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【やさしい翻訳】本居宣長「紫文要領」結論(中)

(前回からのつづきです)

11.歌と実情

古代の歌人(訳者注:宣長が古代と言った場合、平安時代の初期に成立した古今和歌集の時代を想定している)も、歌に詠むほどの事柄でもないのに、さらに昔の万葉歌人の心情を模倣したり、あるいは、思ったことを強く言おうとしたりして、実際に心に思ったよりも誇張して詠むことがあったはずです。こうした事情は現代の歌人と変わりません。源氏物語にも「よき様に言う際にはよきことのかぎりを選び出して」と書いてあるように、歌も物語も創作のねらいは、物の哀れを深く言うことで、見る人聞く人が深く感じて物の哀れを知ることにあるのですから、古代の歌が作者の実情の反映であろうがなかろうが、それはさほど重要なことではありません。とにもかくにも、その歌の心を学べばよいのです。その心を学ぼうとするとき、物語の心情と古歌のそれとは一致していますから、この物語をよくよく読んで、古代の中級以上の貴族の心情と生活感をよく心得て、自分自身の心を彼等の境涯に重ねて詠むならば、あなたが詠む歌はよくも悪くも古代のそれに異なるところがなくなるでしょう。

12.古代の心に染まれ

いつもこの物語のことばかり考えて、登場人物たちの境涯に己の心を重ねて歌を詠んでいれば、いつのまにか古代の雅やかな生活感やら心情やらが心に染まってきて、自然と己の心が古代のそれと似てくるようになります。その結果、月並みな人間とはかなり違った感じかたをするようになり、月花を見る心も俗人とは異なってきて、よりいっそう物の哀れが深く知られるようになるものです。したがって、歌人がこの物語を読むことは有益であるばかりか、必ず読まないでは済まされないのです。このように私が言うと、この物語を読まずとも、古代のことを学んで歌を詠めば、同じ効果が得られるだろうと思う人があるかもしれませんが、それは違います。器のたとえで述べたように、古代の歌の姿だけを参考資料にして、古代人の心を知ろうとするのは、製作過程を知らずに、完成された作品だけを頼りに、製作方法を当て推量するようなものです。この物語を読んだ上で古代の歌を学んではじめて、その古代の歌が出てきた源泉の感情をよく知るために、古代人の心の本質が明らかになるのです。

13.古代人と親しく交わる

今言ったことを逆に言えば、古歌集の詞書を読むにしても、この物語を読んだことがない人の眼には、よその国の全然知らない土地の話を聞くような感じがして、縁遠く思えるものです。いや、詞書だけではありません。歌それ自体でも同じことです。この感想は、読者が古代の生活感と心情をよく知らないために湧いてきたものです。この物語をよく読んで、その趣を詳しく心得ていれば、一首の古歌、一行の詞書であろうとも、地元の話を見聞きするような心地がして、すぐさま心得やすく、物の哀れもひときわ深く知られるようになります。たとえれば、見も知らない人の身の上話を聞くのと、日頃から睦まじく交わっている友の身の上話を聞く違いです。同じ程度に哀れな話でも、知っている人と知らない人とでは、受け取る印象が大いに異なります。

14.貴族には貴族の心がある

質問がありました。「歌を詠むには古代人の心を知らねばならぬこと。これは分かった。しかし、参考にすべき古代人が中級以上の貴族でなければならない理由が、まだよく分からない。古代人の心でさえあれば、その人の貴賤は関係ないのではなかろうか?どうして中級以上の生活感や心情を知って、自らの心をその境涯に重ねよと言うのか」私は次のように答えました。「前にも言ったことだが、人の心は境涯によって異なることもあるものなのだ。貴族には貴族の心、庶民には庶民の心、僧侶には僧侶の心、俗人には俗人の心、男には男の心、女には女の心、老人には老人の心、若者には若者の心と、それぞれ少しずつ相違点があるものである。当然ながらこの物語も、登場人物の境涯に応じて、それぞれの特徴を書き分けている。心情のみならず、言語も少しずつ変わるので、それもそれぞれに書き分けている。読者はよくよく心を配って味わってほしい。そうした次第であるから、貴族の心と庶民の心とで異なるところがあるのは当然のことである」 と。

15.古今和歌集に庶民の歌はない

歌は思うことを思うままに詠むものだという見地に立てば、庶民は庶民の心で歌を詠むべきだという意見にも一理はあります。しかし、中古以来、歌を詠む際は古代を手本とする決まりになっていて、必ずしも己が今思うことをそのままには詠みません。今思っていないことでも、古代の歌を模倣して詠むべきことは、前に述べたとおりです。そういう次第ですから、今どきの歌はどれも古代の歌人の心になって詠んだ歌です。さて、私たちが手本とする古代の歌集に、最下層の卑しい身分の人々が詠んだ歌はありません。彼等も折に触れて歌を詠んだものと思われますが、今に伝わりません。伝えるべきほどの上出来な歌もなかったのでしょう。今に伝わり、歌集に収められているような歌は、いずれも官位俸禄がある貴族が詠んだ歌ばかりですから、どの歌も彼等の境涯の生活感と心情から生み出されたものであり、月花を鑑賞する心持ちも、恋する心持ちも、庶民の心持ちとは必ず異なるところがあるはずです。そうした歌を手本にして、それを模倣して詠む決まりになっているのですから、必ず彼等の生活感と心情をよく知らないでは済まされないことになります。そして、彼等の生活感と心情を知るのに、この物語をよく読むのにまさる方法はありません。

16.正しく歌う・良く歌う

質問がありました。「庶民は庶民で、己の身の丈に合った心を詠んでこそ、誠実な歌と言えるのではないだろうか?己の分を弁えないで、貴族の心に似せて歌を詠むということは、言ってしまえば嘘偽りを述べることだ。思い上がりというものではないか」私は次のように答えました。「歌の本質を論ずるときは、確かにあなたの言うとおりだけども、よい歌を詠もうとするときは、言葉も内容も必ずよいものを選ばねばならないのは当然である。よい言葉、よい内容を選ぼうとすれば、必ず古代のすぐれた歌を学ばねばならないのは当然である。古代の歌を学ぼうとすれば、古代の中級以上の貴族の生活感と心情を学ばねばならないのも当然である。己自身が思ったとおりに、誠実に、後世の庶民の心でもって歌を詠んでしまったら、よい歌など出てくるわけがない」と。

17.現代の貴族は参考にならぬ

続けて質問がありました。「貴族の心を学ぶべきだと言うのならば、今も堂上(訳者注:藤原定家の血統に連なる歌人の一流派のこと)は実際に貴族であるから、庶民の歌より善い歌と言うべきか?この物語を読むまでもなく、彼等は自然に貴族の生活感と心情を身に付けているはずだ。この点はどうだろうか」私は次のように答えました。「古代の貴族と現代の貴族とを、同列に論ずることはできない。雲の上(宮中)のありさまは、古代からずっと変わっていないことも多く、おおかたは雅やかに古代のありさまが想い起こされるものだけれど、同時に変わってしまったことも大変に多い。鎌倉時代の初期でもすでに、かの順徳院が『ふるき軒端の忍ぶにも』などと詠んでいるのだから、ましてや今となっては、どれほど古代と隔たっていることだろうか。古代には存在して歌に多く詠まれた事柄も、今は絶えて無くなったことも多い。要するに、時の移ろいに伴って風習も変わるし、人情も変わるのは当然である。だから、現代の貴族の詠む歌が古代の歌とは趣が異なっていても、それを奇妙に思う必要はない。以上が、貴族によって詠まれたというだけの理由で、古代の歌と現代の歌を同じようにはみなしがたい証拠である」と。

18.源氏物語が歌の最高の参考書

現代の貴族の生活感と心情を実地に観察するより、この物語をよくよく読んで、古代の貴族の生活感と心のありようを心得るほうが、歌の上達のためによっぽど有益です。この物語を読むと、光源氏をはじめとする、善きことのかぎりを取り集めた古代の人々と、じかに交わって、その姿を見て、その言葉を聞き、そのふるまいに慣れ、彼等の心の奥底まで知り、当時の雲の上(宮中)のありさま、貴族の生活感、折節の行事や節会などまで、つぶさに今見聞きしているかのような体験が出来ます。これにまさる歌道の助けがあるでしょうか?かえすがえすも、歌人が心を尽くして明け暮れに読むべき参考書は源氏物語なのです。

19.源氏の特徴①歴史書との比較

質問がありました。「古代のことを書いた書籍は多く、また古代を舞台にした物語も多いのに、とりわけてこの物語を読めという理由は何だろうか」私は次のように答えました。「そういう書籍は多いけれども、国史の類いは中国の本の構成にならって書かれたものであるから、人情の細やかなところは知られがたい。中国の本と日本の歌物語の関係をたとえて言うならば、『人の家』のようなものだ。中国の本は、人情について触れることが、表向きの玄関・書院のようである。つくろって飾り立てる場所であるから、きらびやかにうるわしくはあるけれども、その家の内々の細かなところは知られがたい。歌物語は台所から奥向きの居間まで通って見るようなものだ。内々の場所だから打ち解けていてだらしないことが多いけれども、その家のありさまが残すところなく詳しく知られるのである。であるからには、人間の情のつくろっていない本当の姿をつぶさに見たいと思うならば、物語を読むのにまさる方法はない。その物語のなかでも、この源氏物語をとりわけて賞美するのは、あらゆる点で他の物語にまさっていて、古今を通じて並びなきものであるからだ」と。

20.源氏の特徴②類書との比較

源氏物語の、他の物語にたいする卓越性については、今さら言うまでもないことであり、古くから数多くの称賛がありますが、私からも付け加えるとすれば、まず文章が見事なので、なおさら感動しやすく物の哀れが深くなります。また、あらゆる事柄について細やかに心を配って詳しく書いてあるがゆえに、読者はそのことを実際に見聞きしているかのように思い、その人に会っているかのような心地がしてきます。よって、ますます感動することが多く、物の哀れが深くなります。また、大長篇であり事の始終を詳細に書き、世の中にあることを広く書いているために、読者はあれやこれやと心を通わして物の哀れを知ることが広く、当時の生活感と心情を広く知り、事の始終を詳細に知ることができますから、ひときわ物の哀れも深くなります。また、あり得ないことを少しも書いていません。常に世の中にあることをなだらかに優しく書いているために、読者は『なるほど、それはそうだ』と思って特に感動が深く、物の哀れも深くなるのです。これらのことは他の物語の及ぶところではありません。この物語がはるかに優れている点です。世の中の風俗や人々の心情などをつまびらかに書きあらわして、人に深く物の哀れを知らせることにおいて、「和漢古今に並ぶものなし」と言っても、およそ間違いはないでしょう。孔子がもしもこの物語を読むことがあったならば、聖典「詩経」を差し置いて、この物語を六経のひとつに数えたに違いありません。儒者は私の主張を誇張とは言えないはずです。・・・その儒者が、本当に孔子の心を理解しているならば。

(つづく)


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