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建築の機能主義を批判する

機能美という言葉がある

機能的なものは美しいというが少し違和感を覚える。

そもそも道具として利用する時に、物の機能を見る時に、美は意識されない。機能は機能として評価され、同様に美を評価する時には機能は見られていない。機能美の評価をする時は機能は切り離して考えられているように思う。

私は建築家として機能主義的なものの見方には批判的な立場にあり、つまり機能的なものが美しいとか建築には社会性が必要であり、それに応えなければならないといったことには共感できないし、間違っていると思う。

たとえばストラトキャスターというエレキギターの名器がある。一般的に優れた工業デザイン(カッコ良い)とされている。
私はギターを弾くけども、ギターを弾かない人が見てもカッコ良いデザインだとおもう。このギターを例に機能美のおかしさを突いてみようと思う。


Fender Stratocaster


機能的だから美しいというのが真であれば、ギターを弾かない人はこのエレキギターのかっこよさを評価できないことになる。もしくは逆にこのギターを美しいと思えるならばこのギターが機能的であること、つまりギターの使い方を理解しているということになる。

前者については美とはそもそも普遍的な物であり、ギターを弾くというような限定的で、経験に基づくものがその根本にあるのはおかしいし、後者は完全に矛盾している。

機能とはそもそも何か

機能とは社会への順応のことである。目的があり、目的に向かうために機能がある。そしてその目的を規定するのは社会である。社会とはつまり世相や流行である。
先ほどのストラトキャスターの例で説明しようと思う。

ある意味ストラトキャスターは機能的に作られている。ボディのツノはハイポジションを弾く時に指の邪魔にならないようにボディを抉りつつ、立って弾く時にストラップをかける位置にピンがつけられるように伸ばした結果である。体にフィットしやすい形が追求されているし、軽い。

しかし同時に音は扱うのが難しいギターでもある。ネックがネジで止めてあるため音が伸びない。ピックアップがノイズを拾いやすい形式である。プラスチックが音に影響するなどだ。
音の伸びが必要な音楽では使えないギターだけど、歯切れの良いリズミカルなプレイをするには適している。

機能とはこのように求められる目的に応じて評価が変わってくる。建築における機能は、演奏家個人ではなく社会が目的を規定する。ある国や時代では機能的な形が別の状況では違うといったように。

これは経験に先立つ普遍性を有していない。美しいというよりも社会に順応していて有用である。
これのようなことをカントは判断力批判において客観的合目的性とした。
客観的合目的性は多様なものを一定の目的に関係させることによってのみ、概念(経験によって知られること)によってのみ認識せられ得、これを善であるとした。

美の判定は主観的合目的性であり、およそ目的を持たない合目的性を根底する。美は善とは関係ない。
つまりは、そんなものではなくて人間は経験に関係なく美しいものは人間の本性として経験に先立ち、普遍性をもって美しいと判断できるよねということだ。

モダニズムは工業製品を美的判断でどう扱って良いのかということの混乱から起こったのであり、バウハウスの理念は伝統的なものだけでなく工業製品にもある種の美とされるようなあり方があるはずだというところにある。

この抽象的で高度な考え方を避け、安易に工業的である=機能的であろう となり、機能の表現が美なんだとなったのが機能美の考え方である。

抽象的なことに関する感覚を持たずに、機能主義的なところで美を捉えて建築をデザインすると表現としての空間の認識の解像度が低くなる。
解像度が低いと空間を機能としか認識できないので、建築を機能のコラージュとして組み立てる事になる。(居間を居間という機能としてしか捉えられない)

どこに交流スペースがあって、人の流れがここに向くから、このような社会性を・・・といったように機能の名前とその配置の位置で設計することになる。ここには空間の美的な表現は考慮されていない。つまりは機能と空間表現が分けられていない。

ユニバーサルスペース

抽象的な感覚を持ち、空間表現への解像度を高めると表現が機能から解放され普遍的で自由な表現へと昇華される。これがユニバーサルスペースの本来の意味である。
ユニバーサルスペースというのはあらゆる機能を包括し、自由な機能を与えられるという意味ではなく、機能にとらわれずに普遍性を持った表現をした空間であり、機能はその空間に後から当てはめられるということである。

この解像度が低いと所定の機能の充足とデザインの質の区別がつかなくなり、機能の充足度でしか判断できなくなる。つまり善と美の区別がつかなくなり、美学的視点が失われる。 


参考までに『ミース再考』ケネス・フランプトンほか よりいくつか引用する

急進的な合理主義者として、そのデザインを美しい建築に対する熱情によって抑制している。近代建築家として、その理論を、不毛な機能的形式を越えて、のびのび自由な美しさへともたらしえた数少ない建築家に含まれる。

『ミース再考』第一章より
バルセロナパビリオンについて、当時の批評家の一人の言葉


建設芸術(バウクンスト)を精神的表現とすることで、ミースはアレテーが具現する、用途から解き放たれ、必要性の奴隷から解放された実践の違いを厳密に言葉にようとしていたと思われる。

『ミース再考』第四章より
フランチェスコ・ダル・コォ


機能的なものと美

機能美の考え方をこれまで批判的に見てきたとはいえ、機能的な物に美が宿り得ないとは思わない。モダニズムはそもそもがグロピウスの設計した工場の構造からきているし、産業遺跡となった工場の廃墟は美しい。

これは美を目的とせずに機能だけによって作られたものが結果として美しくなったということであり、機能そのものは美の本質では無い。これはこういうことである。

機能的な機械を見る時に、通常は美を意識してみることはないが、機能を切り離して純粋に審美眼にかけた時に、形態としての美しさが浮かび上がってくるということである。機能という目的を切り離し、無目的な物質として見た時に、美が宿るということである。

これは機能的だから美しいのではない。では何が美しいのか、これは純粋な形態として見た時に、美を目的としていないから美しいのだ。意味不明な機械の機構やシステムが、物質として力を持って現れてくるからすごいのだ。
グロピウスの工場も、工場の機能を意図的に忘却し、その手法をさまざまな建築へ転用することでモダニズム的な美にたどり着いたし、廃墟は社会がその機能を規定しなくなった結果建築から機能が失われた結果だ。


大手組織設計事務所はコンピューターでBIMなどを使い、人間が手計算ではできないような演算で持って建築を作っている。今後はAIをもっと有効に使っていくだろう。このような方法で作ったいくつかの建築は、機能を忘れてみた時に、この種類の廃墟や工場に見られる物質としての凄みに迫っていると思う。
この観点から言うと作家性などはもはや意味をもたず、AIによってより遠くへ行くのだと思う

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