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恋と学問 第3夜 、もののあはれ入門。

物の哀れについて述べる時、これまではカッコ付きで「もののあはれ」と書いてまいりました。そのわけは単純なことです。この言葉は恐らく、私を含め多くの人が雰囲気で理解した気になっていますが、本当のところは良く分かっていない言葉だからです。このカッコを取り外し、自信をもって「物の哀れが云々」と話せるようになれたら、今夜の目標は果たされたことになります。

手始めに、言葉についての学問である言語学が、この言葉をどのように見ているのか見てみましょう。

言語学者の大野晋さんは、「もののあはれ」という言葉は3つの要素に分けられると指摘します。「もの」と「の」と「あはれ」です。何とも当たり前のことに思えますが、はっきりと分けて考えることで見えてくるものがあります。

モノという言葉はどんな意味を持つのかというと、なかなか難問でして、古代から現代に至るまで変わらない使われ方としては、次のものがあります。

① 物体
② 世間の制約
② 道理・ことわり
④ 動かしがたい事実

①は現代に最も良く用いられる意味なので説明不要でしょう。②は「世の中そんなモノだ、あきらめろ」といった用いられ方をします。③は例えば「あいつはモノ分かりの悪いやつだ」と言う時に使います。

④はモノという言葉の原義、本来の意味に近い使い方です。大野さんは「岩波古語辞典」を作った時に、モノの根本的な意味を次のように書きました。

モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。

変わらない事実。あるいは、避けがたい現実。そこから派生して物体・道理・制約といった意味が生まれました。ならば、源氏物語のように人間同士の恋愛模様にフォーカスした作品におけるモノとは、それぞれの人生にとって避けたくても避けられないモノ、変わることがないモノ、つまり「運命」のことになります。

ノは前後にある名詞の関係を確定する助詞で、AノBと言えば、Bの所属や場所がAにあることを示します。モノ・ノ・アハレと言った場合には、アハレの感情がモノにまつわる感情であることを示しています。

アハレとはどんな感情でしょうか?私たちは中学校や高校で、枕草子と源氏物語を並べて、ヲカシの文学・アハレの文学と習いましたが、ヲカシとアハレはどう違うのでしょうか?先生に教わった通りに、どちらも「趣深い」という曖昧な言葉で訳していた記憶が蘇ります。同じ言葉に訳せるのならば、違う言葉が存在した理由が分かりません。

詳しい説明は省きますが、大野さんは用例(言葉の使われ方)を調べた上で、ヲカシが陽性の感情を、アハレは陰性の感情を表現していると区別します。ヲカシな栄華・アハレな没落というような風に。すると今度は、同じく陰性の感情を表現する言葉である、カナシとの違いが問題となります。

形容詞カナシの語源は動詞カヌと考えられています。この動詞は今でも、「その問題は私には分かりカネます」と言った時に使うことから分かるように、元々の意味は「対象を前にした己の無力」を表現する言葉です。

アハレはカナシと違い、陰性の感情ではありながら「対象への共感」を表現する言葉です。なので、モノとの関わりで言えば、モノガナシとモノアハレナリはニュアンスがかなり異なります。親しい人の死を前にした時、私たちは物悲しいのであって物哀れには思いません。死は共感を許さない厳粛な事実だからです。しかし視点を変えて、親しい人の死に直面して悲しんでいる人を見た時には、私たちは物哀れに思うのであって物悲しくはありません。私たちは無力ではなく、共感の力で悲しむ人に向き合おうとするからです。

以上、大野さんの議論をベースに「もののあはれ」の意味を考えてまいりました。要するに言語学では、モノ・ノ・アハレというように言葉を最小要素に分解した上で、それぞれの言葉の語源や用例などを調べ上げ、意味と意味との関わりを見て全体の意味を知ろうとするのです。その結果、見えてきたものは何でしょうか?物の哀れとは、人が誰しもめぐりあう運命に共感すること、受け入れ、愛することではないでしょうか?

さて、思考のルートは多少異なりますが、本居宣長も大野さんと同じ結論に達しています。紫文要領の本文に、物の哀れがはじめて登場するくだりを見てみましょう。

とかく物語をみるは、物の哀れをしるといふが第一也。物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也(岩波文庫版、33-34頁)

今の言葉に直します。

物語を読むとはどういうことか、一言で言えば、物の哀れを知るということです。それこそが物語を読むという行為がもたらす、最大の経験です。物の哀れを知ることは、物の心を知ることから生じます。物の心を知ることは、世のありさまと人の気持ちのありかたを知ることから生じます。

むずかしい言葉はひとつも使われていません。にも関わらず、大変むずかしいことを、宣長は何とかして読者に伝えようとしています。ここで言うモノとは、人生における運命と、この世における道理、その両方を含んでいます。物体を意味しないのは言うまでもありません。

物語を開くとまず、そこに描かれた人々のゆれ動く気持ちや、彼らが生きる世界のありさまについて知るところから、読書体験が始まります。次いで、読者は自然に、おのれが置かれた世界と生について思いをめぐらせます。「この物語に書かれたことは自分にも当てはまる。自分だけではない。ここに書かれていることは全て、時代も地域も超えて、人が生きるうえで必ず避けては通れない運命の数々ではないか」そのように読者は悟ります。これが「物の心を知る」ことで、言い換えれば「運命の意味を悟る」ということです。

運命の意味を悟った人は、それを哀れと感じます。共感して受け入れようとします。運命を愛すること。それが物の哀れの意味であり、それを知らせるための源氏物語であると、宣長は言いたいのです。

ここまでの話で、物の哀れの大体の意味は分かりました。そこで今度は、前回お話した「恋の闇に迷い、その味を知ることの大切さ」という宣長の主張が、今回の「物の哀れを知ることの意義」という主張へ、どうやってジャンプしたのかを考えてみる必要があります。つまり、恋と物の哀れの関係です。

でも、もう長くなりましたのでまたの機会にしましょう。今夜の目標は果たされたので、ひとまず良しとします。

それではまた。おやすみなさい。



【以下、蛇足】



今回は物の哀れについてのお話でした。とはいえ、これで終わりではありません。物の哀れは途方もなく大きな概念で、宣長はこの言葉ひとつでもって、源氏物語の主題から文学の存在意義まで説明しようとしました。ですから、あくまで今回は「もののあはれ入門」であり、物の哀れのお話はこれからも所々に登場する予定です。

今回も前回と同様、大野晋の『言語と文学の間』を参考にしました。今回紹介した大野の議論は、物の哀れという概念をつかむ取っ掛かりとして、うってつけの材料だと思います。

ところで、筆者が物の哀れを「運命愛」と翻訳した時に、ニーチェのことを連想した読者もおられたかと思います。しかし、ふたりの学問の類似は単なるキーワードの一致にとどまるものではなく、もっと広範囲に及びます。それを考えるには相当の準備と体力が必要です。筆者の本心としては、しばらく触れないでおきたい話題なのですが、いつか触れずには済まされない話題とも思っています。

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