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奥武蔵「顔振峠」と源義経【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
なかでも源義経は全国各地に多くの伝説を残している。
埼玉県の奥武蔵に残る〝義経伝説〟を紹介する。


武蔵野の奥にある山地


武蔵野台地が尽きるあたり、埼玉県の飯能市西部から秩父郡南東部にかけての地域を「奥武蔵」と呼ぶ。
この地名は比較的新しく、第2次世界大戦前に西武池袋線の前身・武蔵野鉄道が観光PRに使ったのが始まり。「武蔵野の奥にある山地」という意味で、戦後の昭和26年(1951)に「県立奥武蔵自然公園」に指定され、広く一般に浸透した。

「奥武蔵」は入間川・高麗川・越辺川・都幾川などの上流域にあたり、有間山(1214m)、棒ノ嶺(969m)、伊豆ヶ岳(851m)など1000m程度の低山や丘陵でできている。
そのため山村集落が点在し、それらを結ぶ峠道がいくつも存在する。なかでも飯能市と越生町の境にある「顔振峠」(500m)は眺望の良さで知られ、幾重にも重なる奥武蔵と秩父の山々の彼方に富士山も望むことができる。

3段-③

「顔振峠」の読み方と由来


「顔振峠」の「顔振」の読み方は「かおぶり」「かうぶり」などいろいろあった。戦後のハイキングブームに一時「こうぶり」や「こおぶり」と呼ばれていたことがあり、現在もそう呼ぶ人が少なくない。

ただ、江戸時代後期の儒者で地誌研究家の斎藤鶴磯が著した『武蔵野話』には、「越生領黑山村に嶺(たうげ)あり。北方より向ふは高麗郡長澤村なり。この嶺をカアブリ嶺といふ。按ずるにこの嶺は秩父山の入口にて嶺のはじまりなり、終の嶺を足が窪嶺といふその頭に有ゆゑ冠嶺(かぶりたうげ)といふ。方言にてカアブリと唱る故に本字を失うとおもはる」とあった。
古くから地元の人たちが「かあぶり」と発音していたこともあり、近年は「かあぶりとうげ」という読み方で統一されつつある。

また名前の由来は「冠嶺(峠)」が転化したものともいわれているが、峠の案内板には「此の峠は昔義経弁慶主従が余り展望のすばらしさに顔を振り振り眺めたので此の名がついたと云われています」とあった。
市川栄一著『奥武蔵の民話』(さきたま出版会)にも飯能市・吾野の民話として「義経と弁慶の顔振峠」が収めれられている。これはどういうことか。

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義経伝説の正体


源義経が歴史の表舞台に颯爽と登場するのは、平安時代末期の治承4年(1180)10月21日のこと。駿河国黄瀬川の陣に兄・頼朝を訪ね、面会を申し出たことによる。
生き別れの兄と劇的な再会を果たした義経は、その代官になるや疾風のごとく西征し、次々と強敵・難敵を撃破、平家を討ち滅ぼして都に凱旋した。
奇跡のような現実に京の人々は熱狂する。彼はまだ20代半ばと若く、色白で少年のような瞳をもち、立居振る舞いに品があり雅びていた。荒々しい気質の、坂東武者らしからぬ雰囲気にも好感を持ったのかもしれない。

文治元年(1185年)に頼朝の反感を買い、都落ちする義経に対して当時の右大臣・九条兼実は、「武勇と仁義においては、後代の佳名を貽(のこ)す者か、嘆美すべし」(『玉葉』文治元年11月7日条)と賞賛していた。
そして4年後、奥州平泉で義経自害の報せが届く。やがて人々の心に「判官びいき」という感情が芽生える。

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よくよく考えると、義経の活躍は黄瀬川の対面から平家追討に活躍した約6年に過ぎない。その前後は雌伏と逃避の謎に包まれていた。都落ちした義経が頼朝の追っ手を掻い潜り、どのように奥州平泉へ辿り着いたのか、そのルートは定かではない。義経・弁慶主従が奥武蔵の「顔振峠」を通った可能性はゼロではなかった。

ただ、いつの時代も民衆は謎を歓迎する。謎多き男の波乱万丈の英雄譚は彼らの心を摑んだ。義経の薄幸で短く儚い生涯に、皆、ある種の親近感を抱いたのだろう。そして民衆が義経に寄せた哀悼と追憶は、長い年月をかけて彼の生涯にさまざまな伝説を施していった。

全国各地に残る“義経伝説”は「願わくは自らの手で助けてやりたかった」という人々の、叶わなかった願いの余韻と後悔の名残のようなものではないだろうか。(了)

※この記事は2020年10月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

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