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恋と学問 第31夜、哀れの花は咲かすに任せよ。

こんばんは。

「恋と学問」と題して続けてきた私の一人語りも、今夜で最終回になります。本居宣長の著作「紫文要領」の結論部分に当たる、「歌人此の物語を見る心ばへの事」の結末を、今から見届けることにしましょう。

まず、これまでの流れをかんたんに振り返ります。結論は「この本の主題は実は歌道論であった」という、衝撃的な宣言で幕を開けました。源氏物語論も、物の哀れの思想も結局、「歌の道」に回収されるのだと言われて、私たちは途方に暮れたわけですが、これは歌が告白を意味し、告白は必ず物の哀れを知ることを引き金にすると解釈することで、整合性を保つことができました。歌の起源について論じることが、そのまま「物の哀れ論」だったのです。(第29夜「告白は歌にのせて」)

続いて、「歌うときは古歌を模倣すべきこと」という主張が飛び出して、私たちは再び混乱しました。歌は内面の暴露を本質にしているのだから、素直な感情の表現であるべきではないか?湧いて当然の疑問ですが、「感情の劣化」と「感染的模倣」というキーワードの助けを借りて、古歌の心に学び、自ら歌うことは、感情が劣化した私たち現代人の、リハビリテーション(機能回復訓練)を意味することを明らかにし、混乱を収拾しました。(第30夜「感情のリハビリテーション」)

以上を踏まえて、今夜お話する結末に入ります。どんなことが書かれているか?細かな議論はあとにして、一気に終わりまで見通してしまいましょう。

ざっくりと言えば、結末に置かれた議論の趣旨は、「源氏物語の主題を儒仏の説に引き寄せて理解しようとすること、すなわち牽強付会への批判」です。・・・おいおい、本論で語られたことの繰り返しじゃないか!(第20夜「夢から生まれた怪物たち」)

そうとも言えますが、少し意味合いが異なります。さすがに結末に置かれるだけあって、宣長の思考も一歩先に進んでいます。

本論での「牽強付会批判」は基本的に、儒仏の説を道徳論とみなした上で、物語における善悪は道徳に関わらないことを主張しようとするものでした。文学の領分を道徳のそれから切り離して、文学の独立的な地位を確保するための議論でした。儒仏の説は、心のよき部分と悪い部分を分別し、よき部分を育て悪い部分を抑えることを目標にした、「人間性向上のプログラム」である。物語はそんなことには一切関わらない。よき部分も悪い部分も共に人間の心なのだから、その全体を偽りなく描き、読者に共感を求めることだけを目標にしているのだ、と。(第21夜「動く心を何が救うのか?」)

結末においても、今述べたような議論が繰り返されます。そこに目新しいものはありません。しかし、そのあとに宣長が出した比喩によって、議論は格段に前進します。

少し長くなるのをいとわず、結末の文章を全文引用します。

教誡の事は、外にいくらも其の方の書籍がおほくあれば、物遠き此の物語を借るには及ばぬ事也。此の物語を戒めの方に見るは、たとへば花を見よとて植ゑおきたる桜の木を切りて薪(たきぎ)にするがごとし。此のたとへをもて心得べし。薪は日用の物にてなくてはかなはぬ物なれば、薪をあししとにくむにはあらねども、薪にすまじき木をそれにしたるがにくき也。薪にすべき木は外にいくらもよき木有るべし。桜を切らずとも薪に事欠く事はあらじ。桜はもと花を見よとて植ゑおきたれば、植ゑたる人の心にもそむくべし。又みだりに切りて薪とするは心なき事ならずや。桜はただいつ迄も物のあはれの花をめでむこそは本意ならめ
(岩波文庫版「紫文要領」183頁)

【現代語訳】
道徳の事を知りたければ、いくらでもその方面の書籍があるのですから、わざわざ遠回りして源氏物語の言葉を借りるには及びません。源氏物語を道徳論の方面に寄せて解釈することは、たとえて言うならば、誰かが「花を見てもらいたい」と願って植えておいた桜の木を、薪(たきぎ)にするようなものです。どうか、この比喩で分かってください。薪は日用品で生活必需品ですから、まさか薪それ自体を「よろしくない」と嫌って憎むわけではありません。薪にするのにふさわしくない桜の木を薪にしたことを憎むのです。薪にすべき木は他にいくらでもあります。わざわざ桜を切らなくても、薪に事欠くことはありません。桜は元々「花を見てもらいたい」と願って植えておいたものなのですから、そんなことをしたら植えた人の心に背くことになります。みだりに切って薪にするなど、心ないしわざではないですか?桜はただ物の哀れの花を咲かすのを、いつまでも愛でるのが本質なのであります

これが「紫文要領」最後の言葉です。

ここでは、源氏物語の主題を儒仏の説に牽強付会することを、「桜の木を薪にすること」によって比喩しています。ただの美文と見てはならない、きわめて新しい視点です。というのも、本論ではあくまでも、道徳から独立した文学固有の地位を主張していただけですが、薪の比喩を出した瞬間、儒仏の説は道徳論の枠を超えて、「実用性」の象徴となり、宣長の議論は道徳批判から実用性批判へと歩を進めたからです。

考えてもみてください。「芸術の実用性」などというものがあると思いますか?極端な例を出すなら、「罪と罰」の出版直後に、模倣犯が現れて事件を起こすと、作者ドストエフスキーは小躍りして喜んだそうであります。ことほどさように、芸術家の創作活動は実用性を考慮して行われるものではありません。

復習になりますが、光源氏は「善き人」であると、一貫して作者の紫式部は描いているのですけど、それはまさか不倫を肯定しているのではなく、物の哀れを知り尽くした人として、その存在を肯定しているのです。人間の心を全面的に表現しようとする文学の仕事にとって、光源氏のように、己の感情を全面的に表出する人物の登場は、必然的に要請されることでした。(第17夜「女ほど生きづらい物はない」)

実用性の観点から源氏物語を見れば、社会にもたらす害毒はおびただしいと言わなければなりません。光源氏タイプの人間が巷にあふれたら、社会秩序が崩壊しかねない。というように、文学は道徳に関わらないのと同様に、実用性にも関わらないのです。

いや、関わらないどころか、文学は「非実用」に重きを置くのです。何の得にもならない恋愛とかいうものに、人生における至上の地位を与えるように。なぜか?端的に述べましょう。世界は、世界に生きる私たちの生は、実用性の論理によって貫かれていますが、その実用的な世界を構築し、その中で生きようとする「意欲」とか「活力」とかいうものは、実用性の論理自身が供給できるものではなく、恋愛を始めとする「非実用」の論理からしか調達できないからです。もっとかんたんに言うならば、実用性の世界を支えるもの、実用的な世界が成立するための条件は、「非実用」の領域にだけ存在するからです。

さらにかんたんに言いましょう。豊かに生きるために、私たちは常日頃から、実用的な環境を整えるべく、必要な配慮を怠りません。それは家族だったり地域だったり国家だったりします。しかし、「豊かに生きたい」だとか、「充実した生活を送りたい」だとかいう、根っこにある欲求は、実用的な環境を整備するだけでは満たされません。実用的な環境は欲求充足の必要条件であっても、充分条件ではないのです。

まだ足りない。もっと、もっと、かんたんに言いましょう。恋愛感情とは、当たり前ですが、誰かのことを好きになることです。好きにも色々あって、浅い深いの区別がありますが、行き着くところまで行き着いた恋愛感情は、「あの人のことが好きだから私はまだ死なないでいる」とまで思わせます。誰かのことを好きになることに、いかなる善悪も、いかなる損得計算も関わりません。「誰かのことを思うと夜も眠れない」という状態に、どんな利益も道徳もありません。この不眠の意味を合理的に説明することは不可能です。しかし、「あなたと一緒にいるために生きていたい」という感情がなければ、利益と道徳で染め上げられた実用的な世界の何処に、生きがいを求めたら良いのでしょうか?

恋愛を始めとする非実用的な感情の領域が、実用性の論理に貫かれた生活世界で生き抜くための、「意欲」と「活力」を与えるとは、今述べたような意味です。

恋を学問の対象にした本居宣長。学問と言えば儒学と仏教、道徳論と実用論を指した時代に、非実用的ではあるが、感情を持つ人間にとって、それなしに生きてゆけないような、私たちの「生存条件」としての恋愛の価値を発見した。この視点は今もたいへん新鮮で、現代の闇を照らし出す光を放ち続けています。

誇張ではありません。なぜならば、この現代においては一般に、実用性の有無が人間の価値を測る唯一の基準であるかのごとくみなされており、それが私たちの「精神の荒廃」と「充足感の不在」をもたらしているからです。

身近な例をひとつ。

杉田水脈議員の「LGBTは生産性がない」との趣旨の発言。
(杉田水脈『「LGBT」支援の度が過ぎる』、『新潮45』2018年8月号、57-60頁)

この発言、逆に言えば、人は子供を生むことではじめて生産性があり価値があるということになります。しかし、生産性と言おうが、実用性と言おうが同じことですが、子供という「未来の労働者」を産むことによって「労働力の再生産」を行うことでしか社会国家に貢献できない人のことを、マルクスは「無産労働者」(プロレタリアート)と名付けたのであり、本人に自覚があるかは知りませんが、これはまさにマルクス「資本論」の人間観の引き写しです。

むろん、マルクスは「人を実用性の有無で値付けしてはならぬ」と言ったので、杉田発言とは真逆の主張になります。この主張を、日本で最高のマルクス研究者だった宇野弘蔵は、「労働力商品化の廃絶」の一言で、鮮やかにまとめてみせました。

もちろん社会主義をやるのには、計画経済をやらなくてはならないのでしょうけれども、核心は何かというと、労働力商品化の廃絶、つまり人間の能力を商品化しないということで、そういうことが資本主義を社会主義に変える根本の目標であり、その点は経済学の原理で与えられると思うのです
(宇野弘蔵「資本論に学ぶ」ちくま学芸文庫、2015年、54-55頁)

労働力を商品として売らざるを得ないのは資本主義社会の否定できない現実ですが、それを杉田議員のように唯一の価値基準であるかのごとく振りかざすのは如何なものか?それでは奴隷の思想です。杉田議員の主張を拍手喝采する人も少なくない現実を見ると、私などは非常に暗い気持ちになります。杉田議員の主張、「人間の価値は実用性の有無で測られるべきだ」を肯定できる人間は、一体どのような人生を送って来たのか、と。

身近な例をもうひとつ。

現代のリアルな恋愛はどんなものでしょう?幸いにも私には今、結婚を願う女性の友人がいます。いわゆる「婚活アプリ」に登録していて、その中から将来の夫を探しているようです。

彼女のことをサンプルにしてしまうのは申し訳ないのですが、話を聞いていると、婚活アプリは妙なところがあり、属性(趣味・学歴・年収など)を見て、男女がお互いを「良いな」と思って、はじめて「マッチング」して、そこからようやく最初のデートに発展するようです。

正直に申し上げれば、この手順は、ものすごく不自然に思います。少なくとも私は、人を好きになるのに相手の「属性」など考慮したことはありません。学歴や年収などはどうでもよくて、私が恋をする時は、相手の属性ではなく、相手の「存在感」そのものに惹かれるものがあって、恋に発展してきました。そうして好きになった人が、属性において特別劣ったところがあるのを後から知ったとしても、その時は「私の見る眼がなかった」と反省したら良いだけのことです。経験によって見る眼は磨けるからです。この方法(存在感から好きになる)のほうが、属性から好きになるよりよっぽど「納得感」があります。いや、「諦めがつく」と言ったほうが適切なのかもしれない。学歴や収入といった、相手の「実用性」において好きになっても、相手の存在感を好きになれなければ、どうにもなりません。早かれ遅かれ限界が来ます。

相手の悪口を方々に言い触らしながら、みじんも別れる気配がない「おしどり夫婦」がよくいますが(芸能人でいうと大竹一樹・中村仁美夫妻が典型です)、あのテの夫婦は相手の属性にケチをつけながらも存在感が嫌いになれない以上、別れないでしょう。逆はあり得ません。いかに年収があって、高学歴だろうと、相手のまとう「存在感」に対する不快感は、どうにも我慢できません。

要するに、恋愛は日用品の購入とはちがうのです。恋愛対象を実用性(共通の趣味、高収入、高学歴など)の観点から選ぶということは、実用性が減少した時に救いがないということと同義です。

「今まで恋をどうやってして来たか、もう忘れてしまった」と、先ほどの彼女は言います。この言葉は不正確だと思います。恋は堕ちるものであって、自らするものではない。いったん堕ちてしまったのを制御できないように、自らの意思で発動できるものでもない。恋とは、知らない内にその渦中にいて、後追いで自身の現在の状態を、「私は今、恋している」と名付ける以外になくなる状況のことです。人の知力が及ばない、運命の作用です。私たちは恋に翻弄されますが、しかし、そこには「生きるために必要な活力」という貴重な養分が含まれているために、私たちにとって欠かせない「人生の伴侶」です。

こうした恋が持つ性格に、古代も現代も、江戸時代も令和も関係ありません。婚活アプリは「恋の作動様式」を無視した形式で交際を斡旋しようとするので、そこから恋に発展するには多くの困難がつきまとうとは思いますが、形式の弱点など問題にならないほどに強い、運命の力に翻弄されれば良いだけのことです。考えてみれば、いつだって恋は幾多の障害を乗りこえて成就してきました。かつて親の取り決めに従わざるを得ない時代には、恋のために死を選ぶ男女すらありました。宣長も、同じような事情で世間の非難を浴びました。それでも、恋は止められない(第22夜「走り出した足が止まらない」)

話を戻します。本居宣長は、こうした「人生に占める恋の位置」について、「紫文要領」で徹底的に考え抜いたわけですけど・・・そろそろ、こんなことを言う人が現れる気配が感じられます。

「おい、宣長さんよ。恋が大事なのは分かったよ。でもな、いい歳していつまでも惚れた腫れたは情けないのではないか?若いうちは良いが、いつかは卒業すべきなのじゃないかい?いい歳になったら恋愛など忘れて、実用の世界にどっぷりと浸かって、たくましく生き抜くものなのじゃないのかい?それとも、生涯青春を謳歌しろってか?冗談がキツいぜ」

宣長になり代わってお答えしましょう。

「馬鹿言え。先ほども述べたとおりだ。恋は人生の至高の価値を有する。一定の年齢を超えたら卒業しなければならぬ道理などない。恋は人生に生きがいを与える。生きがいのない人生など生きながらすでに死んでいる。恋は人が一生涯取り組むべき、精神の活動である」

ここで、宣長は話題を方向転換するでしょう。

「しかし、だ。あなたの言うとおり、異性を対象にする恋は、いつまでも続けられない。運命の異性は、そう多くいるはずもないし、生殖能力の減退という肉体の制約が、異性に対する恋愛を不可能にするからだ。ところで、恋愛の対象が異性に限られるなど、一体誰が決めたのだろうか?」

事実、宣長は「紫文要領」を完成させたその年(西暦1763年)の5月に、終生師事することになる賀茂真淵と一度きりの対面を果たし、翌年入門。真淵の指導を仰ぎながら日本最古の歴史書「古事記」の研究に取りかかります。35年の年月を費やして、69才の時に代表作「古事記伝」が完成。2年後に死去しました。

「古事記」は神話です。神々の戯れです。人間の恋愛模様を描いた「源氏物語」とは毛色が全く異なります。しかも、「古事記伝」という作品には、熱烈な「日本信仰」があります。学者たちは西暦1763年という年に、宣長の転換点、もしくは「変節」を見ます。「恋愛の探求者が狂信的なナショナリストに変貌した?」というわけです。

そんなわけはありません。宣長はビタ一文変わっていない。自然に考えればよく分かることです。ただ恋の対象が変わっただけではないですか。異性に対する恋を学問の対象として「紫文要領」を書き上げた宣長は、ついに「古事記伝」で学問自体を恋の対象としたのです。「恋の学問」から「学問への恋」への成長発展が、宣長にとっての西暦1763年の意味でした。

このこととよく響きあう言葉を2つ紹介します。宣長もこよなく愛した古代中国の英雄、孔子の言葉です。

子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
(「論語」岩波文庫、1999年改版、117-118頁)

【現代語訳】
あるとき孔子がおっしゃった。
「ある対象を知るということを突き詰めてゆくと、その対象を好むということに行き着く。しかし、それで終わりではない。ある対象を好むということを突き詰めてゆくと、その対象と楽しむということに行き着くのだ。これが本当の知るということ(学問)である」と。

子の曰わく、吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
(同177頁)

【現代語訳】
あるとき孔子がおっしゃった。
「恋をするように学問する者を、私は未だに見たことがない」と。

恋をするように学問した人、本居宣長。孔子が宣長を知ったら、彼のような人こそ、本当の学者であると言うでしょう。そして、彼が成し遂げた仕事こそ、本当の学問であると言うでしょう。

今夜の話をまとめます。

恋という、非実用的で、損得勘定に合わない、善悪を度外視した、不思議な心の働きが、私たちの生きる道を、明るく照らしてくれる。恋はあたかも、哀れな桜の花びらのようなもので、その散るさまを、いつまでも眺めることに、意味なんかない。でも、桜を美しいと感動できる間は、まだ私たちの心は死んでいない。豊かな心を失くしていない。そう、信じることができる。このことにまさる、困難な人生を渡るための秘訣があるだろうか。恋は恋自体に独自の価値がある。桜は桜自体に独自の地位がある。だから、哀れの花は咲かすに任せよ。恋の価値を証明するのに、理屈は無用である。

このように主張した全く独自の思想家、本居宣長についてのお話でした。

私からは以上です。

長きにわたるご静聴、ありがとうございました。


【完】


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