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仲春の「赤木城跡」(三重県熊野市)【紀伊半島を知る、伝える】

(生まれ育った土地を“故郷”と呼ぶのなら、居を構え、もっとも長く暮らした土地は“地元”と呼ぶのだろう)

令和5年(2023)11月29日、父の三回忌法要を終えたあと、三重県の紀北町(旧・海山町)と尾鷲市にまたがる「便石山」(599m)の「象の背」に立ち、そんなことを思った。

父にとっては紀北町が故郷で、尾鷲市が地元にあたる。

左:紀北町/右:尾鷲市

父の死を機に自らのルーツを意識するようになり、45歳を前にセカンドキャリアについて考えるようになった。

そして「もし将来、紀伊半島に活動拠点を移すとしたら、今の僕がすべきことは何か?」を考えたとき、馴染みのある紀伊半島の東側、三重県の紀北町・尾鷲市・熊野市・御浜町・紀宝町の5市町で構成される「東紀州」も含め、紀伊半島について知らないことが多いことに気がついた。

まずは知ることから始める――何事においても基本だ。

東京で生活しながら情報を収集すべく、令和6年(2024)1月、Facebookの【紀伊半島の魅力を伝えよう】というグループに参加した。

「東紀州」を中心に、同グループに投稿した「紀伊半島」に関する情報や画像を、その時季に合わせて紹介していく。

【紀伊半島を知る、伝える】
仲春の「赤木城跡の桜」

【撮影】:水谷靖彦

仲春の「赤城城跡」

三重県は熊野市紀和町にある「赤木城跡の桜(ソメイヨシノ)」。

「赤木城跡」に行くと、いつも複雑な気持ちになる。

戦国時代、豊臣秀吉による天下統一前夜、弟・秀長が熊野・北山地方で検地を実施すると、これらの地域に住む人々や秀吉の支配に反発する者たちが一揆を起こした(天正の北山一揆)。

この一揆に対し、秀長配下の藤堂高虎は天正16年(1588)から天正17年にかけて討伐・懐柔をおこない、「田平子峠」で一揆参加者363人を斬首した伝えられる。

「赤木城」は高虎が一揆制圧の拠点として築いたとされる城。つまり、この地域に住む人々を抑え込むための城であり、自らの、ひいては秀吉の権力を誇示するための城でもあった。

「赤木城」と「田平子峠」は、平成元年(1989)に「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定され、特に「赤木城跡」は戦国随一の築城の名手・藤堂高虎の事績を示す城として脚光を浴びる。

「田平子峠」付近には、昭和43年(1968)に建てられた「北山一揆殉難者供養塔」があった。

近年、城郭ブームもあって「赤木城跡」が天正期(1573~1592)の城郭の特色を有する貴重な遺構として注目を集める一方で、そもそも、なぜ「赤木城」が築かれたのか?について関心が薄れつつある。

往々にして目を背けがちな地域史の暗い部分、世に埋もれつつある悲しい歴史も心に留めておきたい。 

令和6年(2024)4月3日のFacebookより

【撮影】
水谷靖彦

【撮影日】
令和6年(2024)4月2日

【所在地】
三重県熊野市紀和町赤木

【メモ/雑学】
・「赤木城」は比較的小規模な平山城。
・比高30~40mの丘陵の突端に築かれていた城で、北方と西方を大きな堀で断ち切って周囲に高さ3mの石垣がある本丸を中心に、南東の支尾根に石垣のある2つの曲輪、南西にも石垣のある曲輪を配している。
・現在、建物は失われ、野面乱層積みの石垣などが残る。
・桜の名所として知られ、平成26年(2014)頃からは朝靄に浮かぶ幻想的な景色により「天空の城」とも称されるようになった。
・「紀和町」は、かつて三重県最南端近く、南牟婁郡にあった旧町名で、現在は熊野市の西部にあたる。町名は紀南三村(入鹿、西山、上川の3村)の和を願って名づけられたという。
・板屋地区は、良質の銅鉱、硫化鉄鉱を産する紀州鉱山で知られ、昭和15年(1940)には従業員2700人を数えたという(昭和53年に閉山)。
・丸山地区の斜面に幾重にも描かれた棚田は「千枚田」とよばれ、日本の棚田百選にも選ばれている。その他、熊野川・北山川流域は吉野熊野国立公園の一部で、「瀞峡」(瀞八丁)は国の特別名勝、天然記念物に指定されている。


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