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衣食住の話~服の巻~

衣食住という言葉をインターネットの辞書で引くと、次のように定義されている。

1 衣服と食物と住居。生活をしていく基礎。
2 暮らしを立てていくこと。暮らし向き。生計。「衣食住も思うにまかせない」
(出典:コトバンク「衣食住」)

1の定義は「生活を可能にする条件」ということで、2の定義は「生活それ自体」ということである。この文章では基本的に1の意味で用いる。

つねづね不思議に思うのは、衣服と食物と住居が生活の「三大基礎」であることには、なんら異論がないのだけども、「どうしてこの順番なのか」という点である。とくに、衣服が最初に来る理由が気になる。

前回の「家の巻」では、実家を売らなければならない状況(父の死)から、生活再建の必要に迫られた七年前に、家という空間の意味について改めて考えることとなり、「家とは内密な空間である」という、当たり前と言えば当たり前なことを発見したという話をした。

せっかくだからシリーズ化して、衣服の話もしてみたいのだが、住居のこととは勝手が違い、どのように語ればよいのか考えあぐねている。

というのも、私は衣服というものに何の関心もないからである。いや、むしろ衣服について考えることに嫌悪感すら抱いている。「じゃあ書くなよ」と突っ込まれそうだが、「なぜ衣服に関心を持てないのか」について深掘りしてみると、案外に面白いものが書けるかもしれないと思ったから書いている。

まず一点目、衣服はモード(流行)と関係があること。この時点で気にくわない。流行に合わせたファッションが状況依存的なら、あえて流行に合わせないという選択もまた状況依存的なのだ。その意味で、あらゆる衣服の選択は流行現象の結果なのである。お前は流行を意識しているから反流行的なファッションを選ぶのだろう、と主張できるからだ。反流行的な人も流行から自由になれない。じつは誰も自由に衣服を選択できていない。

二点目。衣服は着用者に「査定」されることへの拒絶の自由を与えないこと。参加は強制で、査定は不可避である。住居と比べてみると分かりやすい。家は内密な空間であると、なんとなく認識が共有されているから、「あなたの家はダサいですね」と言われることは滅多にない。内密であるとは言い換えれば、「私は私・あなたはあなた」(だから干渉しません)ということである。衣服には、この「内密ゆえの不干渉の密約」が存在しない。当方ではまったく衣服を気にかけていないというのに、「あなたの服はダサいですよ」と言明するのは自由とされている。不快である。

三点目。衣服は着用者の意図と無関係にメッセージを発すること。これまた迷惑な話で、たとえば黒い服は死を連想させ、肌の露出が多い服は男女問わずセクシャルなアピールに受け取られる。黒色が好きだから、落ち着くからと言っても周囲は承知しない。あなたのファッションは陰気だと言われれば、その査定を黙って受け入れる他ない。暑いから薄着にしただけだと弁明しても、周囲は聞き入れようとしない。誘惑的なファッションとして槍玉にあげられ、有罪宣告を受ける。

以上の話をまとめれば、次の三項目が「私が衣服を嫌悪する理由」になる。

(1)流行による束縛
衣服の選択は、反流行的な態度を含め、常に流行の反映であり、着用者の自由がないこと。

(2)査定の強制
衣服の着こなしは他者に査定され、それを拒絶する権利が着用者に認められていないこと。

(3)意図しない意味の発現
衣服には文化的および歴史的な意味が含まれており、着用者の意図と無関係にメッセージを発すること。

そろそろ私個人の話をしよう。衣服にまったく無関心な私が好む衣服の傾向は、いわゆる「アメカジ」に分類される格好のようだ。具体的にはジーパンにティーシャツ、パーカー、ダウンジャケットと、寒さの度合いに応じて重ねてゆくだけである。真夏はジーパンの代わりにカーゴショーツを履くこともある。

アメカジを好んで着る理由は、アメリカ文化への憧れではないどころか、アメカジの見た目をカッコいいと思っているからでもない。ただただ、以上に挙げた三点の回避を目的に着ているのである。

アメカジは流行の束縛を受けない。古びない。ということは、「時代性」が感じられないということだ。また、アメカジの査定は事前に予想がつく。「無難だが少々ラフ」と評されるのが相場であろう。そして、アメカジは文化的・歴史的な意味が希薄である。確立してから日が浅いファッションだからというのもあるが、そもそも歴史的な重みを持たないアメリカという国の特徴が、衣服にも反映されている。機能性の優先と無意味な装飾の排除がアメカジを特徴づけている。

むろん、これで難点が完全に回避されたわけではない。反流行的な態度も流行現象の一部だという形で、選択の自由は奪われたままだし、アメカジの査定が安定していると言っても、組み合わせ次第では有罪判決もあり得るし、文化的な意味が希薄と言ったって、「白シャツにジーパンの組み合わせは怒れる若者の象徴」(ジェームズ・ディーンが死んだのはいつの話だ!)というような具合に、意図しないメッセージを発する可能性も無くはないのである。

いやはや。どうしてこんなにもうるさいのか。海外事情に明るい友人が面白い話をしてくれた。

「あなたは衣・食・住について、食の嗜好や住空間については不問とするのに、衣服についてだけ好き勝手に査定してくることに怒りを覚えている。しかし、それは日本人というか、大きく言ってもアジア人とアメリカ人にかぎった話なんだ。ヨーロッパでは今でもハレ(聖なる時)とケ(世俗の時)を明確に分ける文化が残っていて、ケの時の服装については何も気にすることはないと、平気でダサい格好をしている。ヨーロッパ人は他人の服装に干渉しない代わりに、住居にケチをつける傾向にあるが、これはヨーロッパが階級社会であることと関係しているかもしれない。同じように、日本人が服装にケチをつける傾向にある一因には、階級社会でないことが関係しているかもしれない。所属階級にふさわしい格好がある程度決まっていれば、査定の基準はその様式への適合・不適合だけであって、そこまでうるさいことはない。日本の場合、基準が階級社会のように明確でないぶん、どうとでも言える状況になっていて、結果として、他人の服装に非常にうるさく口出しするのだろう」

友人の話に、なるほどその通りだと頷いたが、同時にこうも思った。

やはり衣服のことは付き合いきれん、と。


終わり

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