ちょうどそこへ、ギルバートが果樹園を抜けて現れ、アンは眉をひそめた。近頃では、彼と二人きりにならないように心がけていたが、
今、彼につかまってしまったのだ。（中略）ギルバートは、アンと並んで丸い石に腰をおろし、メイフラワーを差し出した。
「この花を見るとふるさとのことや、学校の懐かしいピクニックを思い出さないかい」
アンは受けとり、花束に顔をうずめた。（中略）

「気持ちのいい夕方ね。今日は向こうのあの曲った木の下に、白いすみれが群れをなして湧いていたの。まるで金鉱を発見したような気がしたわ」
「君はいつも金鉱を発見しているんだよ」ギルバートは言った。
彼もまた上の空で。
「もっと咲いているか、見に行きましょうよ」アンはあせって持ちかけた。「フィルも呼ぶわ、それから・・・」
「アン、今は、フィルも すみれも、どうでもいいんだ」
ギルバートは静かに言うと、アンの手を握りしめ、離さなかった。
「話があるんだ」
「言わないで」アンはせがむように叫んだ。「だめよ・・お願い、ギルバート」
「僕は言うよ。もうこのままではいられないんだ。アン、ぼくはきみを愛してる。きみもわかっているだろう。ぼくがどんなにきみを愛しているか、言葉では言えないくらいだ。いつの日か、ぼくの妻になると、約束してくれるかい？」
「それは・・・できないわ」アンはみじめに答えた。「ああ、ギルバートったら・・・もう・・・何もかもぶちこわして」
「ぼくのことを少しも愛していないのかい？」
「ええ・・・そういう意味では。友人としては大好きよ。でも愛してはいないわ」
「ぼくに希望をくれないのかい？いつかぼくを愛してくれると・・・いつかは」
「無理よ、できないわ」絶望のあまり声が大きくなった。「あなたを愛するなんて、絶対にできないわ・・・そういう意味では・・・ギルバート、二度とこの話はしないで」
ふたたび沈黙が訪れた＿＿＿それはあまりに長く、あまりにいたたまれず、ついにアンは顔を上げた。するとギルバートの顔は唇まで青ざめていた。そして彼の瞳は＿＿＿アンは身をふるわせ目をそむけた。そこにロマンチックなものなど何もなかった。求婚とは、グロテスクか、あるいは＿＿＿ぞっとするようなものでしかないのだろうか。ギルバートのこの表情を、いつか忘れられるだろうか。
「ほかに誰かいるのかい？」最後にギルバートは低い声でたずねた。
「いいえ・・・まさか」アンは一生懸命になって言った。「そんな意味で好きな人は、一人もいないわ・・・世界中の誰よりあなたが好きよ。ギルバート。私たち・・・これからも友達でいましょう」
ギルバートはかすかな苦笑いをもらした。
「友だち！友だちじゃ満足できないんだ。ぼくは、アンの愛がほしい・・・それなのにきみは、絶対に無理だというんだね」
「ごめんなさい、許してちょうだい、ギルバート」アンはこう告げるのが、やっとだった。いったいどこへ行ったのだろう。空想のなかでいつも求婚者たちを断りあきらめさせた、あの精錬されて優雅な受け答えの数々は。
ギルバートは力なくアンの手を離した。
「アンに悪いところなど、何もないよ。きみは僕を愛してる、そう思った時もあったけれど、ぼくの思いすごしだった、それだけのことだよ。さようなら、アン」
　アンは部屋へもどった。松の枝がかかる窓辺の腰かけにすわり、泣きくずれた。計り知れないほど貴重な何かが、人生から消え失せた気がした。それはもちろんギルバートとの友情だった。それをなぜこんな形で、失わねばならないのだろう。
「ハニーどうしたの？」月夜の薄明かりの中へ、フィルが入ってきた。
アンは答えなかった。このときのアンはフィルが千マイル彼方にいればいいのにと思った。
「ギルバート・ブライスを断ってきたんでしょう。馬鹿ね、アン・シャーリー！」
「愛してもいない人の求婚を断るのが、馬鹿なの？」無理矢理、答えさせられたアンは、冷ややかに言った。
「アンたら、自分の目で愛を見ているのに、わからないのね。愛とはこういうものだと想像の中で創りあげて、現実の愛もそんなふうに見えるはずだと思いこんでいるのよ。この私が、生まれて初めてまともなことを言ったわ。どこからひらめいたのかしら」
「フィル」アンは頼んだ「お願いだから出ていって、しばらく一人にさせて。私の世界はひっくり返って、粉々になったの。それを立て直したいの」
「ギルバートのいない世界を？」そう言ってフィルは出ていった。
ギルバートのいない世界！　アンは、その言葉を愁い顔でくり返した。
それはあまりにわびしく、荒涼とした世界ではないだろうか。ああ、すべてギルバートがいけないのだ。彼が美しい友情を台なしにしてしまった。これからは、彼との友情なしで生きていくすべを身につけなければならないのだ。

背が高く、美男で、ひときわ上品な顔立ち＿＿黒々として愁を含んだ謎めいた瞳、＿＿＿心とろける音楽のような感じのいい声＿＿（そしてガードナー家と言えばヴァスコアシアで一番裕福で 由緒ある貴族の家柄　文章補足）
まさにアンの夢描いてきたヒーローが、生身の肉体をまとい、目の前に立っていたのです

港の見える海岸の小さなあずまやで、ロイはアンに結婚を申し込んだ。二人が初めて出会った雨の日、言葉を交わした場所だった。彼がここを選んだ心づかいを、アンはロマンチックに感じた。プロポーズの言葉はうるわしく（中略）非の打ち所がなかった。真心もこもっていた。ロイが本気で言っているのは疑いようもなかった。美しい調和を乱す軽率な言葉づかいもなかった。アンは、自分が頭からつま先までときめいているはずだと思った。だがそうではなかった彼女は恐ろしいほど冷静だった。ロイはアンの答えを待った。アンの唇が、運命を決めるイエスを言わんとして開いた。
　その時＿＿＿アンは自分がふるえているのに気づいた、断崖からよろめきながら後（ず）じさりでもするように、ふるえていた。一筋のまばゆい光がひらめいて、これまで生きてきた歳月に学んだ以上のことを一瞬に悟ることがあるがまさしく、その瞬間がアンに訪れた。彼女は、ロイからわが手を引き抜いた。
「私、結婚できません・・・無理です。・・・できません」アンは激しく叫んだ。

グリーンゲイブルズへ戻ってからの数週間、人生には、大きな喜びの後に失望が訪れる自然の法則があるのではないかと、アンは感じていた。パティの家の愉快な仲間たちが恋しかった。この冬の間、まばゆい夢をいくつも思い描いていたが、それが今や彼女の周りで朽ち果てていた。と言って自己嫌悪に苛まれている現在の心境では、またすぐに新しい夢を追いかける気にもなれなかった。そしてアンは気付いたのだ、前途に夢のある孤独は輝かしいが、夢の失われた孤独は空しいものだと。

 「最初から容体が悪くて、ひどく衰弱しているとお医者も言ってね。正規の看護婦を雇って、打てる手はすべて尽くしたんだよ。アン、そんな顔しないでおくれ。命さえあれば望みはあるからね」

彼方の海岸では大波がくだけ、雷鳴のごとき とどろきに空気が震えていた。そして今、ギルバートは死の淵をさまよっているのだ
　聖書に天啓の書があるように、誰の人生にも、天啓の書がある、アンは、大嵐と漆黒の闇のなか、苦悩に一睡もしなかったこの痛恨の夜、天の啓示を受けたのだった。私はギルバートを愛してきた！　それが今、わかったのだ。自分の右手を切り取って投げ捨てられないように、自分の人生から、苦痛を覚えずにギルバートを切り離すことなど不可能だ。だが気づくのが遅すぎた＿＿息を引きとる彼の枕元で、私は苦い慰めを得ることすら、もう間に合わないのだ。自分がこれほどかたくなでなければ、＿＿あんなに愚かでなければ＿＿今頃ギルバートの元へ行けただろうに。ギルバートは私が愛していることを知らずに＿＿私に好かれなかったと思いながら、この世を去っていくのだ。ああ、私の前には、希望のない空しい歳月が続くだろう！　アンは窓辺にうずくまり、朗らかな若者の生涯で、初めて自分も死にたいと願った。ギルバートが、一言の言葉も、身振りも伝言さえも残さずに自分から去っていったら、私は生きられないだろう、彼がいなければ、何もかも無意味なのだ。私は彼のものだ、彼もまた私のものだ、それを苦悩の底で、アンは確信した。ああ、私はなんと愚かだったのだろう。昔からギルバートと自分を結んでいた きずなに気づかなかった＿＿ロイ・ガードナーへのいい気な
うぬぼれを愛だと思い込んでいた。そして今は、私は、罪を罰せられるように自分の愚かしさの代償を支払わなくてはならないのだ

　アンは柳の下に立ちつくし、深刻な恐れが去ったあとに訪れる
人生の強烈な甘美を味わっていた。その朝は、もやと神秘の美に満たされた幸福の杯のようだった。傍らの一角には珠のごとき朝露をのせた薔薇の花々が新しく咲き開き 恵みの驚きをアンにもたらした。頭上の大枝に小鳥たちが歌い、さえずりは流れ、アンの心情に調和した。実に古く、実に真実にして、実にすばらしき書物の一文が、アンの唇に浮かんだ。
「たとえ夜もすがら泣こうとも、朝とともに歓びが訪れる」
 

ギルバートが訪れるとアンは彼を待ち受けていた。
アンは夜明けのようにすがすがしく、星さながらに美しかった。彼女は緑のドレスをまとっていた ーレッドモンドの歓迎会で、ギルバートがとりわけ好きだと言った古い服だった。
その緑は、アンの髪の豊な色合い、星のごとき灰色の瞳、アイリスのようにきめ細かい白い肌を引き立てていた、ギルバートは、森の木陰の小道を歩みながら、横目でアンを見やり、こんなに愛らしい姿は見たことがないと思った。アンも、ときおり目のはしで彼を見ながら、病気をして、ギルバートはなんと大人びたのだろうと感じた。少年時代が永遠に去ったようだった。
よく晴れた日で、道ゆきは美しかった。（中略）
遠いあの日、ダイアナ、ジェーン、ルビーと四人で、夢のようなピクニックに出かけて、この庭を見つけたときと変わらぬ美しさだった。あの日は水仙とすみれが咲き乱れていたが、今は、秋のきりん草の花が、妖精の松明を立てたようにすみずみに輝き、アスターの青い花が庭を点々といろどっていた。白樺の谷間から森を流れる川のせせらぎは昔と変わらぬ魅惑の声で呼びかけ、やわらかな空気には海からの潮騒が、かすかに響いていた。さらにかなたへ目をやると、幾夏もの陽を浴びて銀灰色にあせた木柵に囲まれた牧草地が広がっている。
遠くへつらなる丘は秋の雲が影を落とし、西風がそよ吹き懐かしい夢が蘇ってきた。
　アンは静かに言った。「『夢がかなう国』それは遠くの青いかすみになかでしょう、あの小さな谷にむこうの」
「アンに、かなわない夢などあるのかい？」ギルバートがたずねた。
その声には何かーパティの家の果樹園での、あの胸の痛む夕暮れより聞くことのなかった響きがありーアンの心臓が高鳴った。だが彼女はさりげなく答えた。
「もちろんよ。誰だってそうよ。夢がすべてかなう人はいないわ。それに夢を見ることがなくなったら、人は死んだも同然よ。ああ、なんていい香りでしょう。傾いていく西陽がアスターと羊歯を照らして、匂いが立ちのぼっているわ。匂いは、かぐだけでなく、目にも見えたらいいのに、きれいでしょうね」
だが、ギルバートは、ここで話をそらされたりはしなかった。
「ぼくには一つの夢があるんだ」ゆっくりと言った。
「かなうはずがないと、いくども思いながら、それでも胸に抱き続けてきた。ぼくはある家庭を夢見ているんだ。暖炉に火が揺らめき、猫と犬がいて、友の訪れる足音が響き・・・そして、きみがいるんだ！」
　アンは答えようとしたが、言葉が見つからなかった。幸福の波が押し寄せ、こわいほどだった。
「二年ほど前、ぼくはきみのある質問をしたね、アン。もしも今日、また同じ問いかけをしたら、ちがう返事をくれますか」
アンはまだ何も言えなかった。しかし数えきれぬ過去の人々と変わらぬ愛の陶酔に輝く目をあげて、しばし彼の瞳を見つめ返した。その答えでギルバートは充分だった。
　二人は、古びた庭を黄昏が覆うまで、帰りがたい思いでとどまっていた。それはエデンの園の薄暮もかくありき、というほど美しい夕暮れだった。話題も、追想も尽きなかったーー二人が語ったこと、したこと、聞いたこと、思ったこと、感じたこと、そして誤解していたこと。（中略）
「きみに愛せないと言われてから、しばらくは何もかも、どうでもよかったんだ。他には誰もいなかった・・・ぼくには、きみしか考えられなかったんだ。アンが学校でぼくの頭に石板を打ちつけて割ったあの日から、ずっときみを愛していたんだ」
「よく愛し続けることができたわね。私ったら、あんなにお馬鹿さんだったのに」
「ああ、あきらめようと努力したよ」ギルバートは素直に打ち明けた。
「きみをそんなふうに思ったからではなく、ガードナーがあらわれて、ぼくにはチャンスがないと思ったんだ。でもあきらめられなかった。・・・この二年間が、ぼくにとってどんなものだったのか、言葉につくせないくらいだよ。きみはガードナーと結婚すると思っていたし、毎週のように、お節介な連中が、アンの婚約発表は間近だと言うんだ。それを信じていたんだよ。熱が下がって起きられるようになった、あの幸せな日までは。フィル・ゴードン・・・今はフィル・ブレイクだね・・・彼女から手紙が来て・・アンとロイは何でもないから、『もう一度、試してみろ』と書いてあったんだ。それからというもの、ぼくがみるみる元気になって、「医者も驚いていたよ」
アンは笑い、それから身ぶるいした。
「あなたが死んでしまうと思った夜のことは忘れなれないわ。あのとき、自分の気持ちに気づいたの・・・そのとき、わかったのよ・・・でも、間に合わないと思った」
「間に合ったんだよ、愛しい人。これですべて報われたんだ。今日の日を、大切な一日として、生涯、大切に守っていこう。ぼくらに贈り物をくれたのだから」
「今日は、私たちの幸せの誕生日ね」アンは優しい声で言った。
「へスター・グレイのこの古い庭は前から好きだったけれど。これからはもっと愛しい場所になるでしょう」
「だけどアン、長く待ってもらうことになるよ」ギルバートは申し訳なさそうに言った。
「これから医学部を終えるまで三年間。しかも三年経っても、ダイヤモンドの宝石も大理石のお屋敷もないんだよ」
アンは笑った。
「宝石も大理石のお屋敷もいらないわ。あなただけがほしいの。こうした点にかけてはフィルも同じくらい常識はずれなのよ。宝石も大理石のお屋敷も、すばらしいでしょうけれど、ない方が『想像の余地』が広がるわ。それを持つことは何でもないわ。その間も私たち、幸せなのよ。お互いのために待って働くの・・・そして夢を思い描くのよ。これからは、いろいろな夢も、甘いものになるのね」
ギルバートはアンを抱き寄せ、口づけをした。愛の婚礼の国にて戴冠された王と王女は今までで最も美しく咲いた花々にふちどられた曲ゆく小道をたどり、希望と追憶をふくんだ風がそよ吹く、懐かしい草地をこえて歩いていった。

娘盛のアンは、多くの男性から求婚されます。もっとも、未だに恋の恋する年頃のアンは異性にも、求愛にも現実離れした甘い幻想をいだいています。理想の男性像とプロポーズの言葉は、なんとも少女趣味で、また麗麗しいものです。そうした女の子らしい幼さ、初々しいはにかみの一方で、アンも同級生の女子学生たちも、年若い娘ならではの春のおごりとうぬぼれも、そなえています。
ギルバートからの求愛、御曹司ロイヤル・ガードナーとの出逢いと交際などアンが様々な人物との交流を通して傷ついたり泣いたり、逆に相手を傷つけたりしながら、本当の自分を理解するようになり、自分にとっての幸福な暮らしとは何か、何が自分の人生にとって大切なのかを悟っていく。これは誰もが通る大人への道すじであり、こうしてアンも大人になっていくのです。

本作には、アンが生家に行く印象的なエピソードがあります。
生まれてすぐに両親と死に別れ、父母の顔さえ知らずに育った子供の頃のアンは、自分は親のいないみなし子だというよるべなさと孤独を覚えていました。そんなアンが、ありし日の両親が、堅実な家庭を持ち、仲睦まじく暮らした家を訪れ、母が自分を産んでくれた人生の出発点となる部屋に入り、母の魅力的な人柄がしのばれる手紙を読み、手書きの筆跡に触れて、自分の父と母が確かにこの世に生きていたことを初めて実感します。そして自分より若かった母が自分を心から愛してくれたこと、短い命を立派に生きたことを知るのです。アンは自分はもう孤児ではない、やっと父と母に出会ったのだとフィルに語ります。
生家をその目で見たアンは、自分の人生の出発点が、朝日の輝きと愛と祝福に満たされていたことを悟ります。それは自分の人生を力強く肯定するために必要不可欠なプロセスであり、これもアンが大人になるための大切な経験だったと言えましょう。