失恋_画像

恋という厄介で曖昧なもの

 ここ数年、恋という気持ちがわからなくなってきた。幼い頃は単純に好きな人ができたとき、胸が高揚したり、頬が赤くなる感じがあった。はっきりと相手を異性として意識している感じがあったのだ。

 でも本当にここ最近まで、この人良いなあと感じるとき、その自分の感情が恋なのかどうか本当にわからなかった。不思議に思い、自分でしばらく考えていると、どうやら2つの変化がここ数年であったのだと思う。

 1つは、自分の心境の変化だった。以前は後先考えず、好きになるとかなり積極的だったのだが、今は好意が込み上げてきた瞬間に、その恋がもし成就したときに、その人との関係性がどうなるのかというイメージが押し寄せてくるようになった。自分なんかがあの人のことを幸せにできるだろうかという強い責任感と迷いが生じるようになった。そして何より、そもそも誰かに恋すること自体を恐れるようになってきた。

 もう1つは、恋する相手の多様性が高まったことだった。以前は同級生や幼馴染を好きになることが多かった。単純に、横の関係の人間との接触の頻度が多かったからだけではなく、自分と同年代で、大体同じようなバックグラウンドを持つような人にしか興味がなかったんだと思う。でも、今は歳の離れた方やバックグラウンドが全く違うような方に、好意を抱いたりすることが多くなった。そういう人は往々にして自分とは遠い関係にあって、接触しづらいことやお相手がすでにいることが多く、臆病な自分にはとてもではないが、近づくことさえままならなかった。

 こんな風に自分の心境が変化してくると、誰かに好意を持った時点でその好意を自分の中で否定することが多くなって、次第に恋という感情自体がどこか厄介で、かつ曖昧で掴みづらいものに変わった。何だか自分の中で霧のようなものが漂っている感じがするようになった。

 そんな折、ある言葉を見つけたのだ。それは恋する気持ちを否定し始めたら、もうそれは恋なんだというものだ。それでもう自分の想いを否定することはできなくなった。それからというものの、好意を持った相手がいると、その自分の想い自体を受け入れるようにした。そうするとずいぶんと楽になり、恋という感情のカタチが何となく掴めるようになってきた。



 ここまで読んで頂いて、こんなことを思う人がいるのではないだろうか。”まだ若いんだから、後先考えなくていい”とか、”勇気をもって、自分の想いを告げたら”とか、あるいは”若い間に多くの恋を経験しておけ”とか言う人もいるだろう。実際ここで述べたことを誰かに言ったことはないが、そういう人が周囲にいるので、大体想像できる。

 それらの意見は一理ある。けれども、自分のここ数年の恋という感情は高揚するものではなく、どこか穏やかで暖かいものなのだ。もちろん、この人と共に過ごすことができたり、何ならこうやってずっと話していることだけでもいいというのはあるが、それが叶わなくとも、相手が幸せにしているだけで良いなあという想いが湧くようになった。

 告白したけれども恋が叶わなかった人や、自分の想いを告げられず、チャンスを掴み損ねた人のなかには、自分の不甲斐なさや臆病さを責める人はいると思う。その人達の願いが叶うに越したことはないが、もし叶わなくとも、自分を責めることはしなくてもいいのではないだろうか。だって、誰かに恋しているというその想い自体が、すでにこれ以上ないくらい美しいものだから。そして願いが叶わなかったとしても、自分が恋焦がれた相手のこれからの幸せを祈ることは、僕達にだってできるのではないだろうか。

 

 

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