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亡霊考(政治家の死)

源氏物語における霊の現れ方には、ある単純な法則がある。抑圧された感情が一定の閾値を超えた時に、「これ以上は我慢しかねる」といった風に出現するということだ。

六条御息所の霊は二度、光源氏の前に現れている。一度目は最初の妻・葵の上が光源氏の子を出産する場面で。二度目は紫の上の病床で。一度目は、葵祭の観覧席をめぐって、いわゆる「車争い」となり、葵の上が六条御息所の車を押しのけたことを屈辱に感じたことが、生霊を招き寄せた。二度目は、光源氏が紫の上と寝物語をしていた際に、他愛ない思い出話で六条御息所の人柄について触れたことが、亡霊出現の引き金となった。

これだけ見ると、霊の出現と現実世界における言動・行動の間には因果関係があるように思えるが、そうとばかりは言えない。というのも、光源氏が須磨・明石から帰還したばかりの「澪標」の巻で、二人は感動的な再会を果たしており、余命いくばくもない六条御息所は、光源氏に一人娘(のちの秋好中宮)の世話役となることを依頼し、光源氏はそれを喜んで引き受けるといったように、二人に起こった様々な不幸を乗り越えて、和解を感じさせる平和な雰囲気のなかで会合を終えているからだ。その七日後に、六条御息所は死んだ。光源氏は喪主を務めて、彼女を手厚く葬った。

それからおよそ二十年後、またしても亡霊は現れた。これが二度目の出現で、光源氏も秋好中宮も大変驚いて、改めて念入りに供養を執り行うことになる。本件を考えるに、あの再会の時に、「言いたくても言えなかったこと」と「言おうとしたが言うのをあきらめたこと」が、亡霊の出現を準備したと言える。むろん、これも抑圧の一つの形態だから、そこには因果関係があるにはちがいないのだけども、目に見え耳で聞けるような言動や行動だけが亡霊が出現する要因ではない、という事実が重要である。亡霊の本質はむしろ沈黙のなかに宿る。あれを言ったから、または、あれをしたから現れたのではないか、という見当さえつかないのが亡霊の本当の恐ろしさである。亡霊が生前に「何を言わなかったのか」は永遠に謎のままなのだから。

さて、私は本当は、つい二日前に起きた政治家の死について、語ろうとしていたのである。報道に際し私が真っ先に思ったことが、以上に述べた亡霊をめぐる思考だったのだ。

彼は亡霊になるだろう。彼ほど膨大に、「言いたくても言えなかったこと」と「言おうとしたが言うのをあきらめたこと」が、胸の内にわだかまっていた人も居ないだろうから。断っておくが、私は彼の政治信条や政策の是非について、ここにどんな評価も書きこまない。私は純粋に、彼の死を知ってから彼の亡霊の実在感に戸惑い、亡霊出現の条件についての考えを書きこんだにすぎない。

最後に、亡霊の存在についての考えを述べておく。「お前は亡霊などという非科学的なものを信じているのか」と問われれば、私は次のように返すほかない。亡霊の実在・非実在について問うているのであれば、それ自体、誤った設問である。そもそも亡霊の本質は謎であり、謎というものはむしろ、あからさまに実在してはならない。認識の光に照らされてはならない何か。それが亡霊である、と。

大切なことは、亡霊が実在するかしないかの実りない議論ではなく、亡霊の実在感に心身を影響される人間が一定数存在するという、経験的事実のほうである。そういう私はというと、あまり影響されるほうではない。だから、友人から伝えられた次の話を非常に面白く聞いた。

今日は同窓会だったのだが、じぶん以外の参加者が口々に「おなかが痛い」とか「気分がすぐれない」とか言っているので、何が理由かと聞いたら、あのニュースを見てから調子が悪いと。私は全然そうならなかったので、会のなかでずいぶん浮いてしまったと思う

典型的な亡霊のしわざだが、このくらいで済むならまだ良い。彼の亡霊の実在感がしばらくの間、この国全体に猛威を振るうのではないか。私はわりと真剣に恐れている。

2022年7月10日

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