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プラマイゼロであれば生きていける-経済的な生と精神的な生は「両立」させないといけないということ。

僕らが生きる上で、お金と安心はほぼ同じだったりする。人生なにが起こるか分からない。万が一を見るとキリがない。だからお金はあった方がよくて、100万より500万、500万より800万…となっていく。

もっともっとと思ってしまう。いくらあっても足りない。月々の収入で経済的にはなんとか生きられる。でも終わりがなくて満足がなくて、日々が苦しいのなら、僕らの精神は生きていない。

毎日をなんとか生きながら、内側から死んでいく。そんなのは、もう終わりにしたい。

物質的には豊かな世界。食べて飲んで住んで、この世界で経済的には(肉体的には)生きていける。でも精神的には生きていないのなら、僕らの世界はまだまだ不十分なのかもしれない。


経済ばかり、精神を置いてけぼりにしやすい僕ら

経済も精神も、当たり前だけれど両方が大事で、片方じゃ足りない。でも一方だけになりやすくて、社会が保障するのも経済的な面で、精神の方は自分でなんとかしてね、という感じがする。

必要なのは両立。安心して生きていけるし、心も充実していること。「豊か」というのは、心や気持ちや精神までを含んだもの。

「経済」はほぼお金のことで、お金だから汎用的で無個性。だから便利。でも無個性なので「あなただから」が満たされない。精神(個性や特有性や独自性)を満たしたい部分も、僕らには絶対にある。

社会制度、セーフティネットはお金の側面ばかりになる。広く人を助ける行政としては仕方ないけれど、でも精神的な部分も救える/掬えることはやっぱり必要だよな。
(そこまで制度化したら精神の自由が…という話はいったん脇に置いて)

マズローの発達段階説で言えば、経済=食べる住む安心ばかり見てしまう僕らは、まだまだ安全を求める段階にいるのかなと思う。全てがお金で回るこの社会の中で、ほしい金額は、際限なく、必要以上に増える。本当は「安全」は既にクリアしていて次の段階に進んでよいのに、終わりなく求めて、精神的なことを満たしていくエネルギーを失くしているのかもしれない。

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上を見るより、下を決めること

経済と精神。両立に必要なのは、上を見ることではなく、下を決めることなのだと思う。

理想の働き方を考えるとき「月収いくらほしいですか?」なんて問いがあるけれど、自分にそう尋ねたって50万とか100万とか青天井になるのが当たり前。それよりも答えを出すべきは「いくら必要ですか?」という問い。

20万…?30万…?とざっくり捉えるのではなく、家賃や食費や光熱費などの固定費(サバイバルな最低限)、交際費やコンタクトレンズ代などの変動費(現実的な最低限)まで細かく正確に計算してみる。

「12万6500円…少し贅沢や貯金をして月17万円…」と見えると、一日1万円の仕事をしたって月17回で、フルタイムより少ない日数で実は十分に生きていけるのだと気がつく。

経済的には最低限ってそれほど難しくない。だから次は、精神的な部分をどう満たしていくか、となる。休みを増やしてみる、仕事の幅を広げる、趣味を始める、”好き”が仕事になるか試してみる(他のところでお金が入るなら”好き”が薄給でも続けていける)…

上限でなく、最低限を決める。最低限が決まると安心する。安心するから精神的な満たされ感が始まる。ここに経済的な生と精神的な生の両立がある。


プラマイゼロであれば生きてはいける

必要な額はいくらなのか。例えば月17万円とする。そしてひとまず、収支はプラマイゼロが実現できればいい。

プラマイゼロって実はすごいことで、なぜならそれは生きていけるということ。時間稼ぎができているとも言える。生きていければ、お金じゃない部分で、経験とか記憶とか関係性とか、何かは積み重なっている。

だからプラマイゼロで良いのです。17万円で良いのです。まずはこれで良いのです。フルタイムじゃなくたって、僕らは生きてはいけるのです。

その上で、じゃああとこれくらいは働こうかなって、自分で決めてしまえば良い。

お金のために働いているような、仕事のために生きているような状態だと、まるで「仕事」が自分より大きく感じられる。けれど生活費をきちんと計算すると「仕事」を自分の中におさめられるようになる。「仕事」と対等でいられる。


自由のために選ぶ。選ぶために計算をする

僕は今「お金」「時間」「世の中の正解」から自由になれてきたように感じています。

仕事も毎日あるけれど、ギターも読書もコーヒーも楽しむ毎日です。毎日が平日で毎日が休日みたい。老後みたいな時間も子どもみたいな時間も、いま既に同時にあって。

軽やかな自由。

「必要な額はいくらなのか」の計算が、僕を下支えしてくれているから。

生きていくだけなら、僕らは実は、週に5日も働かなくても良い。もちろん働いたって良い。どっちだっていいのだと思うと、世間でなんとなく決まっている、フルタイムという「5/7ーななぶんのご」に縛られなくて良くなってくる。

だって僕らの人生って、お金だけでも仕事だけでもない。音楽も好きだし朝はゆっくりしたいし、散歩だって楽しみたい。なのに気付けば仕事ばかりになってしまうから。「ちょいちょい仕事さん、君ももちろん大切なんだけど、他の子も大事だから少しペースダウンしてね」って言ってあげないと。


こうして考えると

自由はけっこう、近い場所にあるんじゃないか。


今の暮らしは悪くないけど、どこかスッキリしない。これをずっと続けていくの?本当に?

そんな心の声がよぎることがあったら。ごまかせなくなったら。

「何か違う」の違和感は、「ほんのあとちょっと」の証かもしれない。僕なりの今の答えが、プラマイゼロで良いという、経済と精神の両立なのです。


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