝床はやわらかく、大樹にできた洞は雨風から身を守るのにうってつけだ。朦朧とする意識の中で、ここを見つけることができたのは幸運である。狐は初めて神に感謝した。
 その気持ちもこの娘と出会ってしまったことで急速にしぼんでいったが。

「おいわっぱ、あまり大声を出すな。傷に響く」

 はっとちえは口を押さえた。遠慮がちにしゃがみこんで、労わるように鼻に触れた。

「化け物と戦ったときの傷かや? おきつねさま、約束のねずみもってきたけんど、食べられるか?」
「鼠はそこに置いておけ。お前はさっさと立ち去るがいい」

 狐は吐き捨てた。
 まったく空気にのまれてらしくないことをした。大怪我をこさえた上にその礼が鼠一匹だけとは骨折り損のくたびれ儲けもいいところである。
 狐の機嫌とは対照的にちよの顔は輝いた。

「ああ、やっぱりだ。やっぱりおきつねさまが倒してくださったんだ」

 ちえが言うには、血相を変えて飛びこんできた彼女の勢いに押され、村人たちは朝日が昇ってから森に総出で捜索に出たらしい。そして狐の血痕を発見。それを頼りに崖までたどり着き、崖下の骸を見つけた。そこで村人たちはようやくちえの言っていることが真実であったことを理解したのだった。

「おきつねさま、おかたしけ。おきつねさまのおかげでみんな助かっただ」
「おかたしけ?」

 狐は首をかしげた。この地域は訛りが強くて時おり意味が通じないときがある。
 少女は何度も何度も頭を下げている。どうやら感謝の言葉らしかった。

「はあ、とにかくこれで一件落着だな。では俺は行く」

 狐は背を向けたが、その次の一歩が地につく前に体が後ろに引っ張られた。この感触には覚えがある。忌々しげに振り返ると、昨日駄々をこねたあのときと同じく、ちえが尻尾を掴んでいた。

「おきつねさま、いかねえでくれ。おらたち、おきつねさまのために社たたっただ」

 頼んでいないし、いらない。喉まで出かかった言葉を狐は寸前で飲みこんだ。

「おきつねさま、おら約束しただ。毎日お参りするって。おきつねさまがいなきゃおら約束果たせねえ。あっもしかして気ぃつかっているだ? 大丈夫だ。みんなおきつねさまを迎えいれる準備はできているだに」

 ぐっと狐は押し黙った。まさかここで過去の発言が墓穴を掘るとは。いや待て。ここで流されれば戻れなくなる。直感が警鐘を鳴らしたが、目の前の幼気な瞳が逃げることを許してくれない。

「……一年だけだ。一年経ったら去る」

 気づけばそんな言葉を絞り出していた。ちえはぱっと顔を明るくして狐の手を引いた。

「わかった! こっちだ、こっち! みんな待っているだ」

 嫌な予感は当たっていた。元来、狐という獣は愛情深い性質である。
 今まで孤独だった狐が、感謝されて、喉から手が出るほど望んだ暖かい居場所を与えられてほだされないはずがなかったのだ。
 一年はあっという間に過ぎ、ちえや村人たちの言葉に甘えて、一年また一年と居続けるうちに、いつの間にかただの獣から本当に稲荷神社の使いまで昇格していた。
 山奥の小さな村とはいえ、ちゃんとした社をもち、信仰も集めているということで神たちの集まりに招集されたこともある。元が粗野で卑しい獣だから気が合う者はあまりいなかったが、そこで出会った白蛇の新米神使とは長い付き合いになった。
 ちえは結婚して子どもが生まれても、孫が生まれても足腰が弱くなるまで約束通り毎日お参りを欠かさなかった。狐は気が向けば、時おり彼女の前に姿を出してやって、彼女の話を聞いたり、幼い彼女の子らをあやしてやったりしたものだった。
 彼女はお参りに行けなくなる直前、自分が死んでからもどうかこの村を見守ってくれないか、と頼みこんだ。狐は二つ返事で了承した。
 その後、彼女が地に還ったあとも約束通り狐は村の盛衰を見守ってきた。
 山を拓き村の人間が増えていったときも、鉄機が不気味な音をとどろかせ空を我が物顔で闊歩しても、戦争が終わってから都会に出稼ぎに出る男たちが山道を下っていく後ろ姿も、石炭が薪にとってかわり、村人が一人また一人と消えていく日々も、そして最後の村人がいなくなった日も。
 信仰心を失ったために消滅を待つだけの身になったとしても、ゆっくりと山にのまれていく村の残骸を、思い出と共に見守ってきた。

「お前も、お前もおれをおいていくのか」

 狐は瞼を押し上げた。白蛇は憎々しげに見下ろしていた。陽が落ちる最後のきらめきが真紅に散る。これでヒグラシでもないてくれれば歌として残る素晴らしい光景だっただろう。そんなふざけたことを考えられるほど心に余裕があるのか、あるいはもはや生を諦めたもの特有の静けさか。

「生きていれば、またお前にも友と呼べるものができるだろう」
「だがお前ではない」

 白蛇は鋭く返した。

「私はもう長くない。今日にも消える。それはお前もよくわかっていることだろう」

 無言で白蛇は狐を睨んだ。その赤に穏やかな、それでいて悟ったような奇妙な静けさが漂う自分の顔が映っていた。

「お前は私のことを哀れに思っているようだが、それは違う。ただの化け狐がこんな暖かい思い出をもらえて、最後を泣いてくれる友までいる。これほど幸せなことがあるか」

 しゅうしゅうと白蛇は唸った。獣であればちょうど毛を逆立てていたことだろうか。

「せめて、せめて祟り神にでもなればよかっただろうに……。お前のことを忘れた人間たちに復讐をしてやれば少しは気が晴れただろうに。ただ己の運命を受け入れて消えゆくのかお前は」
「あいにく私には祟るほどの力も気概もなかったようだ。元々単なる野の獣だからな」

 狐は呼吸を整えた。息を吐き出すたびに自分の存在が薄れていく気がする。もはや明日の朝日は拝めないのだろう。

「私はこの終わり方に満足している。友よ、どうか世界を恨んでくれるな。憎んでくれるな。恨むのならばこの村を守りきれなかった無力な私を恨んでくれ」

 白蛇は穴が開くのではと思うほど狐を見つめていた。が、ふいにとぐろを巻くと足元に座りこんだ。

「……夏の終わりとはいえ、夜は冷えるぞ」
「知らん。俺の寝場所は俺自身が決める。お前に決める筋合いはない」

 顔をそらし、白蛇はとぐろを巻いてその中に頭をうずめた。狐は思わず笑みをこぼした。

「何を笑っている」

 笑った気配を察した白蛇が訝しげに狐を見上げた。狐は静かに笑みを深めた。

「いや昔は天涯孤独の己が身を哀れんだものだったが、今振り返るとそう悪い生でもなかったと思ってな」
「……お前は酷いやつだ」

 狐は何も返さなかった。微笑んだまま瞼を閉じる。そして砂がこぼれ落ちていくように己が山に還っていく感覚に身を任せた。


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