見出し画像

下野「唐沢山」と藤原秀郷【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了してきた英雄がいる。
彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。
下野国の英雄で、現在の栃木県佐野市の「唐沢山神社」に祀られている藤原秀郷を紹介する。


「道の奥」(陸奥)への入り口

古代日本の律令国家は、全国を「五畿七道」に区分する。
五畿は畿内ともいい、大和国、山城国、摂津国、河内国、和泉国の5ヵ国のこと。その他の諸国は東海道、東山道、山陽道、山陰道、北陸道、南海道、西海道の七道に分けて、都から同名の官道(幹線道路)で繋いだ。

現在の栃木県南部と群馬県はもともと「毛野国(けぬのくに)」という1つの国で、大化改新以前に上下に2分される。都に近い方が上毛野国、遠い方が下毛野国で、大化改新後に下毛野国と那須国が統合されて「下野国」が成立した。
「下野国」は東山道に属し、都から近江、美濃、飛驒、信濃、上野を経て「道の奥」(陸奥)へ向かう官道が通過する。そんな地理的条件もあり、古くから対蝦夷(えみし)政策の軍事拠点として重要視された。

2段-①

「平将門の乱」を鎮圧した藤原秀郷は何者か?

奈良時代から平安時代初期にかけて蝦夷攻略が本格化する。
武力政策の要衝としての役割は当然、「下野国」ほか、近隣の坂東諸国に武装した多くの人々を生んだ。
坂東の地で「武士」という新階層が勃興するのは、常に緊張感を保ちつつ、自らを守るためには武力行使も辞さないという風土が根づいていたからだろう。

平安中期に律令制が崩れ始めると、坂東諸国に土着する国司や郡司が現われる。やがて国司と郡司の紛争や豪族同士の争いを調停する武力集団が登場した。
「兵(つわもの)」と呼ばれた彼らが起こした最大の反乱が「平将門の乱」で、この乱を鎮圧したのが下野掾兼押領使(下野国の警察トップ)の藤原秀郷だ。
後世、坂東では将門が英雄視されたが、都や畿内の人々にとっての英雄は脅威を退けた秀郷にほかならない。その人気と名声は代々語り継がれ、室町時代には将門との戦いを大ムカデ退治に見立てた“俵藤太(たわらとうた)伝説”を生む。

2段-②

中世東国武士の祖

将門の祖父・高望王こと平高望が上総国に下向して土着したように、秀郷の父祖も軍事貴族として東山道の「下野国」に根をおろしていた。秀郷の生年は不明だが、「平将門の乱」のおりには壮・老年に達していたとされる。

では、乱鎮圧前の彼はどんな存在だったのか。延喜16年(916)、朝廷が下野国司に秀郷を流刑に処すよう重ねて命じていた。延長7年(929)には国司が朝廷に秀郷の乱行を止めるため兵士の動員を求めている。
これらは秀郷が反体制的な立場で勢威を振るっていたことを物語っていた。

そんななか天慶2年(939)に起きたのが「平将門の乱」であり、乱の末期に朝廷が苦肉の策として下野掾兼押領使に任命したのが秀郷だった。
秀郷と将門は似たような境遇にありながら、結果的にまったく逆の立場に立つことになる。乱鎮圧後、秀郷は従四位下に叙され、下野と武蔵の両国司、さらに武門の頂点として東北支配にあたる鎮守府将軍をも兼任する。

3段-①

源平に並ぶ武家の名門

現在の栃木県佐野市の東北部に位置する「唐沢山」(242m)は北に日光男体山、東に筑波山、晴れた条件の良いには富士山や東京スカイツリーを望む景勝地だ。
この「唐沢山」に秀郷の居所があったとする伝承があるが、室町時代中期の僧侶の日記に山城に関する記述は残るものの、彼の時代の史料や跡は確認されていない。

ただ、秀郷の父祖は「下野国」の国衙(こくが)に勤める官人で、国衙の所在地は「都賀郡」(現・栃木市周辺)とされる。当時の領主は各地に経営拠点を置いたから、佐野市周辺にも彼の居所はあったのかもしれない。

4段-②

秀郷の死後、子の千晴は「安和の変」(969年)に連座して中央政界から退場するが、その系譜は下野の小山氏、結城氏、佐野氏ほか、奥州藤原氏など全国各地に広がる。

やがて秀郷流藤原氏は源氏と平氏に並ぶ一大勢力となり、秀郷は「武芸の祖」として彼らの心の拠り所となった。その後裔や佐野氏の旧臣が中心となり、秀郷を祀る「唐沢山神社」を創建したのは明治16年(1883)のこと。平成5年(1993)に始まった秀郷の偉勲を讃える「さの秀郷まつり」は、夏の風物詩になっている。(了)

※この記事は2020年11月に【男の隠れ家デジタル】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

4段-③

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?